十四 仇討ち鬼姫
「参る!」
豪雨から逃れた滝姫は、心強い熱を胸に仇と対峙する。
しかし不気味にやつれた長の眼中に、彼女の姿は、ない。憤怒と狂気にぎらつく視線の先は天を塞ぐ巨人。
「憎し。ああ、憎し山女。今すぐ退きなさい! 雨を、返しなさい!」
頭上の山姥へと、目にも見えるような濃い殺気を飛ばす。並の存在ならそれだけで失神するような、力を持った殺害の意思だ。
濡れた手を大きく振るう。何度も何度も。水の矢弾。いや、より大きな砲の弾が乱舞する。森を打ち壊した豪雨のように、山姥の体を穿つ。
しかしそんな隙を見逃す訳もない。滝姫は負傷をものともせずに強く踏み込み、攻めかかる。
「余所見とは余裕だな!」
湿気を引き裂き、風が唸る。
右手一本、鋭い突き。体と足場の状態を考えれば申し分ない刺突が高速で繰り出された。
そして命中。
胸の中心を貫き、骨か背中の甲羅で止まる。致命傷の手応え。
しかし、強力な妖怪は簡単に殺せない。
故に殺気は維持。続けて手首を捻り、一息に薙ぐ。胸を切り裂いて抜けた刃は赤く濡れ、戦果を誇示する。
それでも、足りない。再び繰り出そうと片手で刀を構え、研ぎ澄ませる。
「っ……!」
が、そこで一歩下がった。
ゆらり、と。長が緩やかな動作で此方を見て、裂けた口で嗤ったのだ。
虚ろな瞳がじろりと見据えてくる。
「ああ……憎し。あなたも、憎し。罰を、受けなさい!」
「なんだそれは……!」
げっそりと不気味に痩せただけでない。肌も暗く変色。角めいた突起すら生えている。
異形と化していた。最早河童とは呼べないような、姿から恐ろしい存在。まるで鬼。
思わず怯んだ滝姫。寒気が走る。熱が冷める。
だからといって肉体は鈍らず、反応。伸びてきた手を切り払うべく、的確に振るう。
が。結果として、逆に掌で払われた。単純に押し負けたのだ。体勢も崩れ、次へ繋ぐにも悪い。失態。
追撃の手が帯を狙う。許せば再び投げられるだろう。危地に唾を呑み込む。
しかし、衝撃は後ろから来た。引っ張られる力からその正体を察し、安心して交代。
長との間に男の背中が現れた。攻勢を押し留め、手と手で組み合っている。
「お気を付けを。恐らく、荒神……鬼になりかけております」
「鬼? 確かに拙者もそう思うたが……あれは、河童だろう?」
「人が悪心により鬼と化す話を御存知ではありませぬか。我々にしても初めて目にしますが、妖怪とて例外ではないのでしょう」
解説するのはずぶ濡れの信太郎と番之助。
他の河童を片付け、援護に駆けつけてきてくれたのだ。ここは素直に有り難い。温かさに落ち着き、知らぬ内に乱れていた呼吸を正常に戻す。
鬼。
言わずと知れた強き妖怪。
妖怪にはさほど詳しくない滝姫も勿論知っており、子供時代には退治するのだと張り切っていた。恐怖の対象というより、退治される悪役であった。
そして鬼への変化。主な話では、憎悪や嫉妬により化け物となる。この場合は水を奪われた憎悪が、長を作り替えてしまったのか。
河童。あるいは水神。それが今や鬼。それとも鬼神か荒神か。
恐ろしい力の持ち主である事は、専門外の滝姫にも理解できる。
今も、組んでいた信太郎が容易く宙を舞った。石でも放るように軽々と。
信太郎は受け身をとるも、威力を殺しきれない。嫌な音が鈍く響いた。
流麗な所作や美しい技などない、強引な暴力。
対抗するのは難しい。
後を追いかけた長は、起き上がりかけた信太郎を真下に叩き付け、そのまま後頭部を抑えつける。水溜まりで溺れさせるつもりか。容易には抜け出せない。
だからこそ、番之助が棒の一撃。首を折る勢いが長の頭を襲う。
「只今助けまする!」
「ああ、憎し。わたくしから奪う人が、憎し」
しかし横薙ぎは肌の表面を滑り、抜ける。手応えは薄く、実際長に傷を負った様子はない。水を得た河童の強みなのか。
片手は信太郎を押さえつけたまま、番之助の足を引いて倒してしまう。
そこで三人目。背後に回った滝姫が大上段から振り下ろす。
速く、太刀筋も完璧。輝かしい一閃。
しかし、
「な……!」
切り裂くはずの刀は砕けた。純粋に皿の硬さと、振り下ろしに合わせた頭突きによって。
放心は刹那。それでも致命的。
長は男二人を振り上げ、挟むように叩きつけてくる。
人間同士が重く衝突する。
後退した滝姫に傷はない。信太郎と番之助も、なんとか負傷しながらも手から逃れられた。
三人は揃って大きく距離を取る。
滝姫は揺れる瞳で己の手を見る。
刀を失った。己の武力への自信、その支えもまた、一緒に。
男二人は滝姫を守るように前に出た。
「お下がり下さい!」
「お気持ちは察しますが、無謀に過ぎまする!」
頼もしい背中と違い、壊れかけの女。
この状態では確かに無謀。
誓いを果たせぬならば、犬死に。
それは不本意だ。不名誉で許し難い。ならばあとは、二人に大人しく任せれば良い。これこそ賢い選択だろう。
だが、滝姫は、残念な事に賢くはないのだ。
やるなと言われればやりたくなる。無理だと言われれば覆したくなる。称賛されたら更なる難題を成し遂げたくなる。
