第四章 蛇と百足と執着

一 恩返しの湯煙

 夏の海を離れ、一月以上。秋になりつつあれどまだ残暑が辛い頃合い。

 濃い緑の中に混ざる鮮やかな色が増えていく。もうすぐ豊かな実りが山を覆い、それを求めて生き物も忙しくなるだろう。


 信太郎と永は、また山に入っていた。次の目的地も決めずになんとなく気の向いた方へ。

 相変わらず文句を言いつつも楽しそうな妻に旦那は微笑ましく相槌を打つ。


 その先で物音がした。

 警戒しつつ足早に進めば、鷹である。何かを狩って捕食しようとしていたが、二人の気配を感じて頭上へ逃げていく。

 後には山椒魚が残されていた。


「よし、川に帰してやろうか」

「代わりにわしらが食えばよかろう」


 信太郎が言えば、永が不機嫌そうに否定した。

 声の強さを妙に思いつつ信太郎はたしなめる。


「海で手に入れた旨い保存食がまだある。わざわざ獲って食うまでもないだろう」

「食ってはならん理由もあるまい」

「何故そうもかたくななのだ」

「こやつが好かんからじゃ」


 永は反対したが、睨まれつつも信太郎は山椒魚を抱えあげた。

 無言の圧を感じつつ川へ運び、そっと水中へ下ろす。清らかな流れに身を浸した山椒魚は喜んでいるように見えた。


 そして先を急ごうと立ち去ろうとした、その後ろ姿に、かけられる声があった。


「あ、あのう……」


 振り返れば美しい女性と目が合った。おっとりした印象で黒い着物。何処か不思議な雰囲気がある。

 つい先程山椒魚がいた、その場所に忽然と現れたのだ。


「ほれみい。じゃから止めよと言うたのじゃ」

「……さっきの山椒魚か」

「は、はいぃ……その、本来なら改めて恩返しに伺うのですが、はじめから分かっておられるようなので……」


 山椒魚は永の気迫に押されたらしく、おずおずと答えた。予定を狂わされた困惑と恐れが混在している。

 つまりは嫁入りする類の妖怪だと察したのが好かない理由だったのだろう。


 報恩譚や婚姻譚など、動物が人に化ける話は多い。

 狐や狸に蛇が有名だが、鳥や魚、果ては蛙やタニシまで。あらゆる生き物が人に化ける可能性があるのだ。


 信太郎が納得していると、永はよよよ、と嘆く小芝居をし始める。


「わしは悲しい。妻がある身で他の女を囲おうとはのう」

「そんな事をするものか」

「口ではなんとでも言えるがの。やはり皺だらけの山姥よりぴちぴちした山椒魚が良いのじゃろう?」

「思ってもない事を。おれが永以外の女を好む訳がない」

「んん? つまりは? どういう事じゃ?」

「永が一番だ」


 わざとらしい永に信太郎はハッキリと告げた。

 他者の前で遊びに付き合うのはどうしても照れるが、遊びでも疑われるのは心外だった。それに本音は本音だ。


 そんな夫婦を、山椒魚は顔を両手で包んで恍惚とした顔で見ていた。


「わあぁ……素敵なご夫婦なんですねぇ。あたいも真っ直ぐ好いてくれる旦那様がほしいですぅ」


 こうもじっと見られては、信太郎としては居心地が悪くなる。しかし永の方はここぞとばかりに寄りかかってきた。

 溜め息を吐きながら腰に手を回すと、すこぶる機嫌が良くなる。これも夫の務めかと呑み込んだ。


 山椒魚はひとしきり夫婦を眺めた後、思い出したように提案してくる。


「あぁ、恩返しをしないとですねえ。ええ、でしたらご夫婦が一緒に楽しめる素敵な場所をお教えしましょうかあ」

「ふむ? 言うてみい」

「はいぃ。近くにですねぇ、それはそれは素晴らしい温泉があるのですよぉう」






 山椒魚に教えられた通りに山中を進めば、山奥に似つかわしくない立派な屋敷があった。

 大きな門。整った庭。豪華な造り。夏に見た潮目屋の屋敷にも引けを取らない。

 そんな建物は、やはり不自然である。


「……これは、迷い家の一種か?」

「ふむ。人が作った家ではないの」


 二人は怪しいモノを見定める。

 宿としては申し分ないどころか、極上。中へ入った者に福を与える話もある。

 一応警戒しつつも、期待を込めて門を潜った。


「他に人はいないようだな」

「細々した妖怪はおるようじゃがの」


 妙な音は辺りから響く。人ならざる気配も無数。当然山中の鳥や獣の鳴き声も多かった。

 だが、やはり立派な内装も居心地が良く、建物自体が怪しい存在であるという点に目を瞑れば贅沢な宿であった。




 温泉は人が整えたような岩風呂だった。これもまた迷い家の一部か。

 白く濁った湯。残暑でかいた汗を流すにも丁度良い。

 永が先に入っていた狸と猿を追い払い、奇妙な音や気配も散らして、静かな場を確保。二人でゆっくりと浸かる。

 夫婦揃ってほうと息を吐いた。


「ほ。良い湯じゃ。あの山椒魚も良い仕事するわい」

「ああ、生き返る心地だな」


 横に並び、岩にもたれる。心地良い熱さが身を包んだ。

 高い空、彩り豊かな景色。そして互いにかけがえのない夫婦。

 極楽の幸福である。

 

 しばらく無言で湯を楽しんだ後。

 永はニヤニヤと笑いながら、湯を滴らせる手を信太郎の目前へと伸ばしてきた。艶めく肌は光るようで、目が吸い寄せられるようだ。


「どうじゃ。妻の体は美しかろ?」

「ああ。大層美しい」

「ほう。殊勝な心がけじゃ。照れずにもっと褒めるがよいぞ」

「傷がないな」


 信太郎は濁り湯の向こうにある裸身を見つめる。

 見惚れる艶めかさだが、それ以上に、確かめていた。

 視線はかつての戦いの記憶を正確になぞるっていた。安心した息が吐き出される。


 永もすっと笑みを抑えた。夫の意図を正確に読み取り、遊びを控える。

 信太郎に刻まれた傷を、繊細な手つきで愛おしそうに撫でてゆく。


「……主はまた傷が増えたの」

「これぐらいどうという事もない」

「あまり無茶をするでないぞ。わしが生かそうとしても、主に死に急がれては敵わん」


 優しい目つき。真剣な声音。永は乞うように願いを告げた。


 人でなしは死をもって罪を償うべきではないのか。そうすべきだ。

 初めはその強い覚悟があった。


 だが。地獄に落ちるまでは、幸せでもいい。そう言われ続け、納得し、普段はそう信じようとしている。永との日々を大切にしている。


 それでも、戦いの場になれば話は別だった。いざとなれば自らの傷は躊躇わない。戦闘で、自らの献身で他者を救えるのなら、進んで捧げる。

 人でなしより、優先して生かすべき命はある。

 元より自己犠牲を是とする性分ではあったが、罪悪感が更に強めた信念は、未だに重く残っていた。


 信太郎の奥底を見抜かれている。


「己への罰は程々にしておけ。生きてこそ償える事もあるじゃろう。……わしに、寂しい思いをさせてくれるな」

「……ああ。胸に刻もう」


 いつになく真剣。深い情を示した表情から目を離せない。かすかに甘えた声に、応えずにはいられない。

 信太郎は撫でている永の手を取り、握った。


 湯に負けない熱が、胸に満ちる。

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