十二 人喰いは川を呑む
雨に濡れ泥にまみれ、大柄の河童、酒丸は川を遡る。既に水位は足首程にまで下がっており、走るしかない。魚や虫や小動物を蹴散らしながら進む。
その顔は戦意みなぎる勇士そのもの。長の命を受けた誇りと、敵を叩き潰さんとする闘志に満ちている。
やがて沼と里の中間程のところで、川の中に佇む影を見つけ、警戒から足を止めた。
暴れる
「おい河童。この不味さはどうなっておる。甲羅を持つなら亀らしく旨くあるあるべきじゃろうが。それとも肉は旨いのかえ? ならば河童食いも試してみようかの」
不機嫌な声に理不尽な台詞。悪趣味な挑発と捉えたが、その姿に気炎を削がれる。
相手がおかめの面を被っていたからだ。ふくよかで福々しい面とは対照的に、線は細く手には深い皺が見える。
だから正体は丸分かり。本人としても隠す気はないのだろう。
把握すれば削がれた熱も再び燃える。酒丸は排除する前の口上に応じた。
「クハッ。いねえとは思ってたがこんなトコにいたのかよ。口といい、面といい、随分とふざけた婆じゃねえか」
「ふざけた婆、とは、また女心を解さぬ輩じゃの。いや河童じゃと無理もないか? ようく見てみい、可愛かろ?」
山姥──永は指を頬に当て、小首を傾げる。面で隠れいても、その奥にある楽しげな笑みが窺える。
おかめの面は、かつて信太郎に買わせた物だ。
山姥とはいえ永は、生来の自身の容姿を気に入っている訳ではない。他人には、特に旦那には見られたくない。だから本性を顕さねばならぬ時は顔を隠したい。妖怪にも人のような女心はあるのだ。
ところが信太郎は、その心情を理解せずに「どんな顔だろうと永は永だ。何も変わらぬ」と勘違いした発言をするのだから手に負えない。これは化粧と同じ、美しくありたい女の本能なのだ。最後には納得してくれたが、その日の口喧嘩は実に白熱していたのを今でも鮮明に思い出せる。
不意を突かれて滝姫に見られてしまったのは大いに恥じている。理解してくれた点は男達と大違いだが。
当然酒丸も解さない輩であり、永の主張を鼻で笑った。面の奥で永は嘲笑し、深い溜め息を吐く。
「てえより、だ。まさか川を飲んだってのか? 長のモンだ。吐き出してもらうぜ」
「わしだって好きで飲まんわ、こんなもの。じゃが旦那に泣きつかれてはのう」
川の水を飲み干した話もあるだろう、と永が信太郎の発案により川の水を飲んだのは事実だ。解決後の対価を約束して引き受けた。だがこの川の有り様はそれだけが理由ではなく、武士団が主となって治水工事を行い、水の流れを変えた影響も大いにある。
のだが、それには言及せず、楽しげな声で言い切った。
「クハ。化け物が大人しく従ってんのか。情けねえ」
「それは主も同じじゃろうが」
「……侮辱は許さねえ」
「ほ。小さな器じゃの。わしは旦那への小言は受け付けてやるぞ? いつまでも小僧のままじゃあ敵わん」
「なんだそりゃ。ま、婆にしてみりゃ大の男だろうと小僧にもなるか」
両者は揃って笑い、雨の中賑やかな声を響かせる。
まるで和やか。長年の友。敵対しているとは思えない談笑である。
が、次の瞬間。
互いの位置と濃密な殺意が交差した。
構えもないのに大酒丸が爆発的なぶちかましを行い、永はかわし様に肩を爪で裂く。
水が激しく飛び散り、血で赤く染まる。結果は浅い傷一つでも、周囲の光景は大いに変貌した。
視線は鋭利。口元には残虐な笑み。直前とは打って変わって殺し合いの空気である。
「くたばれ」
「嫌じゃ、阿呆」
声を残して永の姿が消える。
現れた先は酒丸の背後。狙いは首筋。切っ先を一息に薙ぐ。
が、またも浅い。筋肉質な肉で爪が止まる。面の奥から不快感が漏れた。
そこに酒丸が振り返り、反撃。掌が顔面を張ろうと迫り風を唸らせる。
間一髪で永がかわしても、絶え間無い連続の張り手が息をつかせない。柳に風の余裕綽々であるようでいて、徐々に追い詰められているようにも見える。
