十二 人と妖怪の道行き
朝日差す町に満ちる、声、声、声。鶏の代わりとでもいうかのように、人の話し声や怒鳴り声が早朝から止むことなく生まれ続けていた。
その騒ぎの中心は奉行所。奉行から同心まで一人残らず動揺し、町中にも噂という形で広がってしまった。
与力殺しの事件。及び草薙衆、信太郎の出頭が理由である。
彼は取り調べには素直に応じ、洗いざらい喋った。だが事は妖怪が関わる上に、内容は信じ難い。専門の人間も他にいない。
調べは難航し、一日中続いたのだった。
そして夜。
「明日、また話は聞かせてもらう」
「はい、なんなりと答えますとも」
「……なんだ、その顔は」
同心の里見清蔵は険しい目付きで問いかける。
牢の中。小さな灯りに浮かぶ、信太郎の表情が縁側で庭を眺めているように穏やかで、薄気味悪い違和感があったからだ。
戦闘による傷、取り調べの際に負った傷まであるのに、それが感じられない。苦痛とは無縁で、恐怖もまたない。
彼は世間話の気軽さで答える。
「これは失礼。罪人にあるまじき顔でしたか」
「ああ、まるで満足に仕事をやり遂げた職人だ。余程殺しが満足だったと見える」
「いえ。満足なのはこの後の私自身の死、で御座います」
がしゃん、と牢の格子が激しく鳴る。
清蔵の睨みは視線だけで生き物を恐れさせる憤怒を宿していた。それは信頼し認めていたからこその裏返しか。
「……死ねば許されると思うのか。貴様には期待していたのだがな」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
「ならば今からでも山姥を斬りに行け」
「その命だけは従えませぬ」
きっぱりと拒絶。穏やかな雰囲気はそのままに、硬く重い意志が覗く。
信太郎は妻だった山姥を、斬ったが見逃したと正直に報告していた。当然討伐隊が山に派遣されたが、討伐どころか発見の報告すらない。恐らく既に遠くへ逃げただろう、と奉行は半ば諦めている。
清蔵も説得出来るとは考えていない。文句の一つも言いたくなっただけだ。
「貴様の後任については、草薙と話がついた。死後の心配は無用だ。安心して首を斬られるといい」
「心配ならば、もう一つ。一人目の山姥についてはどうなさいますか」
「……退治して塚を造ったのならそれで良い、と奉行は仰せだ」
「よろしいので?」
「言わせるな。これ以上つつかんでよい藪をつつく暇など無いのだ」
「助かりました。これで安心して黄泉へ行けます」
静かな返答に舌打ちが出た。
皮肉の類でなく、本気の言。思い残す事は無く、死を既に受け入れている。そうと理解したからこそ、苛立ちを募らせる。戻る間際、振り返った背中には隠せずに昂る感情が見えた。
信太郎は一人残され、暗い牢で心を落ち着ける。
悔いは無い。恨みも無い。
短く、未熟で、何も為せていない愚か者の人生だった。それでも、納得はしている。これが自分の人生なのだと満足している。
だから、ただ、静かに終わりの時を待つ。
「うん?」
その穏やかな時間に、無粋な物音が聞こえた。
集中すれば音だけでも察せられる。見張りを気絶させ、扉を強引に破る荒々しい侵入者だ。
段々と足音が近付いてくる。急がず、気配を消さず、普通に歩いてきている。
相手の予想は容易についた。
「……そうか。妖怪の理は曲げられぬか」
現れたのは波打つ白い長髪の下に、皺だらけの肌、ぎょろりとした目、乱杭歯を隠す山姥──永だった。
彼女は錠を壊して牢に入ると、大きく爪を振りかぶる。そうなると分かっていた信太郎は目を閉じ、抵抗せずに待つ。
痛みは一瞬。呆気なく意識は闇に落ちた。
翌朝。
気絶した牢番と、赤い血の染みだけが残った牢が発見される。その後の捜索においても罪人は見つからず、忽然と消え去ってしまったのだった。
二日続けて町は朝から騒がしかった。正確には昨日よりも規模が大きく、鶏など比較にもならなかった。
噂は人の口を渡る毎に形を変えて膨らんでいくものだからだ。
