六 女怪、夜の水辺に対話す

「のう。もう人魚が何処におるのかは分かったのじゃろ? そう難しい顔をせんでもよかろ?」


 夕食後、潮目屋に与えられた部屋。

 高級そうな内装は居心地が良いはずだが、別の部屋の勺二郎とは相談できず、監視の気配もする。夏の夜を台無しにする不穏さがあった。

 しかし、山姥は意に介さない。

 昼間に配っていた神社姫の絵を前に悩む信太郎に、永がちょっかいをかけていた。

 頬を指で突つき、顔が傾く程に押してくる。信太郎はされるがままだった。

 いやに上機嫌。海鮮の豪華な夕食のおかげか、信太郎は飲まなかった酒で酔ったのか。

 少々迷惑だが、なんにせよ妻が楽しそうなので良しとした信太郎はこの態勢のまま話す。


「問題はまだあると分からぬ訳ではないだろう。どうしたというのだ」

「なに、昼間嫁の人気に嫉妬した旦那を構ってやっておるのよ。嫉妬で鬼にならんようにの」


 妖しく微笑み、肩に寄りかかってきた。密着した体からは体温が伝わる。


「よせ。監視されているのだ」

「見せつけてやればよかろ?」

「今は事件を追う只中だ。良い思いなどしていられぬ」

「ほ。山姥とこんな事をするのが良い思いじゃと?」

「当然だろう」


 即答した信太郎。

 永は満足げに甘く笑うと、すっと体を離した。


「ならばこの辺りで勘弁してやろうかの。さ、わしにも悩みを相談してみい」

「ああ。助かる。……問題は、神社姫と勺二郎殿の思惑が分かぬ事だった」

「ふむ。ではもう分かったのかえ?」

「ああ。勺二郎殿の姿でな」


 潮目屋同様、なにか私欲がある可能性を疑っていた。

 だが、潮目屋への憤りや必死に蔵で手がかりを探す姿からその疑いは消した。

 となれば、隠している理由も見えてくる。

 そして神社姫が陸に現れ、やたらとこだわって絵を描かせた理由にも繋がる。


 どちらも素直に助けるべきであり、味方になるべき相手。

 その確信を得られた。


 だが、問題はまだある。


「神社姫と勺二郎殿をどう連れ出すか、だな。どう主張したところで潮目屋殿は納得すまい」

「ふむ。あの丸々とした男、食ってしまうかえ?」

「趣味の悪い戯言はよせ。それだけで済まぬと分からぬ主ではあるまい」

「ならばどうする。力ずくなのは変えられんじゃろう?」

「……ああ。仕方あるまい」


 最後は暴力での決着しかないと覚悟する。

 すなわち人でなしの道理。あちらも同様らしいとはいえ、やはり気持ちは良くない。出来ればすっきりした解決が可能であれば良かった。


「ただ、手は考える。とりあえず永には神社姫と話をつけてもらいたい。手伝ってくれるか」

「構わんが。妻遣いが荒い旦那じゃの」

「済まぬな。おれには厳しい。永の手が必要なのだ」

「まあ、その通りじゃの。よう分かっておる」

「勺二郎殿にも話を通しておくべきなのだが、監視があってはな」

「むしろその方がよかろ。一人で突っ走ってわしらで尻を拭う羽目になるのが落ちじゃ」

「そう冷たく言ってやるな」


 潮目屋。神社姫。勺二郎。信太郎。

 それぞれの様々な思惑が入り乱れ、それぞれが真剣に役割を全うする中で、山姥だけは愉快そうに笑っていた。






 暗くとも暑さの残る、夏の夜。生温い風が潮の匂いを伴って吹き渡る。

 潮目屋の庭は揺らめく松明の灯りが暗闇を追い払っていた。

 門の外にも中にも、警備の者がそこかしこに立つ。何を何から守ろうとしているのか、あるいは、何を見張っているのか。厳重さは、それだけ必要性とその心当たりの数を表している。


