十三 水を斬らんと抗う

 滝姫は何故こうも仇討ちに燃えるのか。


 それは、来六という河童が、かけがえのない存在だったからだ。


 幼き日の出会いから、奇妙な縁は細々と続いていた。

 陣屋を抜け出して出かける事は日常茶飯事だったが、行き先は領内の各地であるので頻繁とまでは言えない交流ではあった。回った各地にも、それぞれ老若男女問わない多くの慕ってくれる人々がいる。

 だからこそ、人でない彼は無二の友だったのだ。


 会えば川遊びはよくしていた。泳ぎ、潜り、魚を捕る。河童だけに来六の方が遥かに上手だったが、すぐに滝姫は追い抜いてしまった。

 村の子供達も誘ったが、怖がって拒否される事が多かった。大人達から怖い話を聞いたらしい。それでも滝姫は人気があったので、付き合ってくれる子供も少ないながらいた。大人に教えない子供の秘密、その事実だけで心が弾んだものだ。

 無謀な遊びで怪我をした時、薬をくれた。驚く程よく効き、感謝した。今でも大事に持ち歩いている。

 だから鎌をかける時、薬の話を滑らかに出来たのだ。もし全くの作り話だったとしたら、簡単に嘘だと見抜かれていたかもしれない。

 一緒になって乱暴者の悪さをこらしめた事もある。

 嵐の日に柵の補修を手伝ったくれた事もある。

 友との、数々の思い出がある。


 そして、雨乞いと、婚姻。


 婚姻とは家の繋がり。

 生まれが生まれだけに、元々色恋など期待していなかった。だが自由に生き過ぎて噂が広まり、他の武家からは敬遠されてしまった。こちらが小さな領地の為、政略結婚したい相手もいないだろう。

 そんな状況も、当主である父は容認してくれた。いや、それとも諦めざるを得なかったのか。手に負えないと。真意がどうであれ感謝している。

 今回の件もそうだ。困らないと思っていても、流石に勝手な婚姻までするには抵抗があった。手紙を読んだ後に相談したところ、意外な程早く許可してくれたのだ。

 だから、悪くない。

 性格もよく知っている知己であるのだし、許されるのなら、この地が救われるのなら、これでも、悪くない。

 そんな思いで軽く旦那を決めたのだ。


 結果として、夫婦としての生活は短かった。わずか三日だ。

 それでも家族や家臣の態度を含めて、良い環境であったと信じている。皆の順応性が高かったおかげだ。こういう時、普段の奇行がものをいう。

 食事は他の者と同じ。胡瓜の漬物はあったが来六の為ではなく普段通りだ。

 むしろ厳しく、武家の婿ならば心身を鍛えるべきだと、決して遊びでない己同様の厳しい鍛練を課した。

 無茶な鍛練だった。武士達でさえ付いてこられる者の少ない代物だったのだ。

 それでも来六は食らいついてきた。皿が乾いて弱り、これ以上は無理だと止めても本人は続行を求めた。

 理由を尋ねると、


「おいらも男なんだ。雨乞いの他にも取り柄がある、って胸を張りたいんだ」


 今思えば長を裏切った報復があると、警戒していたのかもしれない。強くあろうと必死だったのかもしれない。

 当時はそんな事情を察せられていなかったが、励む彼を滝姫は素直に好ましいと思った。こんな生活も悪くない。

 いや間違いなく良い、と、そう思ったのだ。


 友だった。旦那だった。

 喪失は、自分でも意外な程重かった。飯が喉を通らず、仇を探す気力もなく伏せる日々。普段なら屋内でじっとするのは苦手なのだが、ここしばらくは動けなかった。

 故にこの好ましいという思いは、本当は恋慕、諦め捨てていた恋心だったのではないかとも考えた。


 だが、決めつけるには手遅れだ。

 名前はなんでもいい。ともかくかけがえのない存在である。その事実が要だ。

 この日々を生涯抱え続けようと、強く、思った。


 だから、聞かねばならない事が、ある。






「拙者の婿は何か言い残したか?」


 滝姫は刀を突きつけ、長を睨む。答えを強要する、強烈な圧迫感を宿した視線で。

 ただし、濃厚な敵意は相手も同様。

 長もまた、蔑みと怒りを十全に訴える表情で応じる。


「言い残す間もない即死に決まっているでしょう。この私が殺し損ねるとでもお思いなのですか」

「……成る程。騙し討ちを誇るとは、随分と安い自慢だな!」


 来六は即死ではない。

 言葉を使わない伝言がある。着物の切れ端を妙薬の壺にくっ付けているのだ。

 正確な状況は分からないが、刹那の判断だったはずだ。

 祝福の宝を贈ると言われて川へ行き、許されたと油断して近付き、掴まれてから投げられるまでのわずかな時間に、長の着物を強く握り締めた。瀕死の状態でも、伝える為に力を振り絞って手を伸ばした。