男は山姥に食われた。いや、手懐けられた山姥が逃がした。いやいや、実は殺人を仕組んだのも、逃走の手助けをしたのも奉行所だ。いやいやいや、男こそが人の振りをした化け物だったのだ──。
真実はすぐに価値を失くした。
実態を知る奉行所の人間は罪人を探して駆け回る。無礼な噂をする町人がいれば怒鳴り散らす。騒ぎに乗じて悪事を働く者もいて、更に奉行所は多忙を極めた。
そんな慌ただしい町並みを、女が静かに歩いていた。
凛とした佇まいの、芯が強そうな美人だ。長旅の最中なのか、笠や脚絆や杖、旅装を身に付けて大きな荷物を背負っている。それでも不思議と誰にも注目される事なく、するすると町を抜けていった。
彼女は町を出て街道を外れ、森に入り、悠々と進む。庭であるかのように自然に。
険しくなる山道も、獣道も、涼しい顔で軽々と歩く。山に慣れた人間だとしても異常な、人ならざる道行き。
その終着点には、身体中を怪我して木にもたれかかる人物がいた。町の噂の源、信太郎である。
「何をしてくれたのだ」
下から投げつけられた、怒りが滲む重い言葉。
顔付きは不満に歪む。今度は信太郎が睨む立場になっていた。
しかし対応は薄情。旅装の女──人に化けた永は荷物をほどき、もう一組の旅装を取り出しながら、平然ととぼける。
「見て分からぬか? 旅支度じゃ。もうここには居れぬ身じゃからのう」
「おれの分まであるのは何故だ?」
「二人旅じゃからの。当然じゃろう?」
「おれの行き先は白州、そして黄泉の国だ。旅支度は要らぬ」
「頑固よの。逃げられるのなら素直に逃げておくのが人間じゃろうに」
流れゆくやり取りに、信太郎は不覚にも温かい好感を覚えた。
姿は以前の永だが、言葉遣いは山姥の本性を表していた時のもの。その違和感も気にならない。全てを含めて一人の永であり、どの永とも馬が合うのだと実感してしまった。
だとしても、死ぬべき自分を助けた事は認められない。
その強い意思を察してか、永はしゃがみ、信太郎と目線を合わせて言った。
「人の法と妖怪の理は違う」
同じ行動、同じ台詞。明らかな意趣返しは、信太郎が出した結論に対する答えだった。
これぞ正に妖怪。人を化かす妖しげな笑みをたたえて、永は語る。
「わしは主に命を助けられた。じゃからその恩返しをせねばならぬ。が、この恩、命を助けただけでは釣り合わぬ。さて、由緒正しい化け物の恩返しといえば何じゃ?」
「……富を与えるか、あるいは……嫁入り、だな」
「ご明察。じゃからまた、宜しく頼むぞ、旦那様?」
人の悪い笑みをたおやかに手で隠す永の言は、信太郎を絶句させた。
この山姥はまた夫婦になろうと言うのだ。
次の相手を探さずに、懲りずに、信太郎と。
望みを壊したのは信太郎の願いが原因であるのに。決着は死に至らなかったとはいえ、あれだけの殺し合いを繰り広げたというのに。
許すというのだ。
ならば、信太郎はどうか。長年騙し、食い殺そうとした永を、許せるのか。また夫婦になれるのか。
「何を黙っておる。醜いわしに幻滅したのかえ」
「不満などあるものか。……また夫婦になるのも、良いかもしれぬな」
恨みなど無い。許すべき罪が永にあるとは思っていない。だから微笑んで答えた。
許せないのは、自分自身の方だ。
「だが、おれは罰を受けねばならぬ。人の法によって裁かれねば、人としての生を全うした事にはならぬのだ」
「罰ならば死後でよい。あの世で思う存分苦しめばよかろう」
「死後の裁きは神の理だ。人の裁きではない」
「何が違う。罰は罰じゃろう。差別しては地獄の鬼どもに悪かろうに」
「目的が違う。罪人が裁かれる事とはつまり、世の秩序が保たれている事を示す証ともなるのだ」
「ふむ。罪人を逃がす奉行所など役立たず、とされては困る、と。まったく、流石は我が旦那様。お優しい人間よの」
そう言う永は、小馬鹿にしたような、しかし誉めてもいるような、どちらともつかない、あえて言えば人を化かす表情だった。
