十 欲望の正体

 雨は、未だしとしとと降り続いている。じわじわと、人心さえ腐らせるように。


「要求通り姫を引き渡しに来た。長の処まで案内してくれぬか」

「……そこで待ってな。長に話を通してくらあ」


 広く、流れの速く、雨の影響で死の匂いを秘めた清流。

 河童の住処である沼に流れ込む川のほとりが、一触即発の事態となっていた。怒る河童は、信太郎と番之助の二人を相手に、白装束姿で手を縛られた滝姫に詰め寄ろうと暴れていた。そんな河童を見もせずにうつむく痛々しい表情は、後悔しているようにも見える。

 力で押し留め、刀を抜いて牽制。初めに訪れた際にもあった騒動の再来。怒号と暴力に伴う打撃音、川辺が殺気立っていた。


 しかし、大柄な河童の酒丸が出てきて一喝すると、ぴたりと一変。ひとまずは収まった。河童の中でも力と地位のある男で、河童社会も上下関係がはっきりしていると理解出来る。

 またすぐに川を泳いでいくと思ったが、今回は他の河童に行かせた。仁王立ちで信太郎達を見据えている。


「長との橋渡しは主の役目ではないのか」

「仲間の仇だ。知らねえ顔もいる。俺様が見張っとかねえとな」

「番之助殿も、我らと思惑を同じくする御仁だ」

「酒丸といったか。正に武人に相応しき、信頼に値する気迫よ。さぞ厳しい修練を積んだのであろう。是非詳しく聞かせて貰いたいものだ」

「はん。なんだそりゃ、世辞のつもりか?」

「偽りない本心だ。が、己が信用出来ぬか?」

「おうよ。俺様は人じゃねえからな。悪いが拘束をきつくさせてもらうぜ」


 大酒丸は番之助の言葉を軽く流して滝姫に近付き、手首の縄の上から更に蔓草できつく縛った。端から見れば苦痛を感じさせる乱暴さだったが、滝姫に一切の変化は無い。後悔しているような顔を保っており、あくまで痛々しさは別の要因だろう。

 思うところはあっても誰も止めず、下手な抵抗もしない。

 妙な勘繰りをさせない為にも、目配せすら控えた。拒絶を表す酒丸の空気に、緊張感が高まる。


 その内に長の下へ行かせた河童が戻ってきた。小声で話し大きく頷くと、振り返って招いた。


「来な。長は中立の見届け人をお望みだ」

「承った。もとより我々はその立場にある」

「うむ。己とて正しく罪人への罰が下される事を望んでおる」


 酒丸を先頭に、一行は川を下る。滝姫、信太郎、番之助と続き、更には河童達に背後を固められた。

 無言の、重い雰囲気。枝上に隠れた空のように、分厚い暗さに覆われている。

 雨と川の水音も、小豆洗いや洗濯の怪音も、風情や怖れを感じられる事なく、ただ雑音として処理されてしまった。


 沼はたった一日でも印象が変わっていた。雨のせいで水量が増し、村の方から流されてきた枝葉や壊れた木材や破れた布切れなどで、神秘の秘境らしさが薄れてしまっている。

 河童達は沼のあちこちから顔を出して注目してくる。昨日見た生活感は皆無。流石に警戒しているのか、不気味な程静かに、直立不動で観察している。


 そして長がいる中央の浮島までは、既に沼の手前から橋がかかっていた。枝葉や木切れで構成された頼りない集合体だが、妖怪の仕業らしく不思議と安定している。揺れはしても難なく渡れた。

 この先、岩の前に長が待っていた。

 女怪が身に付けるのは昨日とは異なる、儀礼的な装飾の施された着物。姫を引き渡す意味の重大さを窺わせる。威厳を伴って佇む姿は、確かに水の女神らしくもあった。


「さ、姫を此方へ」

「承知しました」


 長がたおやかな声音と仕草で要求してきたのは、十歩程離れた地点だった。警戒の末の、許される限界の距離。

 だから信太郎は前へ、滝姫の背中を押し出す。優しさが気取られぬよう、力をしっかりと込めて。


 一歩、二歩。押された勢いで進んだ滝姫は、その勢いが失われると、足を止めて深く頭を下げた。死への恐怖に支配されたかのように縮こまる。

 河童が嗤う。くちばしだろうと分かる、明確な嘲笑が沼に溢れた。

 滝姫は縛られた手首を顔に寄せ、祈るような姿勢をとった。

 死を前にした最後の足掻きなのか。神頼みにすがるのか。


 違う。


 ぶちぶちぶちっ。

 嫌な音が雨音を裂いて鳴った。

 その正体は、枷の断末魔。

 滝姫は縄も蔓草も、纏めて顎の力だけで食い千切ってしまったのだ。

 そして自由になった手で、後ろの信太郎が差し出した刀を受け取って、突撃。疾走は風より速く、針より鋭い。瞬く間に殺意が吹き抜ける。

 雨模様に煌めく一閃。

 周囲が唖然とする中を、長は冷静に、無感情に、優雅に後退。刃を避けて水面へと降り立った。


 それを睨む滝姫の、見開いた目、裂けたような口元、喜や楽の欠落した笑み。獣よりも尚狂暴な顔が示すのは──

 憎き仇へと向けられた、敵意である。


「先にそちらが騙したのだ。騙し討ちに文句は言うまいな? 同族殺しの化け物よ」







「下手人が来六殿を害した理由は、裏切りへの制裁と戦を起こす切っ掛けを作る事。そして戦を起こす目的は、馬を手に入れる事にございます」


 宝を確認する為に強引に案内させ上がり込んだ、水増の屋敷。立派な造りや値の張る調度品は武家としての地位の高さを示すが、残念な事に家主は見る影もなく憔悴してしまっている。

