九 海への逃避、海からの逃避
城下町の中を、目立つ見た目の逃走者が駆ける。
勺二郎と池から連れ出した神社姫を両脇に抱えて疾走する永だ。顔におかめの面を被っての、人間離れした全力である。
その後を追い、また待ち伏せするのは人相の悪い荒くれ者達。棒、小刀、思い思いの武器を掲げ威嚇してくるが、所詮は素人。山姥の相手ではない。軽々とかわし、嘲笑うように跳んで踏みつけながら進んでいく。
ただ、一方で気にかかる事も。
誰もが目を向けてしまうような荒事のはずだが、騒ぎ立てる者はいない上に取り締まるべき人間すら出てこないのだ。潮目屋の影響だろうが、予想以上に大きい。
永はうんざりして愚痴を溢したいのを我慢し、猫を被って喋る。
「どうやら町ごと買い占めたようですね。真昼ならば人目をはばかるだろうと思いましたが、これでは面倒です」
「それならおれを置いていってくれ! 神社姫だけなら逃げられるだろう!」
「面倒、と言っただけで、不可能な訳ではありません。この程度ならば逃げ切ってみせます。それに、もしあなたを人質に人魚との交換を要求してきたら結局手間になるでしょう」
「おれなら切り捨てて構わない」
「傲慢ですね。それを決めるのはあなたではありません」
強く、言い聞かせる口調。小刀を構えて突っ込んできた男を見もせずに蹴っ飛ばしつつ、きつい視線でも訴える。
わずかに怖じ気づいた勺二郎だが、すぐ負けじと見つめ返してきた。人の熱意が宿る瞳には本音が感じられる。
立派な思いは結構。それでも的外れでしかない。
永は面の下で顔を歪め、溜め息を吐いた。
実際、永にとっては邪魔なだけの荒くれ者よりもこちらの方が厄介ですらある。
もう一人の同行者、神社姫もそうだ。現在は完全な若い女性の姿。暴れて自分の足で走ると言い張ったが遅かった。あまりにも厄介なので少々小突いて眠ってもらっている。いくら人に化けられると言っても、やはり陸地には適していなかったのだ。
これなら屋敷に残って用心棒の相手をした方が良かった。
しみじみと思う。腹いせついでに走る速度をぐんと上げ、高く跳んで屋根に上った。
見晴らしと風通しが良ければ、多少は気が紛れる。
しかし陽射しが熱くなってしまったので、勺二郎の抱える位置を脇から肩に変え影にした。これで少しは涼しい。彼がどう思ったかは知らないが直接の抗議はない。
邪魔者達も見えなくなって随分と楽である。
このまま町を抜け、海産物を運ぶ街道に出てしまえば潮目屋の手下は完全にいなくなるはず。海までの障害は数少ない。
これなら暇潰しに話をしてもいい。
「さて、勺二郎殿。そろそろ人魚とどのような関係か言うべきではありませんか?」
屋根上で事の真相へ切り込む。他愛ない世間話の調子で。
当の勺二郎は気まずそうに目を逸らした。
「……ただ恩があるだけです。それだけですよ、本当に」
「その嘘に何の意味があるのです? 既に私達は把握していますよ。ただ、確認しておきたいだけです」
「……それなら胸に秘めても変わらないんじゃないですか」
「そうはいきません。これはお代です。神社姫を助けるという願いの代金です。払って頂かないと困ります」
ぐ、と言葉につまる勺二郎。永の淡々とした台詞は説得の余地が無いと知らしめてもいる。
断れない、断ってはいけない要求と観念したか。やや間を空けてから口を開いた。
「……人が悪い」
「知っているでしょう。私は化け物です。この神社姫と同じように。悪くて当然でしょう」
話している内に足元の屋根が尽きた。
軽々と飛び降り、静かに着地。町を離れて竹林と川を望む無人の道を進んでいく。
「今なら誰にも聞かれませんよ。この娘も、確かに失神しています」
「まさか、その為に?」
「いえ、単純に煩かったので黙ってもらっただけです。あと個人的にいけ好かないという理由もありますね。ついでに言えば、その匂いがついたあなたも」
永がしれっと言ったのは、単純に自分本意の発言。他人に好まれる要素は無い。
しかし言われた勺二郎は、何やら嬉しそうな顔をしていた。
「同じ匂いがしますか。自分から? 本当に?」
「まあ、そうなりますか」
予想済みだった永はさらりと流した。ただ、妙に晴れない声では完全に納得はしていないのか。
その理解し難い相手の方が、急に顔色を変えて慌て出す。
「いえ待って下さい。それに気付いているのはあなただけですか。それとも」
「これは知りませんよ。海のモノですし匂いに敏感ではないでしょう」
「それなら良かった」
「ただ、薄々勘づいてはいるかもしれませんね。元々それが目的で海から上がってきたのですし」
周囲の景色が代わりゆく中、信太郎と永が推測した神社姫の目的を整理する。