酒丸の前進と永の後退。素早く、目にも留まらない、人を超えた攻防の応酬が繰り広げられた。
遂には永が大きく跳び、頭上の枝に着地する。
「それだけ動くのならば肉も硬そうじゃの。やはり不味そうじゃ」
「そう言う婆も筋張ってて不味そうじゃねえか」
「ならば化けようかえ? わしが化けた娘は美人と評判らしいぞ?」
「クハッ。何が美人だ。長の美しさと比べ物にもならねえ癖によ」
酒丸は濡れた手を頭上へ放った。すると枝葉がバサリと落ちる。水が矢のように鋭く飛翔し、へし折り穿ったのだ。水ですら殺傷力を備えた武器である。
しかし標的は既に逃げていた。
永も川底にあった石を飛ばす。ただ投げただけにもかかわらず、こちらも矢のような速度。
が、それも効かない。硬い体躯で跳ね返される。頑丈で、揺らがず。撃ち合いでは酒丸が大いに有利だろう。
と、突然、距離を無視して永が懐へ入った。神出鬼没の体現。
ただし、虚を突く奇襲にも即応され、張り手に迎えられる。それも首を折るような猛烈な張り手だ。
音が弾けた。髪が舞い、風圧で切れる。
その下を潜って、永の姿は足元に。
足へ爪を立て、引き千切る。赤い色が激しく飛び散った。
抉れた穴は生々しい怖気を発し、山姥としての本能を刺激する。
だから、頭を押し潰すような大きな掌の感触に気づくのが遅れた。片手で永を掴んで持ち上げ、酒丸はすかさずぶん投げる。剛力は飾りではない。
風より速く空を飛び木へ激突する、寸前、身を翻して着地。川辺を揺らす軽い振動。痛手は薄い。
面をずらして爪の先を舐めると、再び面で顔を隠して挑発する。
「やはり不味いの。しかし思った程硬くはなかったわい。これなら食えそうよの」
「クハッ。二度とさせっかよ」
そして互いは衝突し、接近戦を繰り広げる。
手が伸び、振るわれ、突進。身を捻り、跳び、回避。徐々に激しく、血生臭くなっていく。
空を切る音が辺りに戦いの存在を刻む。素早く豪快な駆け引きは川辺の景色を破壊する。派手な妖怪の闘争風景。
その最中に、またも永が目の前から消失した。
勘を働かせ、酒丸は背後へ腕を振るった。ごうと風圧が巻き起こる。
しかし、いない。あえなく空振り。ぎょろりと目を見開き、辺りを見回す。
警戒。集中。索敵の為に殺し合いの感覚を研ぎ澄ます。
しかし、ただ待つばかり。何も起こらず、時間だけが過ぎていく。雨音がより大きく響く。戦いとは無縁の静けさが昂った熱を冷まそうとする。
それでも緩まぬ警戒の結果。遂に、ほんのかすかな音と気配を察知する。
首を回して背中を見て、発見した。腕をよじ登る、虫のような大きさの永を。消えるように隠れたのではなく、見つかりにくいように化けていたのだ。
「そこかよっ!」
苛立ちとともに掌を振るう。蚊を叩き潰すように、しかし苛烈な一撃が小さな永に迫る。
しかし実際に潰されたのは酒丸の方だった。
「この姿は嫌なんじゃがの。面倒じゃし仕方あるまい」
瞬時に変貌。体の上に、巨体。大酒丸は自身と並ぶ大きさの右手一本で押さえつけられている。
今度は逆に大きな姿に化けたのだ。真っ暗な影が、ちっぽけな河童を見下ろす。
「上を見るでないわ。女心が分からん輩じゃのう」
「クハ。ほざいてろ」
絶望的な事態にも抗い、抜け出そうと足掻く。全身の筋肉が鳴動。怪力は伊達でなく、確かに巨体が持ち上がっている。
だが努力が実を結ぶ前に、永は軽くつまみあげた酒丸を頭上へ放り投げてしまった。まるで石ころ。空を覆う枝を破り、突き抜け、なす術もないまま空の旅。
そして落ちてきたところに待つのが、開かれた大口である。
「……糞婆が」
「美人の娘さんが、じゃろ?」
慈悲もなく口は閉じられる。哀れな河童は丸飲みにされてしまったのだった。
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