こうして話していると、やはり永だ。今までとは多くが違うのに、しっかりと変わらぬものを感じる。
「じゃがどうする。再び捕まろうと、再びわしは逃がすぞ。そうなれば不出来の烙印は積み重なっていくのう」
信太郎は悔しげに歯噛みする。
確かに奉行所の警備は簡単に破られるだろう。何度でも、何をしようと。人知を超えた山姥なのだから。
だが言い訳にはならない。永の方に折れて貰わなければならない。
「おお。そう言えば主への言伝と預かり物があった」
ぽん。とわざとらしく手を打ち、永は懐から何かを取り出す。
怪訝な顔をする信太郎が見たのは、丸くつやつやとした光沢のある石。疑問がより深まる事となった。
「団子の礼じゃとさ。縄張りを騒がせた詫びにお仲間の下へ赴いたらの、小童がくれよった」
山の親子の姿が脳裏にはっきりと浮かんだ。言われてみれば、いかにもな子供の宝物。価値のある贈り物だ。
じんわりとした熱が胸に生まれる。
彼らを守りたいと思い、それは成し遂げられた。悪行による結果だとしても。
人を殺して、妖怪と子を助けた。ならば、罪だけでなく、功も背負うのが平等であるはずだ。
──だとしても。
「それは許される理由にはならん」
「ならばわしを斬ればよかろう?」
「斬れるものか。二言はない」
「ほ。ならばおめおめ生き延びるしかないのう」
ニタニタと笑う永に、信太郎は押し黙るしかなかった。
互いに譲らない堂々巡り。いや、信太郎が弱い。もう永を斬る事はない。である以上は、提案を呑むしか道はなさそうであった。
人の法と妖怪の理は違う。
今一度、その意味を考える。
溜め息を吐き、頭を冷やす。そして、真っ直ぐに目を合わせて尋ねた。
「そこまで求めるなら聞かせてくれ。何故、おれとの暮らしを望む」
「恩返しの為じゃと言うたろう」
「その前、一昨日以前はどうだ。何故、騙してまで夫婦になった。おれを食うのが目的ではなかったのだろう?」
「……さて、なんだったか。気紛れか、冷やかしか、憧れか、はたまた人里を乱す壮大な計画があったか──」
「もしや、先祖から続く願いではないか?」
信太郎の割り込みに永は沈黙した。すっと目を細めて無感情に見つめてくる。まるで失望したように。
山姥は零落した山の女神であるとも言われている。かつての女神に連なる存在なら、神格を取り戻したいと望み、叶える為に人との繋がりを得たいというのも納得だ。
だが、そんな推測は永自身を
確かに、この問いは無粋であった。そう反省して信太郎は首を横に振る。
「いや、失言だった。あくまで永自身の望み。そうだな? ならばおれは口を挟まぬ」
「そうも下手に出られては居心地が悪いわい。……安心せい。主を気に入っておるから誘っておるのよ」
木漏れ日が彩り、風が演出する瞬間。永は人ならざる気配を漂わせて微笑む。神秘的な表情には、内容以上に伝わるものがあった。
理由ははぐらかされたままだが、胸に秘めるのは人に話すのもはばかられる、脆くて純粋な願い。大切に丁重に扱うべき心だと、感じたままに決めつけた。
「あい分かった」
信太郎は腹を決めた。
元々、人の法に従うならば、永を斬るべきだった。それを破り、永を優先したのだ。
だからもう一度。法を無視し、妻を優先する。自分に尽くし望みを叶えてくれた永の望みを今度は信太郎が叶える番だ。
故に、人でなし。
己は悪であり、罪人であり、化け物である。そのまま全てを背負って生きていく。そして惨めな最期を遂げる。
人を求める妻を傍らに、哀れな化け物として、人外の理でもって生を全うするのだ。
いずれ罪を償う、罰を受け入れる為の旅路を、夫婦で歩んでいくと、そう決めて立ち上がった。
「貧乏で苦しく、過酷な逃亡生活だ。それでもおれを選んで付いてきてくれるのだな?」
「うむ、うむ。主となら、あの世の果てまで付いていこうぞ」
第一章 山姥と恩返し 了
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