四 川相撲梅雨場所
「ふうううぅっ!」
「キュイアァァ!」
気合いは
信太郎と河童が、川辺に描いた即席土俵の内で組み合っていた。
河童の手は信太郎の帯を、信太郎の手は河童の甲羅をがっしり掴んでいる。初めは濡れた肌では勝手が悪いと思っていたが、何も問題無く相撲がとれた。
今優勢なのは信太郎。
一歩一歩、組んだ状態でじりじりと寄っていく。河童の対抗する力は弱い。
土俵際まで寄り切れる、というところで、河童が動いた。
足を内側から、前進する膝裏へ掛ける。寄る力に沿って引かれ、浮いてしまう。
時を逃さぬ見事な仕事。
重心を崩し、仰向けに倒そうと河童が攻勢をかけた。小柄ながら、外見に見合わぬ気迫でもって。
しかし、許したのは片足だけ。
傾いた態勢で尚踏ん張る。筋肉で姿勢を整え、大木のように不動。勝ちを確信した河童が戸惑う。その隙に足を外し、改めて土を踏み締める。勝機は十全。
そして投げた。
河童は高く浮き、豪快にひっくり返り、大の字に倒れた。
決まり手は上手投げ。信太郎の勝利である。
「次ぃ!」
荒いままの息で威勢良く叫んだ。諸肌脱ぎの体は雨と汗で濡れている。
これでおかわりは十回目。相撲好きの河童相手に十連勝。
河童達からは、信太郎への罵声と良い相撲への歓声が半々の割合であがった。永は手頃な石に腰かけ、腹を抱えてケラケラと笑っている。随分と楽しんでいるらしい。何処か嘲笑っているようにも見えるが、気のせいだとしておく。
相撲大会は大盛り上がり。河童の敵意も大分薄まっている。この調子ならば河童に認められるのも時間の問題だろう。
と、思っていたのだが、群れをかき分けて進み出てきた、十一番目の河童は少々違っていた。
「クハッ。人の癖にやるもんじゃねえか」
不敵に笑うのは他より一回り大柄の河童だった。
大股で肩を揺らす歩き方で、仲間にぶつかっても一顧だにしない。粗野な振る舞いは博徒や盗賊の親分めいた雰囲気。それだけに居るだけで周囲を黙らせる貫禄がある。大物だ。
「沼の長か?」
「いんや? 俺様の名は酒丸。見込み通り沼で一等の豪傑だが、長じゃあねえ」
「だが立場は高いのだろう?」
「その通りよ。もし俺様に勝てるもんなら、長に紹介してやらあ」
「二言は無いな?」
「あたぼうよ。もし万が一、勝てりゃあ、だがな」
大酒丸は土俵に上がると、四股を踏んだ。高く、力強く、綺麗な姿勢だ。
それだけで、違う、と実感した。
磨きあげられた肉体。努力に裏打ちされた技。燃えるような気迫。見ただけで圧倒するような眼力。
これは引き締め直さねばなるまい。信太郎は己が心身を昂らせる。
「はっけよーい」
永のやる気のない行司。
それに反して土俵の両者は闘気を研ぎ澄ませていく。観衆は固唾を呑んで始まりを待つ。
視線で、呼吸で、互いが戦法を探る。運悪く間にあった空気が固く緊張。湿気を上回る熱気の中で勝負は始まっている。
そして、両の拳が土に、着いた。
「のこった」
ガチン!
