五 沼地の会談
河童の住処である沼は、その肩書きに相応しい人を寄せ付けない奥地の秘境だった。
周囲の木々から枝が沼の上まで伸び、空を隠す。水の色は濃い緑に濁っていて、水草や水棲生物はなんとかうっすらと見えるばかり。玩具のような木製の船が幾つも浮いているが、河童の物なのか、村から流れてきたのか。
河童の姿はあちこちにあった。小魚や小海老を食べていたり、寝ていたり、泳いでいたり。彼らの暮らしがよく見える。なのだが顔付きや所作には刺々しさがあり、更には信太郎の姿を見ると途端に殺気だった。怒りの臨戦態勢、荒い声と水飛沫が沼の神秘性を汚す。酒丸が黙らせなければ、また相撲大会をする羽目になるところだった。
沼の中央には浮島があり、枝が届かずに生まれた穴から雨が降ってきている。更に島の中心には、妙に存在感のある岩があった。そこが長との話し合いの場である。
「俺様は先に行って長に話をつけてくらあ」
言うが早いか大酒丸は飛び込んで、島へ泳いでいく。波を立てる豪快な泳法は周りの河童を押し流した。
待つ間、興味深い景色を眺めつつ、信太郎は永と暇を潰す。
「さて、長とはどんな河童かの。あれより筋肉まみれなのじゃろうか」
「あの酒丸殿が言う事を聞くのなら、そうかもしれぬな」
「ほう、河童に殿付けか。随分と仲良くなったものじゃのう」
「少々荒っぽいのが難だが頼れる御仁だ。主も仲良くすると良い」
「あれは好かん」
「それだけか? 理由はなんだ?」
「好かん」
「……そうか。ならば仕方ない」
苦虫を噛み潰したような顔になる永。機嫌の悪さに押し黙る内に、酒丸が戻ってきた。
再びざぶんざぶんと波が立つが、多くの河童達は既に避難して、むしろ波へ果敢に挑むような輩しかいないので被害は無かった。
岸から少し離れた所から大酒丸は顔を出し、腕を大きく振って招いた。
「長は客と認められた。少し待ってな。人にゃ渡れねえだろ」
「遠慮しよう。主が手を煩わせる必要はない」
「主を使うなど御免じゃ」
「違えよ。道を造って下さるのは長だ」
道を造る。その言葉に疑問を覚える信太郎。
何が起こるかと待っていると、沼全体で大きな流れが生まれた。
河童達に影響は無いが、波に乗って枝葉や木製の船が意思を持つかのように移動。沼中から集まり、固まり、そして一本の橋となった。
足を乗せると、揺れはするが沈まない。しっかりと橋として利用出来る。水神の由縁を持つ妖怪。その力の一端を見せられた。
畏敬を覚えつつ信太郎は進む。が、永は付いてこない。ぶすっとした顔で不満を訴える。
「わしは嫌じゃ。河童に頼るなど好かん」
そう言い残し、忽然と消えた。単に不機嫌なのか、妖怪としての対抗心めいた感情が理由か。
仕方ないので酒丸と二人で歩いていく。
すると目的地である浮島に、永が先回りして待っていた。したり顔で、自慢げに。
人間離れした芸当だが、実際人ならざる永には朝飯前の移動であるのだろう。
「クハッ。面白えじゃねえか」
「いや、妻が礼を逸して申し訳無い」
「謝る必要はなかろう。河童に舐められては山姥の名折れじゃ」
未だ永の不機嫌は直らないらしい。
相手は荒い性格の大河童。一悶着になるかと思い信太郎は諌める言葉を考えていたが、意外にも酒丸は流した。
「俺様はいいが、長に失礼はすんじゃねえぞ」
島は狭い。岩の周りにあまり余裕はない。
雨に降られる中、岩の反対側へ回ると、長に迎えられた。
「ようこそお出でくださいました。わたくしはあなた方を歓迎致します。人は雨降りの中を好まないでしょうが、どうかお許し下さいませ」
長の河童は水草を編んで作ったらしい深い緑の着物を着ていた。細く、たおやかで、気品がある。
どうも女性のようだ。
大酒丸は綺麗な姿勢で平伏している。余程意外だったのか、ぷっ、と永が吹き出した。
妻の失礼は夫が挽回せねば。信太郎は一層姿勢を正して頭を下げる。
「この場を用意して頂き、有り難う御座います。早速ですが、この地の異変についてお聞かせ願いたい」
「承知致しました。あなた方は余所者である上に鬼女とその夫、中立に判断を下すと信じています」
長の丁寧な物腰は好ましく、礼儀の手本にも相応しい。
しずしずと、理路整然に話し始めてくれた。
「そもそもの発端は、もう五年近く前になるでしょうか。ある河童の悪さでした」
河童の名は
ある日来六は川の水を飲む馬を見つけ、川に突き落とそうとした。
しかし馬力に負け、逆に引き摺られてしまう。
そして馬の持ち主である少女に囚われた。幼い身でありながら刀を腰に差し、馬を乗りこなす、一種異様な雰囲気を持った少女に。
あとで知ったところによると、彼女は領主の娘であった。名を滝姫という。十程の歳ながらお転婆で有名で、その日も家臣に隠れて抜け出してきていた。馬も家が誇る名馬であった。
彼女はどうか見逃してくれ、と許しを乞う来六を見下ろし、堂々と言ってのける。