 一方。夜空が映る池や整えられた植木では、鯉が泳ぎ、虫が鳴く。生き物は周囲の物々しさを気にせず生きている。

 そんな池の縁に、小さな、それこそ虫程の大きさしかない人影があった。その影はゆったりと歩み、水面を覗き込む。


「……ここにおるのじゃろう? 人魚よ、少しばかり話をせんか」


 人目を避けるべく小さい姿に化けた永。涼しげな顔で、雰囲気も柔らかい。暑さに辟易して愚痴ばかりだった様など、微塵も感じられなかった。

 そんな山姥の語りかけに、水中から返事が届く。


「……あなた、山姥ですね? 何故里に降りてきているのです?」


 果たして予測は正解だったらしい。

 不審、警戒、わずかな喜び。複雑に感情の入り交じる声。姿を見せずに、水中から、それが伝わる。

 山と海の妖怪。本来交わる事のない両者の会話は、妖怪らしく不可思議な形で始まった。


「少々人と縁があっての。それより主の話じゃろう。この屋敷から逃げたくば力になるが、どうじゃ?」

「……縁ある人、とは誰です?」

「くふ。安心せい。何処ぞの太った商人ではないわ。物好きで人でなしで甲斐性無しの男よ。主を騙すつもりなどない。海に戻りたいのならば、甲斐性無しなりに役に立つじゃろう」


