七 人はざわめき、蛙は跳ねて
長雨に悩まされる藩の中心地は、城のない小藩の為に陣屋であった。山を切り開いて造った広い土地に立派な門構え。武骨な塀の内には、主屋敷だけでなく家来の住居や各役所も建つ。
その中を蛙が跳ねている。小さく、くりくりとした目で、鮮やかな緑色の蛙だ。
雨で気分が上がっているのか。やけに元気が良い。蛙を見慣れている人間からすると不自然な程に。
そんな光景を目にする者は多くいても、わざわざ追い払ったりする者はいない。誰もが気にする余裕はなく動き回っている。
蛙は下働きの者や下級武士達の喧騒の下を、気ままに跳ねる。
「ええい邪魔だ! 何をしておる!」
「済みません! つい先程一仕事終えたばかりでして……」
「運び手が足りていない。蔵へ来てくれ!」
「はい、只今!」
「帳簿係は居らぬか! 誰か呼んで参れ!」
「はい、しばしお待ちください!」
「これでは人が足りませぬ。もっと増やしてくだされ」
「分かっておる。が、今しばらくはいる者のみで励んでくれ」
領主は災いの長雨に対抗する手段として武力を選んだらしい。
よって只今、戦支度の真っ最中。ただでさえ平和ぼけしていたところに、河童という異例の相手。武士に、兵に、下働き。誰もが慌てふためいている。また人が増えるので更に忙しくなるだろう。
蛙は跳ねる。逞しく立派な馬が並ぶ馬小屋に敷かれた藁の上を。
馬の鳴き声と匂いの中、男達が丁寧に世話をしていた。
「しっかし馬は河童との戦に必要なのかね? 川じゃ走れねえし、大して活躍出来んだろうに」
「いやそうでもない。川に引きずり込もうとした河童を、逆に陸地まで引きずり出せるらしい」
「ほう、そんなもんか」
「おう。だから機嫌を損ねないように世話すんだよ」
「分かった。分かったからそう睨むなって」
馬は武士の持ち物。騎馬武者は戦の花形。例え奇妙な戦だろうと変わらない。
だから男達は、自分や家族以上に気を遣って世話に励む。
蛙は跳ねる。今正に食事の用意をしている炊事場の土間を軽やかに。
女中達は手を動かしつつも、かしましく話に花を咲かせていた。
「全く、河童と戦だなんて。なんでこんな事になっちゃったんだろうねえ」
「ほんと、訳が分からないよ。ついこないだまで河童は婿殿だって世話してたのにさ」
「滝姫様もなんだかんだと幸せそうだったのにねえ」
「ねえ。確かに尻に敷いてたけどさ、殺すだなんてあるわけないよ」
「男どもはわからず屋揃いだよ。河童も、お侍も」
「ちょっと! 何処で誰が聞いてるか分からないよ!」
女中達は皆、不満を抱えていながらも愚痴で発散するしかない。ただ、世の流れに翻弄されるばかりの、ありふれた人々だ。
蛙は跳ねる。広く格式高い部屋の畳を。小さな身で襖をこじ開けてまで入り込んで。
そこにはしかめ面の家老に、緊張した風な位の高い家来が揃う。重要な話し合いが行われていた。
「兵の集まりは順調であるようだ。調練に不安はあるが、直に雨を止ませられるはずであろう」
「しかし相手は河童。人とは勝手が違いましょう。川に引き込まれれば厄介で御座います」
「近付かねばよかろう。槍でも弓でも鉄砲でも良い」
「その武具の具合はどうか。平和続きにこの雨、錆びてはおらぬだろうな」
「問題ありません。私が直接確認を済ませました」
「ならば良い。くれぐれも管理は徹底せよ」
「草薙の退治屋はどう致しましょう? 独自に探っている上に、二人ばかり増えたようですが」
「調査は許す。しかし戦力としては不要だ。一匹ならばその方らの仕事だろうが、数が数だ。戦となれば話が違う。陣形、指揮、足並みが揃わねば勝てぬ。組み込む訳にはいくまい」
「しかし知識方面では頼りになるはずです。事前に指導するよう話を付けましょう」
軍議に滞りはなく。皆、一丸となって纏まっていた。雨を晴らし土地を救うという、強い使命の下に闘志が燃える。