逆境であるならば、燃える。狂暴な笑みを浮かべて楽しんできた。それが彼女の人生だ。
反発心が、過去の自分が、弱気になりかけていた自分自身を叱咤する。
この戦いは、何の為だ。
無論、領地の為、領民の為。雨と水の害から救う為だ。領主の姫としては、それが当然の責務である。
が、それ以上に。姫としては残念な事に。
──只、己の為だ。来六というかけがえない存在の仇討ちだ。
刻んだ誓いを反芻すれば、必要な気力は湧いてくる。
あともう少し、力を借りる。
滝姫は懐に持っていた小さな陶器を、出来れば使わずに持ち続けたいと思っていた──形見である河童の薬をぶらぶら揺れる左腕に塗り込んだ。
そして勇ましく笑う。
痛みは安らいだ。これで十分戦える。
「露払いは頼む」
眼光鋭く、鬼気迫る闘志が目に見えるように発される。恐れすら抱く緊迫感が満ちる。
修羅の顔。
折れず、譲らず、我を押し通す決意が、戦場における唯一の表現方法で示された。
二人も、その意思を尊ぶ。
「……はい。必ずや、道を開きます」
「御武運を祈りまする」
修羅が伝染。
闘気により顔付きを荒くして、二人は手を合わせる。
「南無八幡大菩薩」
神の力を頼る。人の力を信じるが故に。
集中。祈祷。深く消耗するまで祈る。
しかし、この行為が長の逆鱗に触れた。
「何に祈ったのです。祈りを捧げるべきは、水神たる、私でしょう!」
叫びに呼応して、水音が弾けた。
雨水が波となって押し寄せる。沼地が最早、荒波の海。災害。狂気の鬼として、水を呼ぶ力が暴走している。
「お任せを!」
それでも果敢に立ち向かうのが、信太郎。
倒れた大木を持ち上げ、壁として積み、波を防ぐ。力業であり、早業。
たった一人での治水。神から借り受けた剛力だから為せる荒業。次々と支えを強化し、人間の安全な領域を確保する。
水神の憎悪を阻む背中は、本来以上に大きく見えた。
「私から奪うなと、言っているでしょう!」
信太郎と堤へ向かい、激情が一直線に突進してくる。速く荒々しい狂気の暴力は、しかしだからこそ読みやすい。
即座に番之助が割り込み、信太郎を投げようとする手を叩き払う。
正面からではなく、回し巻き込み、力を流して。柔よく剛を制す妙技。
「まだ止まらぬ!」
極限の隙間を通す集中力。棒を器用に扱い、絡ませ、手足と合わせて固める。
打撃ではなく、極める。器用に決まった拘束だが、相手が相手。全力をもってしても長くは持たないだろうと分かっている。
故に。
「今ですぞ!」
引導を渡すべく走り込む滝姫。
刀は折れたが、脇差しでも殺傷力があれば構わない。指先にまで集中力を注ぎ、決着の準備万端で仕掛ける。
──直前。
長が拘束から、にゅるりと逃げた。人間とは違う体の構造、そして濡れた体に、拘束は向かなかったか。
倒れる番之助と空振る滝姫を横目に嘲り、再度加速。
流れを利用して突撃し、今度こそ信太郎の築いた防壁を襲う。衝撃。轟音。本人は苦しい顔をしつつも耐えるが、大木はあえなく砕かれてしまった。
途端に押し寄せる波。濁流。
水が勢いよく増し、ぬかるみから水溜まりを超えて水中へ。動きが否応にも鈍る。すぐにも泳ぐ羽目になり、溺れる結末になるだろう。
「そう! これでこそ私の土地です!」
おどろおどろしい顔で歓喜する長。
一方の滝姫は歯噛みする。
手が、指先が、空を切るばかり。水に足をとられ、呑まれる。沈んで行く。
あと、一歩だったのに、もう届かない。
「拙者は主を許さぬ!」
「く、ふ、ふ、ええ。私も許しません。今こそ私の沼に沈め──っ!?」
唐突に長の笑いが止まった。
上から落ちてきた何かが、轟音を立てて衝突したのだ。大量の水が空中へ飛び散り、川底が見えた。
落ちてきたそれは大柄な河童。酒丸。
疑問に思うより早く、頭上から可笑しそうな声が降ってくる。
「不味かったからの。返してやるわい」
永だ。気付いた滝姫は獰猛に笑う。
──足場!
心中で感謝。これで、届く。
信太郎と番之助の支えも得た一歩の踏み込みで跳び上がり、二歩目で大きな甲羅をぐいと踏み締め、突撃。猛然と長へ飛びかかった。
脇差しの一閃が首を狙う。
が、半ばで断ち切られて空振り。
半分以下になった刃を構わず振るい、しかし今度は根本から折られた。
嘲笑う長。
が、それでも滝姫は獰猛に笑い返し、組み付いた。
無手であろうと、殺し合いに支障無し。
しっかりと長の頭部を掴み、両腕で抱え、力を込めて首を捻った。このまま、折る。
無論長の抵抗は激しい。怒り狂った声を浴び、水に肌を穿たれ、肉を抉られる。薬で消した痛みをも上回る激痛が、全身に悲鳴をあげさせている。
されど、気力は十全。手を止める要因など皆無。
「離しなさい!」
「仇討ち御免!」
力だけには自信があった。
それだけが取り柄で、誉められた。
だから、こんな形でしか、彼の思いに報いる事が出来ない。だから、胸を張って突き進む。
やがて雨音の中で、決着。
ごきり。
長の首が回り、骨が重苦しい音を響かせる。そして、そのまま胴体から捩り切ってしまった。
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