 真剣になるべき場面でも可笑しそうに愛おしそうに笑う永。信太郎をいつもの通りに語る事で、彼女なりに人との縁を表現したつもりなのか。はたまた単なる趣味なのか。

 対する声は、暗い。神社姫の返答には未だ不信があった。


「……そのような事があるとは思えません。人が妖怪と共に在るなど。それに山姥ならば何故食わないのです?」

「ほ。哀れじゃの。……わざわざ人目の前に出て、話して、姿を描かせたのじゃろう? たったの数日前には人を信じていたのじゃろうに、もう信じられなくなったのかえ?」


 永は動揺の気配を感じとった。

 どうやら痛いところを突いたようだ。

 そうと理解して、人の悪い笑みを浮かべた。実に化け物らしい有り様で追い打ちをかける。


「情けないのう。人に恐れられる化け物が、人を恐れるとは。そんな様ならば初めから海から出てこなければ良いものを。海の妖怪の程度が知れるというものよ」

「馬鹿にしないで下さい!」


 激昂の返答。水面に波紋が立ち、虫の声がぴたりと止む。人ならば倒れかねない恐ろしき気が漏れ出でた。

 永はそれを落ち着いて受け流すと、口に手を当てて笑う。


「ほ、ほほふふふふ。成る程。小娘じゃな。正しく生きた年月の足りぬ小娘じゃ」

「……侮辱するのですか、山姥」

「いんやあ? ただの、旦那様の推測が合っておったと感心しておるのよ」


 再び、動揺の気配。笑みを深くする永。

 神社姫は震える声で確かめようとしてくる。


「……な、何を推測したというのですか」

「無論、海から出てきた理由、絵を描かせた理由、里から逃げぬ理由よ」

「な、な何がその理由だと?」

「別に隠す事でもなかろうて。未だ親が恋しい小娘ならば当然の願いじゃろう」

「……本当に、分かっているというのですか……?」


 聞くからに意気消沈。水面も静まり、虫の声が戻ってくる。

 永は高みから意思を確かめるように問うた。


「ふふ。ならばどうするかえ? 大人しく諦めて海に帰るか、意地を張って追い続けるか。ま、どちらにせよ、わしらの力を借りねばならんじゃろ?」

「……いいえ。私だけの力でも為せますとも」

「ほ。やはり小娘じゃの。現実が見えておらんわい」

「私を何者だとお思いなのですか。海を治める大妖の娘なのですよ。山姥にも人にも頼りません」


 声に高貴さが戻った。力も威厳も感じられる。流石は海神に連なるモノか。

 しかし、やはり小娘だと永は深い溜め息を吐いた。


「よう知っておるとも。海坊主とも話したからの」

「青黒と、ですか?」

「奴の名かえ? そんなもの知らんわ」

「何を言っていたのです?」

「海の主を怒らせると災いとなる。隠すにも限界がある。要はさっさと帰ってこい、という話じゃな」

「……そう、ですか」


 落ち着き、弱くなった声音。にじむのはわずかな後悔と、無念。やはり身内には弱いらしい。

 そして水面からその顔を出した。

 海の姫。

 美しく整った顔は、男なら引き込まれるような魅力に満ちている。しつこく書き直させたという話は聞いていたが、確かに絵姿は非常によく再現していた。

 ただ、今の表情には沈鬱な陰りがある。


「ならば、帰らねばなりませんね。母に怒りを抱かせるのは本意ではありません」


 言うが早いか。縁まで泳いで池から出ようとする。

 その動きを、永が鋭い声で止めた。


「待て。何処へ行くつもりじゃ」

「海に帰ると言ったでしょう」

「じゃから現実が見えておらん小娘なのじゃと言うに。人間の欲深さは温くない。何処ぞの小太りは諦めんぞ。しつこく、粘りつくように、何処までも、何をしてでも、追って捕まえようとする。あれはそういう輩じゃ」


 脅すように、迫力のある低い声で告げる。

 人の悪意。本心を間近で見極めたが故の忠告。

 しかし全く伝わっていないようで、当の人魚は軽く首をかしげるだけだった。


「人間ですよ? 少し力を見せてやれば恐怖に震えるような生き物でしょう」

「何度言わせるつもりじゃ。その人間を恐れて隠れておった世間知らずの小娘がほざくでないわ」

「これは穏便に済ませてあげようとしていたからです。強引な手を打ちさえすれば問題はありません。あなたこそ私の力を知らないでしょう」

「ならば試してみるかえ? わしは人間に負けた事がある。そのわしより劣るならば、人間にも劣るという事になるの」

「……分かりました。私の力、お見せしましょう」


 永の挑発は抜群に効いた。凄み、敵対心を見せる神社姫。可愛らしい顔立ちながらも、迫力は十分。戦意が高まっていく。

 そして一度水中に潜り、間もなく力が発揮された。

 水が渦巻く。波が立つ。飛沫が弾ける。鯉が騒ぎだす。

 池そのものが生き物のように動き、うねり、丸ごと支配下に置かれたのだと理解。

 更には水面が高く盛り上がり、かと思えば池にそぐわない大きな魚が現れる。鋭い牙の並んだ狂暴そうな鮫。海の脅威へと化けた人魚は、容赦もなく永に襲いかかる。

 だが、小さきモノを呑み込むはずの鮫は、あっさりとその対象を見失った。困惑の中でも辺りを探るべく突進を止める。


 その、顔の下に、忽然と永が現れた。


「この阿呆」


 小さな姿のまま上方へ、痛烈に拳骨を食らわせた。

 姿に見合わぬ衝撃。神社姫は勢いよく空へ舞い、ややあってから落ちてきた。変化は解け、再び人魚の姿。

 縁に降り立った永は神社姫を優しく受け止めると、冷ややかに、有無を言わさぬ口調で告げる。


「全く。やはり世間知らずじゃの。そんなに目立つ姿に化ければ人が集まって面倒になるじゃろうが。静かにせい」

「だから人など私にかかれば……」

「ま。話はお仕舞い、じゃな。身の程を知ったのなら池の底で大人しくしておれ」

「……でも、私は」

「小娘は小娘。存分に大人に頼れば良いのよ」

「……意地が悪い。貴女こそ大人げないのではないですか」

「若く振る舞うに決まっておろう。婆と呼ばれるのは嫌じゃからの」


 細い月を背にしゃんと伸びた立ち姿。己を世界に誇るように、若い者へ見せつけるように、永は妖しく微笑んだのだった。

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