辺り全てをビリビリと震わせる衝撃が走り抜けた。
ぶちかましは互角。額同士がぶつかり、同じように弾かれて距離が空く。割れた額から流血が垂れた。
その程度の怪我は軽く無視され、お次は突っ張り。
酒丸が放つそれは強烈だった。まるで大槌の一撃。食らった胸板が赤くなったが、信太郎の足腰は揺るがない。
二発目を横にかわすと、腕を脇に抱え、そこからの捻り手を狙う。しかし、手応えは消失。にゅるりと引き抜かれてしまった。
だから今度は信太郎の突っ張り。速く鋭く、刀で突き刺すように打つ。
肌で弾ける炸裂音。跡は赤く目立つが、重心は小揺るぎもしない。
続け様の手は、やはり水掻き付きの掌に狙われたので素早く引いて空振らせた。
息つく暇も無い攻防の合間に、酒丸は笑う。
「クフッ。強えな、アンタ!」
「主こそ!」
風を切り、土を削る。主導権を握る為に自然を穿っていた。
甲羅を狙う手が払われ、帯を狙う手を叩き落とす。
足を取ろうと潜れば、上から押し潰されそうになったので撤退。顔や首を攻められたら、懐に入る好機と踏み込んだので逃げられた。
決して力任せでなく、技による戦いを心得ている。
天秤はどちらにも傾かない。どちらも、相手側には傾けさせない。
一進一退。実力伯仲。
故にこそ外野は、懸命に差を求める。
「やっちまえ兄貴ぃ!」
「おいおい、あいつぁ本当に人か!?」
「酒丸ぅ!」
「ほれ旦那様、河童相手に苦戦など情けなかろうが。もうちっと面白く相撲をせんか」
観客は口々に応援や野次を飛ばすが、土俵の二人の耳には入っていない。土俵と己と相手、それだけの狭い世界に集中していた。
最早言葉は不要の、手さばき一つ足さばき一つで語る世界。
肉を叩き、空を払い、気炎が奮う。
技を出しては弾き合い、取っては外し合い。しかしそれも、長期戦となれば次第に陰る。鈍りゆく動きは気力で補う、消耗戦と化した。
気持ちだけならばいつまでも戦える。しかし体は、非常に雄弁。汗が流れ落ち、目も霞む。
不味い。
と思った矢先、隙を捉えた狩人の気配に背筋が粟立った。
勘を頼りに攻め手を潰すべく手を払う。
しかし酒丸の右手は更にその下。帯。がちりと掴まれる。そして滑らかで流麗な動きで体を開き、信太郎の体を意思から解き放った。
組まずに、片手で、強引な投げ。しかし文句のつけられない技。
強烈な引きで、左足が、重心が浮く。天地が逆転。踏ん張りも効かず、土俵へ落ちていく。
されど、黙って負けは認めない。
視線は酒丸から外していない。投げの途中で、両手を伸ばす。右手を甲羅まで、左手は膝へ。肘を締めて基点にし、ぐっと全身を引き付け、片足を立てて踏ん張る。
投げられるまでのわずかな時に、できる限りの仕事を終えた。
背中と土まではわずかしかない上に、維持するだけでも辛いかなり無理な態勢。それでも、耐えられた。
が、最後まで倒してやろうと、大酒丸は体重をかけてくる。抗いきれない絶対的な重み。決着の一手。
しかしそれは、逆転の機会でもあった。
腕の支えを頼りに足を滑らせる。上からの力を、信太郎は両手両足全筋肉を用いて、回す。
流れは大渦。互いの作る勢いを合わせて混ぜて、横向きの力へ変える。二人揃って宙を舞い、土俵外へと転がり出る。
後は、どちらが下になるかの勝負。
決して、運任せではない。姿勢、重心、肉体を操り、最後の瞬間まで、両者は争う。
「ふうううぅぅっ!」
「ギュワアァァッ!」
激しい駆け引きも終わり、そして着地。
二人分の衝撃で辺りが大きく振動。木から葉が落ち、川の水面が跳ねる。
静かになった世界で観衆が見てみれば、下になっているのは、緑の影。
果たして大一番は決着。勝者は、信太郎。
途端に音が溢れた。番狂わせに罵声歓声、あらゆる意味を含んだ言葉の嵐が吹き荒れる。
中心で全てを浴びながら、信太郎は立ち上がった。静かに一礼。声は受け入れ放置する気でいる。
「黙らねえか、みっともねえ!」
大音声の一喝。
ぴたり、と静寂が訪れた。
例外はケタケタ大笑いする永ぐらいだ。そして彼女はとんっと一足で信太郎の下へ。手拭いを取り出して肌の汗を拭う。
「河童相手とはいえようやった。ここは褒めねばならんの」
「有り難い。やはり妻の前で無様は晒せんからな」
夫婦は微笑み合った。静かになった川原で、河童達を意にも介さず。
一方、大酒丸はむくりと上半身を起こし、あぐらをかいていた。その顔は、何処か満足そうである。
「負けたぜ。約定通り、長に紹介してやらあ」
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