 一室で披露されるのは調査の成果。河童の宝である妙薬の壺を確認した上での結論を、信太郎は集まる人へ向けて語った。永、番之助、滝姫、水増。皆、神妙に聞き入る。

 本来なら領主や他の重臣達も同席した方が良いのだが、滝姫が待ちきれないようなので話さざるをえなかった。そもそも滝姫は、永が水増と共に消えた後、この屋敷に先回りして待っていたのだ。そうまで逸る気持ちを見せられては応えたくなる。領主の姫としてではなく、夫を奪われた一人の妻としての願い。救済に努めるのも草薙衆の使命である。

 今も滝姫は、身を乗り出さんばかりの姿勢と抑えきれない渇望の表情で促してくる。


「順に説明してくれるか。まず裏切りとはなんだ」

「雨乞いの代償として姫様との婚姻を受け入れた事に御座います。姫様も聞いたので御座いましょう? 初めは馬を望んでいたはずです」

「……ああ。確かに」

「代償を勝手に変更し、名馬を手に入れられるはずの機会を台無しにした。故に制裁を受けたので御座います」


 滝姫の熱が衰えた。

 静かな怒りと嘆き、それから悔い。自らの提案が来六を殺したのだという罪の意識がそこに見える。

 しかし精神も人並外れに鍛えた女傑。すぐに表情を引き締め直した。


「そしてその死は、更なる馬を手に入れる手段として利用されたのです。誓いに縛られたままで目的を果たす為に」


 河童は人里に出られない。

 だから人の方から川に来てもらわなくてはいけない。

 しかも多数で、馬も連れてくる戦となれば、実に都合が良いのだろう。


「……何故馬なのだ」

「馬は古来より水神と深い関わりのある生き物であり、供え物として捧げられていたのです。故に馬が捧げられる事は、水神信仰の源ともなります。かつて失った水神としての力を取り戻そうとしたのでしょう」

「………………分かった。つまり、下手人は人間ではなく……河童である。貴殿はそう言うのだな?」

「はい」


 辛い沈黙が室内を支配した。

 平和的な解決はまず不可能。戦は避けられない。

 滝姫は歯をぎしりと噛み締め、番之助は苦い顔で考え込み、水増も事の重大さに一層青ざめている。

 ここで一人平然としているのは、やはり永だ。


「此度は、すぐに飛び出されないのですね?」


 永の発言に他の一同がぎょっとした。一時重苦しさも上回る衝撃。

 しかし当の滝姫は礼儀も気にせず、勝ち気な薄い笑みで応える。


「……ああ。頭は冷えた。拙者とて事の重大さは理解している。つい先程も我を忘れた身。二度も同じ過ちは繰り返さぬよ」

「ご立派な事です」

「済まぬな」

「いいえ、私はただ質の悪い質問をしただけにございます」


 上に立つ者は導く為に前を向かねばならない。

 滝姫は重荷を背負って、だからこそ前進しようとしている。その溌剌とした眼差しが、場の停滞していた空気を良好なものへと変えた。


 雨を止ませるには、実力行使しかない。

 しかも少数精鋭で、だ。

 思惑通りに武士が戦を仕掛ければ、力を得て誓いを反故にし、再び人に害を為すだろうから。

 失敗すれば全てを失う難題であった。


「間違いは許されない。河童が下手人である証左はあるか」

「無論あります。ここに」


 河童の妙薬の壺を、正確にはその表面に付着した、水草の切れ端を指し示す。それは編まれて生地になっており、更に言えば陣屋近くの川では全く見つけられなかったものだった。







「その着物……正しく壺に付いた水草と同じ! 言い逃れはすまいな!」


 女武者は猛々しく吼える。仇を確信して燃える。般若すら及ばない、それだけの恐ろしい覇気があった。闘志も熱く、刀を構え直す。

 対する長はゆったりと、あくまで優美さを残したままに首を振る。


「……残念です」


 企みが暴かれようと動揺一つ無い。全くの自然体。

 本当に残念そうに顔を歪め、知的に語る。

 ただし。ゆっくり押し潰すような静かな圧力で、暴力的に沼地一帯を支配しながら。


「神を敬う心を忘れ、牙を剥く。嗚呼、悲しく、哀れで、愚かしい。やはり人とは相容れないのですね。それでは交渉は原始的に……殺し合いをもって纏めると致しましょうか」

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