十一 荒波にこそ生きる

 宝のように青く、見渡す限りに続く広大な海。時に恵みをもたらし時に災いをもたらす、生と死に満ち溢れた、異界ともなり得る領域。

 その主、海神に連なるモノが、今。


「あ、このままじゃあ話しにくいですね。失礼致しました」


 うっかりしていた、とおどけた笑顔と口調で言い、巨大な人魚はあっさりと並の身長の人に化けてみせた。

 珊瑚の髪飾りに青い着物。朗らかで温かな印象の美人だ。つい先程、恐怖を振り撒いたモノと同じ存在とは思えない。

 その姿に目を見張り、しばし硬直する勺二郎。はっとして、視線をさ迷わせるも、しかし結局は目を離せない。見つめ合う二人は、その視線だけで会話しているようだ。


 察した海坊主は距離をとって縮こまり、家族水入らず。そのはずだが置いてきぼりなのが娘の波花である。混乱のままに騒ぐ。


「ねえ、説明してよ母様! この人が……」

「ええ。この人があなたの父親なのですよ」

「……そうだ。すぐに言わなくて済まない」


 真相を明かす二人。だがその顔は対照的である。母はにこやかだが、勺二郎は事ここに至っては隠せないと諦めただけで、不本意なのが丸分かりだ。

 ただ、そんな心情は子に関係無い。人と人ならざるモノの子は、うつむき囁く。


「……そう。そうなんだ」


 彼女は嬉しそうにはにかんでいた。混乱が収まり、少女らしい可愛げのあるものとなっている。

 その姿を愛おしそうに見た勺二郎は、しかし急に顔付きを変えて立ち上がり背中を向けた。


「……これで失礼する。顔を見られて良かった」

「は!? ねえ待ってよ! 折角会えたのに!」

「駄目だ」

「どうして!? ずっと会ってみたかったのに!?」

「そうですよ。どうしてわたしたちから逃げるのです?」


 口々に父へ詰め寄る母子。真剣な問いかけは、去り行く足を止めるのに十分だった。

 振り返ってそれぞれに目を向ける勺二郎。その顔は悲しげに歪んでいた。声も震えてかすれた、涙声だ。


「……海の底での暮らしは好きだった。だが自分は、両親と会う為に陸へ帰った。長年暮らし、最期を看取りもした。そうして心残りは無くなった」


 本心からの語り。遠くを見る目からは確かな幸せが窺えた。

 その幸福が、物悲しく曇る。


「だがそれから……お前のところに戻ろうとしたのに、海が拒絶したんだろう」


 冷たく、暗い目。かつて経験したのであろう、人に牙を剥いた海が映る。

 深い深い、恐怖と絶望の嘆きを、衝動のままに吐き出す。


「泳いでも潜っても辿り着けず、力尽きては溺れて、なのに死ねずに苦しみ、気付けば浜へ打ち上げられた。それの、繰り返しだ。かといって呼んでも叫んでも海から上がってこない。……なあ、陸へ帰ったおれが、許せなかったんだろう? だから苦しめるんだろう?」


 声が震える。顔が青い。心の傷跡が外に溢れて他人にも苦しみを伝播している。空気が冷え、娘もまた呆然としていた。


 人魚の肉を食えば不老不死になる。

 という事は、人魚には、人へ不老不死を与える力があるという事。ならば人魚の性質も持つ海神の娘と結ばれた男は、食わずとも同様の加護を与えられる場合が有り得るか。実際、先程受けた致命傷が消えていたのもその効果だろう。