そもそも。彼女が海から上がり、人に絵を描かせて広めたのは何故なのか。
予言や御利益は方便。適当な口実だろう。
本当の目的は、自分の絵姿を広める事で、ある人物に自分の存在を見つけてもらう事。要は人探しだ。
それも、何処にいるかも、どんな顔かも分からない人物。自分からでは探せない相手を、相手の方は見覚えがあるはずだと信じて。
永達が潮目屋を引き寄せたように、向こうから探してもらう為に。
だから本物そっくりになるまで何度も描き直させたのだ。
だからより多くの人目につく可能性を優先し、潮目屋の手の者に付いていってしまったのだ。
これが、導き出した真相である。
「やはり、そうでしたか。この子も……」
「気に病んでいるようですが、そんな必要はありませんよ」
「病みますよ勿論。自分のせいで危険な目に逢ったんですから」
「親心、ですか。それが」
「そんな事言えませんよ、とても」
暗くなっていた勺二郎が、永の言葉で更に目を伏せ、自嘲げに微笑んだ。乾いた笑いは、己の過去を否定するようでもある。
そう。彼と神社姫は親子だ。
わずかな可能性に頼る程執着する相手、となれば候補は限られる。ましてや海中に暮らす人魚が求めるとなると、更に。
勺二郎の怪しい言動と合わせて考えると、答えは明らか。
海の姫が求めていたのは、詳しい事情までは知るよしもないが、母と結ばれた後に陸地へ帰ってしまった父だった。
であるからこそ、母の面影が残る自身の顔が唯一の繋がりであったのだろう。
海中の女主人と人間の色恋。
似たような話は国中のあちこちに伝わっている。神代の時代からあり、浦島太郎もその一つ。
妖怪よりも海神に近いのであれば、その力も自尊心も強いだろう。その彼女が会いに来た。執着の深さと重さが窺えるというものだ。
ただ、その父はどうやら会いたくないらしい。
気に入らない。不愉快。永は苛立ちを隠さずきっぱりと告げる。
「何故言えないのです。堂々と明かせばよいではありませんか」
「親恋しさに逃げてしまった愚か者です。合わせる顔などありません」
「その愚かな顔に、この小娘は向こうから合わせに来たのです。それをお忘れなきよう」
「……ええ。これは、自分の我が儘です」
暗い、自嘲の笑みが深まる。圧にも染まらず不変の、黒々とした意地。
父だと明かす気はやはりないようだ。
永は馬鹿にしたように吐き捨てる。
「下らない男ですね」
「重々承知していますとも」
「でしたら今すぐ反省し、真っ向から向き合うべきでしょう。子の心を蔑ろにしておいて何が親心ですか」
冷たく厳しい非難にも、返るのは沈黙。
永は止まらない。日射しの下を走りながら、暑さ以上の不快感を解消すべく、続ける。
「この様子でしたら旦那様の方がまだ利口ですね。近頃ようやく素行を改めました訳ですし」
「……あの子の身の安全が一番です」
「それで満足と? やはり何処までも勝手な方ですね」
「…………私は、海底の姫に嫌われてしまったのですよ。自分と会ったと知れたら、海での生活に支障があるかもしれません」
「嫌われた? 逃げ出したあなたの思い込みではありませんか?」
「そうなら良かったんですがね……」
弱々しい呟きは、そうでありながら重い。苦しみに、葛藤。確かな実感が込められている。
実際に呪いでもかけられたのか。相手と、しでかした事を踏まえればあり得るのが恐ろしいところだ。かける言葉を少し迷う。
それでも、やはりこんな選択は間違いだ。
「それほど器の小さな海神ならば、私が叩き伏せた上で説得します。安心して打ち明けなさい」
「……それは、心強い」
目を大きく開いたものの、それから暗く微笑んだ勺二郎。言葉とは裏腹の感情が見えるかのよう。
これでは打ち明けそうにない。
まだ怖じ気づいているのか。強い恐怖が刻まれているのか。苛々と不満が募るばかり。
だが、まだまだ全然言い足りていないが、残念ながら時間切れ。
夏の日に輝く海原はもう目の前にある。一息に駆け抜けると、熱い砂浜を踏みしめ止まった。
「さて、着きましたが……」
問題が残っているが故の難しい顔。こんな気分で海に来たくなかったと、永はしみじみ思う。
もうお節介は止めて、姫にはさっさと帰ってもらおうか。
そう考えを改めつつある前で、海に変化があった。波打ち際に、大きく黒い影が出現する。
以前にも話をした海坊主。気配でも察して迎えに来てくれたのか。楽に片付くのなら有り難い。
抱えていた勺二郎をどすんと落とし、姫を両手で抱え直して進み出る。
「ご依頼の小娘をお届けに参りました」
「お待ちしておりました。此度の助力、大変感謝致しまする」
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