蛙は跳ねる。領主の執務室にまで入り込み、障子の枠に跳び乗った。
ここにはこの藩の重要人物が二人。敷居越しに、畏まった様子で話す領主の親子がいる。
「父上。考え直しては頂けませんか」
「決めた事だ。覆しはせぬ」
「しかし、これは戦で解決する問題ではないでしょう。下手すれば雨を止める手段を永久に失うやもしれません」
「では、滝を差し出せと言うのか」
「……そうではありません。それだけは、決して」
「では判るはず。相手は話の通じぬ化け物だ。他に手は無い」
「……草薙の者達に任せましょう。彼らは妖怪の扱いに関しては一番で御座います」
「確実でない。よいか、我らが背負っておる物を忘れてはならぬ。一手の間違い、一手の遅れが、人々の命を奪うのだ」
伏せられる跡継ぎの顔は苦悶の渋面。厳しく威厳ある領主への反論は尽きた。
意見の差異はあれど、どちらも領地、そして家族を思うがこその対立である。正義は常に揺れて人を惑わせてしまう。
蛙は跳ねる。奥の居住区域の板張りを堂々と。
ある部屋の前で、一人の武士が廊下から中へ言葉をかけていた。
「……御報告はこれにて」
「承知した。下がってよいぞ」
「はっ」
足早に固い顔の武士が去れば、音を立てるのは雨のみ。規則的な、混乱とは無縁の自然音。陣屋で唯一の静かな場所となった。
しかし、武士と入れ替わるように蛙が部屋へ近付き、障子へ留まれば、一変。
「……さて、拙者に何用か」
凛とした女の声は唐突に放たれた。
誰もいない。存在する生物は蛙だけだが、この雨空では障子に影すら映っていない。
しかし正確に蛙へ向けられた、突き刺すような鋭い言葉だった。
「答えぬのなら、敵と見なすが良いか?」
続く質問は殺気を帯びていた。
空気を冷やし震わせる、氷の気配。もし人がいれば怖気に肝を潰すような、密度の高い意思が言葉に乗せられている。
一、二、三。僅かな時がじわじわと過ぎる。
そして刃は振るわれた。
音より速く、風が切り裂く。
刀が障子から突き出て切り進み、その先には蛙。逃げ出す暇もない高速の太刀筋は、真っ直ぐに小さな生き物の中心を狙う。
哀れな蛙が正確に両断、される直前で、刀の切っ先がぴたりと止まった。
寸止めのはずが、しかしそこに蛙はおらず。波打つ白い髪で顔を隠す、恐ろしい気配の山姥が現れていた。
「……ほう。もしや山姥か? 初めて見た。拙者を喰らうつもりか? それとも河童からの使者か?」
刀が引かれ、障子が開き、女武者と山姥の目が合う。武者は白一色の喪服に似つかわしくない、つり上がった目付きと狂暴な印象の笑顔を浮かべる女だった。
対する山姥は顔を伏せ、再び上げる。その瞬きの間に見事化けおおせた。
こちらも凛とした美人となる。地味な着物を着こなす妖しい人妻。
永は切られかけた事などなかったかのような自然な動作で、礼儀正しく頭を下げる。
「いいえ、わたしは草薙衆の端くれである信太郎という男の妻でございます」
「ほう! 妖怪を妻にした男がいるのか!
拙者と仲間であるな!」
余程愉快だったのか、大口を開けて豪快に笑う。露骨に眉をひそめる永にも構わず笑い続けられた。
しかし一度満足すれば、真剣。戦いへ臨む強者の顔付きになって問いかけてくる。
「して、何用であるか」
「夫はこの地の問題の終息を望んでおります。生け贄も戦も無い、限りなく被害を抑えた終息を。願わくば滝姫様にもご助力──」
「承知! その話、拙者も乗ろうではないか!」
話が終わらぬ内に纏まり、永は続きを話そうとした口のまま固まった。喜ばしいのだが、訝しげな目付きで戸惑う。
そんな事を気にもせず、喪服を踊らせながら、女武者は激しく宣言。
「夫の仇討ち、参陣せねば武家の名折れよ!」
豪快。即断。我が道を行く。
これが件の、婿の河童を亡くした嫁。領主の娘、滝姫その人であった。
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