第二章 河童と仇討ち
一 人でなしの旅路
空には色の濃い雲。その下には険しく緑深い山々。初夏の空気の中を、雨がしとしとと降っていた。
天は地を平等に濡らす。鎮守の森に囲まれ、清らかな空気に満たされた八幡宮もそうだ。水を吸って色の変わった木材や砂利の間の水溜まり。普段とは姿の違う神域は、太陽の下とはまた違う風情がある。
その拝殿の前に旅装の男女がいた。雨に濡れた笠に
男は熱心に祈るが、隣の女は参拝に興味がないのか手持ち無沙汰に待っている。幼い子供の仕草のようではあるが、何処か神秘的な儚さもあり不思議と様になっていた。
「なあ。ちと賽銭が多くないかえ?」
男の参拝の終わり頃を見計らって、女は言った。視線は冷たく、声は刺々しく。
それも無理はない。巾着は引っくり返されて中身全てが賽銭箱へ投じられ、空っぽになってしまっていたのだ。
しかし信心深い男にとっては何も問題ではないらしく、澄ました顔で反論する。
「むしろ足りぬ位だ。八幡様には幾度となくお力を貸して頂いたのだから」
「にしても限度があろう。わしらの使う分が残っておらぬではないか」
「不満か? おれは初め、貧乏でもいいかと確認したのだがな」
「人の言葉をよく学ぶと良い。貧乏とは銭を少ししか持たぬ者の事よ。無一文は貧乏とは言わぬ」
「それは済まぬな。おれの無知で勘違いをさせた。だが出した物は引っ込められぬ。また山で何か食える物を探せば良い。いやそろそろ山菜も終わる時期か……。代わりに川魚が旨かろう」
「主よ。わしより山が似合うようになったな」
「そういう主は町に染まっておるようだな」
「そうじゃとも。お堅い主とは違うて、わしにはささやかな欲があるのよ」
「ふむ。ならば次からは善処しよう」
「ほ。二言はないじゃろうな? お優しい旦那様をもって幸せじゃ」
信太郎と永は神前で掛け合いを続ける。嫌みのようであり、楽しんでいるようであり、二人独自の好ましい雰囲気があった。
大手を振って歩けない身の上になろうと、相も変わらず会話は尽きない。夫婦は健在である。
罪人として出発した二人旅は、北を目指して進んでいた。行き先は永が決めた。理由はこれから暑くなるから涼しそうな方が良い、である。要は何処でもよかったのだ。
関所を迂回し山を越えた先の国に入り、旅路はもう
道中は順風満帆とはいかない、苦難の連続だった。
路銀も無く、頼りも無く、旅装だけを身に付けて出発したのだから当たり前だ。
野草や茸が主な食事。魚や鳥も数は少ないが獲って食べた。
町に寄れば妖怪絡みの問題から狼藉者相手の用心棒までこなして、路銀を稼いだ。それも必要な最低限の額であり、むしろ相場より遥かに安い報酬で引き受けていた。信太郎の罪の意識がそうさせたのだが永は納得していなかった。
とはいえ抵抗は口だけで、心中では認めているところがあるのだろう。
荒事には力を貸してくれるし、難題には知恵を貸してくれる。互いに助け合い、常に味方でいてくれる。不思議な安心感が心地好い。素直でないのも愛嬌だと言うが、永は本心で言っているのだろう。
信太郎としては他愛ないじゃれ合いのようなものだが、こうして神域に似つかわしくない騒がしさを生んでしまうのは忍びなかった。
と、そこに、他人の気配を感じた。
鍛え抜かれた武人と、山姥。二人の鋭い感覚は、第三者に話を聞かれぬ距離で下らないやり取りを止めさせた。
「なにか私共に粗相がおありでしたでしょうか」
傘を差して社務所からやって来た彼は、この神社の宮司だろうと分かった。
腰は低く、情けない顔付き。心配のし過ぎで怯えているようにも見える。騒がしさを聞き付けて勘違いしたらしいが、それは本意ではない。
「とんでもない事です。問題は私達の都合ですので、あなた方が気に病む必要はありません」
「はい、実は私達、今日食べる物にも困ってしまっていて……」
「ああ、それなら御心配には及びません。御食事ならば私が御用意致します」
ほっとした宮司からの魅力的な提案。
それに永が飛び付く。本心を気取られないように、理想の女性を演じて。
「まあ、ありがとうございます。なんとお心の広い方なのでしょう。見ず知らずの旅人をお救い下さるなんて」
手を合わせ、感謝を伝えるのに相応しい満面の笑みを向けた。繁盛している茶屋の看板娘にも劣らない。山姥が化けているとは到底思えないだろう。
正体を明かして以降、永は美人に化けている時でも山姥めいた喋り方をするようになった。
だが、他人がいる時は以前のような言葉遣いをしている。完璧に使い分けて、いや、あまりにも見事に化けていた。
それを指摘すると「主も相手によって変えておろうが。何が違う」と反論してきてまた口論に発展したのは忘れていない。
乗り気の永とは違い、信太郎は遠慮する。
「お気持ちは有り難いのですが、受け取る理由が有りませぬ」
「おや? あなたは草薙衆の方でしょう? 要請を受けて派遣されてきたのでは?」
「……いいえ、確かに私は草薙衆の一人ではあるのですが、此処へは旅路の途中に偶然寄っただけなのです」
表情があからさまに変わり、相手の落胆が目に見えた。初めの怯えも、折角の援軍の気分を損ねては帰ってしまうという焦りだったか。
つまり、それだけ困っている。
事情を知らずにこの土地へ来たが、これも天命だろう。即断即決。信太郎は引き受ける事に決めた。
「話を聞かせてもらえますか。私共に手伝える事ならば手伝いましょう」
「ああ、ありがとうございます!」
「いいえ、当然の責務です。御礼を言われるような事ではありませぬ」
ぱっと明るくなった宮司に釣られ、信太郎も温かく笑った。
妖怪が起こす問題の解決。それは、ただ鍛えた体が取柄なだけの信太郎に出来る数少ない贖罪なのだ。生かされている理由であり、目的と言っていい。使命感に熱くなる。
一方で背後の永が揉め事の面倒を不満に思っている気配を感じてもいた。隠れて溜め息を吐き、天を仰いでいるのだ。
それでもなんだかんだと手を貸してくれるのは分かっている。だから感謝しているし、その証としてまた願いを叶えなければならない。具体的には今日の食事を求めるだけ分ける事になるだろう。
その為にも、まずは目の前の事に全力で取り組む。
「この地では今何が起こっているのでしょうか?」
ただ、宮司から出された言葉は、流石に驚きを隠せないものだった。
「実は、只今この土地では、領主と河童の群れとの間で戦が起きかけているのです」
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