 実際のところは分からない。しかし残された遺言を、滝姫は確かにそう受け取ったのだ。

 だから、必ず、遂げねばならない。決意を込めて睨み、吠えた。


 ぴくりと反応する長。不機嫌に、冷ややかに、粘り付く悪意を滲ませて言う。


「騙したのは来六です。沼の、河童の、わたくしの悲願を潰したのです。罰を与えるのは当然でしょう」

「勝手な理屈だ。武家の人間として言わせてもらう。主は長として相応しくない!」

「人間の理屈など知りません。私は妖怪なのですから。そして、あなたも来六と同罪。いえ、この私の沼から水を奪った、より重い、大罪人です!」


 悪意と狂気に彩られていても、威厳と風格は確かにある。見合った強大な力も。

 裏打ちされた自己の下に、長は堂々と語る。


「ええ、そうです。裏切りには制裁を。悪逆には誅伐を。人には恐怖を。私が正しくある為には、全てを懸けねばなりません」


 ぴんと張った厳粛な空気。神聖さすら感じさせる所作で、祈るように手を掲げた。かつての水神であるという話が否応なく思い出され、納得してしまう。

 思わず呑まれそうになって、滝姫は意思を持ち直す。何をするつもりか。警戒心から、先制攻撃を仕掛けようと駆け出した。


 その時、急激に雨が強くなった。

 と思ったのも束の間、強い雨どころか土砂降りの激しい嵐に変貌する。木々が揺れ、折れ、倒れる。

 降る水が重い。視界は皆無、耳も雨音が支配、身動きすら制限される。最早水中で溺れているような感覚すらあった。

 災害。人が立ち向かうには大き過ぎる存在を、長は呼んでしまったのだ。

 それでも、折れない。滝姫は踏ん張り、刀を握り締め、しっかりと立つ。


「ふふふ。強がるのはおよしなさいな」


 離れていたはずなのに、雨音が煩いはずなのに、何故か耳元で囁かれたように聞こえる。首筋がぞわりと粟立った。

 仕留めに来たのだろうか。

 五感は豪雨しか捉えられない。辛うじて殺気を辿る。

 一か八か、思い切りよく、正面へと刀を横薙ぎに振った。

 しかし手応えはなく、水を通る重い感覚だけがあった。


「ふ、ふふ。これしきの雨で鈍るとは情けない。水への感謝が足りないのです」


 馬鹿にしたように、声と気配が周囲を動き回る。事実馬鹿にしているのだ。

 踏み込んで空振り。振り回して空振り。一向に当たらない。

 未熟さ、悔しさに歯噛みする。

 しかし長の方は自由に、的確に動ける。急に顔を鷲掴みにされた。


「ほうら、情けない」


 桁外れの雨で、ここまでの至近距離でも満足に相手の顔は見えない。水の中に影が浮かぶのみ。

 しかしこれは好機でもある。

 頭部があると思われる位置へ即座に柄打ち。が、思ったような攻撃とはならなかった。確かに普段より鈍く、力を乗せられていない。

 本来なら頭蓋を割る一撃も、手で軽く受け止められた。


「さあ、て。裏切り者と同じ死に様が相応しいでしょうね」


 ただでさえ分からない景色が回転。

 投げられたのだ。これから、頭から叩き付けられる。ぬかるんだ土ではなく、しっかりと岩へめがけて。


 その、わずかな時の中で思う。

 これが、来六の最期と同じ景色なのだ。

 わずかなこの一瞬で、残してくれたのだ。死の恐怖に打ち勝ち、己以外を優先してくれたのだ。

 それは、雨乞いだけが取り柄の男に出来る事ではない。

 やはり、知己を信じて、良かった。


 骨の砕ける音が、静かに雨へ呑まれていった。

 出血による赤も洗われて消え、増していく水の中に体は沈む。命が失われていくその様子を、長が嘲笑いながら見下ろす。


 されど滝姫は燃えていた。

 飛び上がるように立ち上がり、傍の影へと刀を振るった。弱くとも、確かな手応え。退いた長に、間違いなく傷を与えている。


「……しぶといですね」


 怪しげな声に動揺を見て、滝姫は口の端をつり上げる。

 叩きつけられる寸前、なんとか頭との間に左腕を滑り込ませる事が出来た。おかげで片腕はぷらんとぶら下げるだけの飾りと化したが、命が拾えたのなら安い。

 くらくらする頭で、それでも踏ん張り見栄を張る。


「ハッ! 光栄だな、化け物にしぶとさを認められるとは!」

「……醜い。汚い。ああ、全くもって、許し難い」


 両者は雨を挟んで睨み合う。次にぶつかる時を決着にしようと、互いに仕掛ける機会を窺う。


 と、不意に。

 猛烈な雨がぴたりと止んだ。音は聞こえるのに、遠い。解放された全身が軽くなった。

 滝姫は喜ぶよりも困惑する。

 そして見えるようになった長の姿に気づき、息を呑んだ。

 初めの高貴な様は無い。げっそりと細くやつれ、弱々しい枯れ木のよう。しかし瞳だけが強烈な禍々しさを放っている。激しく消耗しているのに、怒り憎しみが上回っているのだ。正に化け物。


「私の雨を! またも私から奪うのですか!」


 これは事前に聞いた作戦にはない。相手が止めた訳でもない。それとも消耗し過ぎたせいで雨を呼べなくなっているのに、気づかず意思だけが独走しているのか。

 違う。真相は単純だ。

 頭上に巨大な人影が現れており、背中で雨を遮っているのだ。

 影となって輪郭しか見えないが、何者かは分かる。心強い味方だ。


「これは貴女様の戦い。故に助太刀は致しません。しかし傘くらいにはなりましょう」

「有り難い! この戦い、勝たせてもらう!」

「この、山女風情が……!」


 猛々しく笑い、憎々しげに唸る。

 女傑の争いに、新たな女傑が加わった。

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