 ただ、それは呪いともなり得る。苦しみから逃れられないのだから。

 砂に膝を付き、旦那は頭を下げる。


「悪かった。悪かったから……おれは許さなくていいから……この子は許してやってくれ……」


 ひたすらに痛ましい。

 ボロボロに傷ついても娘を案じる親心も、こうまでされては良いものには見えない。狂おしい執着か、あるいは贖罪か。

 だが。


「そんな事ない!」


 大きな反論は娘からだった。

 潤んだ瞳で、必死に思いを訴える。


「母様は父様を悪く思ってなんかない! いつも嬉しそうに話してて、だからわたしも会いたくなったのに!」

「……っ」


 信じられない。

 そう言わんばかりの、それでも小さな希望を見て震えが止まった父。

 そこに優しく近付くのが、母。同様に膝を付き、苦しみの滲む顔で肩に手を乗せた。


「はい、謝罪すべきはこちらの方ですよ。あなたに苦しい思いをさせてしまいました。真に、申し訳ありません」


 優しげに寄り添い、穏やかに語りかける。


「陸ではそれ程の時間が経っていると思い至りませんでした」

「……は?」


 間抜け面で呆ける勺二郎。

 思わぬ形でのすれ違い。それを受け入れられずに固まっている。


 海神が住む海中の城となれば、そこは異界だ。

 迷い家。隔世。山中の秘境にも、人里の只中にも存在し得る。外部と隔絶されたその場所は、時間の流れもまた異なる場合がある。

 ましてや、人と人でないモノでは、その時間感覚は違う。意志疎通はそもそも難しい話なのだ。必然的に生じた悲劇なのかもしれない。

 そうであるとしても、受けた苦痛は計り知れない。落ち度がないのなら、尚更。到底受け入れられないだろう。

 ただし、苦痛よりも大きな感情があれば、話は別か。


 勺二郎はぼろぼろと大粒の涙を流す。唇を震わせながら、熱い目で相手を見つめ返した。


「……まさか、いいのか? まさか、また、お前と一緒にいられるのか?」

「あなたこそ、苦しませたわたしを憎んでいないので?」

「憎むなんてあるもんか! 許してくれるのなら、また、一緒になりたいさ!」

「……ええ。あなたが望むのなら」


 互いに許し、求め合う。

 飾りなく言葉を交わすその様は、まるで只の人間の家族のよう。

 そこに、弾んだ声の娘も加わる。


「……本当に、そうなの? 父様と暮らせるの?」


 顔は涙に濡れ、声は不安定に揺れ、それでも彼女は幸せいっぱいに笑っていた。


「ずっと、不安だったの。私達が嫌いなんじゃないかって。望まれてなかったんだって。でも、そうじゃないんだ」

「ごめんな」

「ごめんなさい」

「謝らないでよ。今、わたし、幸せなんだから」


 泣きながら笑い、ひっしと強く抱き合う三者。

 配下の海坊主も祝福する。

 これぞ人情話の華というような、家族それぞれの思いに溢れた美しい場面であった。





 その様子を離れたところから静かに見る者が、二人。


「……永よ。どうしてそう、つまらなそうな顔をするのだ」

「事実つまらぬからに決まっておろう」

「また不機嫌なのか? あの微笑ましい空気にどんな不満があるというのだ」

「あれは、あの者らでのみ通じる空気じゃろうが。見せ物でもなし。赤の他人が見て良い思いをするのは筋違いじゃ」

「……ふむ。それは、確かに」


 永の理屈に納得してしまう信太郎。なので一家から目を離し、景色を眺めて待つ事にする。

 そこで不機嫌の矛先は旦那に向けられた。


「それより、じゃ。主は時間をかけすぎじゃったな。妻一人に任せて何をしておったのじゃ」

「用心棒は片付いたが、潮目屋がなかなか見つからなくてな……」

「こちらに来ておったぞ間抜けめが」

「面目ない」


 素直に失態を認める。ばつの悪い顔をしつつも、苦労に報いようと真剣に向き合った。

 屋敷の中を探し回る無駄足は、潮目屋を危険な前線に出てこない人間だと推測したが故に踏んでしまった。回避出来たはずだと反省する。やがては自ら出向いたと思い至り急いだが、追いついたら既に終わった後だった。

 そしてつい先程、顛末は一通り聞いた。

 どう立ち回ればいいかと悩んでいたが、結局は全て海神自ら解決してしまったのだと。


「もう大丈夫だと思うか? 今度は更に金を使った大規模な手段をとる事はあり得るか?」

「奴は人並み以上に執着が強い。あれだけの呪いを食らおうと諦めんかもしれん。ただ、確かに他の人間には恐怖が深く根付いた。生け贄は速やかに突き出されるじゃろう。金より命が惜しい人間の方が多いからの」


 酷薄な笑みが似合う永はやはり山姥だった。その予言ならば、未来は確定も同然だろうか。

 悪いが情けをかけようとは思えない。信太郎は全てを救おうとする善人ではなく、人でなしなのだ

 安心したところで、更に意見を問う。


「では、あの一家の生活は上手くいくと思うか? 勺二郎殿は陸を捨て海に生きるとしても、問題が多いはずだが」

「さて、の。あ奴ら次第としか言えんわ。また喧嘩をこじらせて離れ離れになるかもしれんの」


 不吉な発言は永らしい。しかし彼女は突き放すというより、彼らを信じているような、強気の微笑みを浮かべていた。

 そんな風にじっと見つめる横顔を見て、思う。


「もしや、羨ましいのか?」

「ほ。それは主の方ではないかえ? 他人に押し付けるとは浅ましいの」

「……ああ、かもしれぬな」

「そうかそうか。わしとの子を望むか」

「……罪人が幸せな家族を望むとは。前は恥知らずな望みだと考えていたはずだが、おれも意外に思っている。いや、手に入れてはならぬから焦がれるのか」

「ならばよく見ておけ。幸せな家族など、ああも恥ずかしいものじゃ。恥知らずなぐらいでちょうどいいとは思わんかえ?」


 妖怪の理。美しく笑いかける妻の誘いは甘美で魅力的で、そして真っ当だ。欲に従って生きるのは生き物として当然である。

 これも悪くない。浸っていたい。人でなしなりの幸せを、噛み締めていたい。罪以上に救いさえすれば、胸を張ってもいいのだろうか。


「む。奴らが来るぞ。褒美をたんまりくれるじゃろう。楽しめそうじゃな」

「そうがめつくな。失礼だ」

「それだけの働きはしたはずじゃ。あれだけの大妖がケチ臭いと思っておるのなら、それこそ失礼じゃろうて」

「ふむ。確かにあの手の大物は気前が良い場合も多いな。では期待しようか」


 夫婦は並び、海の一家からの感謝を迎える。晴れやかな声音、それから熱い感情表現は、夏の日差しにも負けていなかった。

 あまりの熱量は永がたじろぎ、押されかける程。そこで信太郎が腕を回して支えれば、小さく甘い声が返ってきた。夫婦としての、ささやかな対抗である。


 人と、海神に連なる妖怪と、彼らの娘。奇妙な家族の形は、それだけ世界の懐が広い事を示している。

 平和な海に、平和な家族。

 それがいつまでも在り続ける事を、信太郎は願う。







第三章 人魚と尋ね人 了

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