「拙者が沙汰を下す! 反省し、二度としないと誓え! なれば罰は下さぬ!」
幼子ではあるが、領主の娘。育ちの影響か、子供とは思えない重厚な威厳があった。
そうして来六は心底から謝罪し、二度としないと誓い、証として川魚を差し出した。それを滝姫は認め、手打ちとなった。
この一件以来、来六は滝姫に対しての友好的な感情を抱いたらしい。
「どうやら度々村の方へ行っては人と、特に姫と交流していたようです。私としても止めてはいたのですが……」
「人と関わるべきではない、とそうお考えなのですね?」
「はい。人と妖怪は相容れず、結局は争う羽目になりますから。……今回のように」
長の重い発言と向き合いながら、信太郎は冷静に話を整理する。
滝姫の人となりは番之助から聞いた話にも通じる。河童が何故婚姻を求めたかも理解した。
人を化かし騙そうとする妖怪の悪意は、今のところ感じられない。信用してもいいのだろうか。
「ここから先は今現在の話となります」
長は一息ついた。
凛と清らかな光を宿していた瞳に、悲しげな色が混ざり始める。
春からの日照りは河童も苦しめていた。だが沼の水は豊富であり、雨乞いは命を削る。天気に介入するつもりはなかった。
例外が、来六。
彼は村まで赴き、人に手紙を託した。
内容は「滝姫が嫁になるのなら雨を降らせる」というもの。
河童達は、上手くいく訳がないと思っていた。馬鹿にすらした。
しかし後日、本当に滝姫は来た。美しく立派な女武者に成長した彼女は、来六に会って条件を確認すると村で待った。
来六は浮かれ、意気込んで雨乞いを始めた。
そして実際に雨が降ると。
「よくぞ日照りより救ってくれた! 約定通り、婚儀を結ぼうぞ!」
滝姫は喜び、来六を自分の馬に乗せて颯爽と連れていってしまった。
人間からすれば到底飲めない条件であるはずなのに、律儀に守るらしい。沼は驚きに沸いた。
予想外だが慶事には違いない。沼の河童も祝福し、長からも祝いの品として宝を贈る事に決めた。
その、わずか三日後だ。
来六が、物言わぬ死体となって川を流れてきたのは。
「つまりは、婚儀など虚言。初めから約定など破り捨てるつもりであったのです」
長の声が雨すらも凍りつかせた。
平地の川の流れのように、ゆったりと立ち上る鬼気。冷や汗を誘う怖気。
女性らしいたおやかさを維持したまま、長は威圧感を
これぞ本性。力持つ女怪、永と同族なのだ。
信太郎は負けないよう腹に力を込め、問いかける。
「故に、止まぬ雨を降らせて人を苦しめるのは正当だ、と言われるので?」
「わたくしの要求は既に伝えています。来六を裏切った人間を差し出せば、他の人間は救いましょう」
「しかし何故下手人が滝姫様だとお思いなので? 他の人間やもしれぬのでは」
「直接手を下した人間が誰であろうと興味はありません。旦那を守る事も出来なくて、何が婚姻の約定でしょうか」
ああ、と信太郎は諦めるように理解した。
人の法と妖怪の理は違うのだ。
説得は不可能。道理よりも真実よりも、遥かに強固な意志がそこにはあった。
「こちらは誓いを守っているのです。人間にも守って頂かないと」
「誓い、とは?」
「こちらを」
長が岩を指し示したので、見ると文字が刻まれていた。
人里に出るべからず。
人馬を川に引き込むべからず。
人の求めあれば応じるべし。
「お恥ずかしながら、かつてわたくし共は狼藉三昧を行っていました。しかし御坊様にお叱りを受けまして。こうして誓った次第です」
草薙衆の一員だろうか。
退治はせずに反省させる。落としどころは河童に温情のある、しかし人への害を封じるもの。
今回の件では既に破られている気がしたが、違う。
まず滝姫の方から河童の領域にやって来て、来六は馬を川に突き落とそうとして、滝姫が許したから来六は人里へ出た。
雨を止めないのも、最初の雨乞いこ願いにずっと応じ続けている、という形だろうか。
抜け道は多い。ただ、逆に言えば正面から反故にはできない強い誓いだという事だ。
信用は、できるだろうか。
増えた情報に悩む信太郎の前で、長は雫が滴るように、殺気をじわじわと世界に放つ。
「裏切りには制裁を。悪逆には誅伐を。人には恐怖を。頭から投げ落とし、川に沈め、尻子玉を抜かねばならないのです。……さて、あなた方、わたくしの考えは間違っていますでしょうか?」
「……確かに、罪人に罰はあるべきですが」
「間違いか、など妖怪が気にする方が可笑しかろう。好きに勝手に化かせば良い」
「お分かり頂けたようで、なによりで御座います。それでは、悪逆を裁くお手伝いをして下さいますね?」
ただそこにいるだけで死を連想する、不吉な気配。大妖の言葉に本能が震わされる。
有無を言わせぬ口調と視線を最後に、沼の会談は終わりを迎えた。
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