十一 罪の在処

 奇怪なざわめきに囲まれた、血風の吹き荒ぶ川原には、矮小な人と巨大な山姥。

 頭上には夜空を隠してしまう巨大な足がある。月光が遮られ、足と空の境界がはっきりしない。まるでこの世ではないような、現実離れした光景。


「はっ!」


 信太郎は風圧が厚くのしかかる中、距離に余裕をとって大きく飛んだ。大地が振動。姿勢を保とうと踏ん張っているところに石が弾けてきて、傷が増える。切った腹が抉れる。

 歯を食い縛り、今更な痛みを呑み込んだ。距離を詰めて刀を振る。

 しかし勢いが途中で止まった。巨大な足の分厚い皮と肉に埋まり、刃が進まない。

 明らかな失態。焦らず迅速に刀を抜き、足払い、というより横滑りしてくる肉壁から身を投げ出して逃げた。

 急いで態勢を直し、軸足に攻撃を放つ。今度は刀が通ったが浅すぎる。

 舌打ちする暇もなく、足が頭上へと持ち上がる。それから落下。だがその軌道は斜め、信太郎からは離れていた。

 ならばまた川だ。

 狙いを悟った瞬間、樹上を目指して跳ねた。神の力を宿した脚力で三角跳びし、天辺に降り立つ。

 爆音。水飛沫が上がった。前とは比べ物にならない、空へと落ちる大瀑布である。

 視界は潰され、耳も水音で埋められ、登った木すら折られそうな衝撃が全身を打つ。何も分からない状態。だが、確信を持ってその場から飛び降りる。

 直後。水をかき分けて、目の前やや上に掌が現れた。形だけは虫を叩き落とすような平手打ちだ。

 直撃は回避。ただ、巻き起こった風に煽られ、着地を誤る。川原へ激突し、頑丈さを誇った体もバラバラになったかと思うように損傷を訴えてきた。


「うぐうっ!」


 それでも立ち上がり、踏み潰されないよう、足を止めずに駆け回る。

 隙を見て切りつけるも、やはり手応えは薄い。皮一枚だけしか通らない。例えまともに通っていたとしても、急所でないのだから深手にはならない。

 やはり腹や首、頭、急所への攻撃が必要だ。

 着物を掴むなりして登れば頭にも届くだろうが、あまりにも無謀だ。


「……攻め方を考えねばならぬな」


 一旦木々の間に隠れ、案を練る。

 信太郎は過去、幾度となく妖怪退治を行ってきたが、こんな相手はいなかった。

 とはいえ、巨大な化け物を退治する話は世に幾つもある。花形と言っていいだろう。スサノオの八岐大蛇退治に始まり、藤原秀郷の大百足、源頼光の土蜘蛛。

 武士の誉れとなる勝利であり、草薙衆にとっても見習うべき偉業だろう。

 だが、酒に酔わせてからの奇襲などは参考にするには難しい。


 ではどうすればいいのかと言えば、やはり己と八幡神の力でもって戦うしかない。

 山姥にも弱点とされる物はある。よもぎ菖蒲しょうぶだ。だが、どれだけの数があれば、あの巨体に見合うだけの魔除けの効能を得られるのか。野草探しは慣れたものだが集めるだけの猶予は無いだろう。


「……水仙をよく探したな」


 永が好んだ花を思い出す。

 あれはかつての大仕事の翌日。永に「疲れを癒すべきです」と誘われ気ままに連れ立って歩いた時だ。不意に群生地を見つけて、喜んで愛でていた。

 これも演技だったのか、とは疑わない。妖怪だろうと花を美しく思う心はあるのだと信じている。

 言葉も思いも偽りでなく。ただ騙す為の生活でなく、永本人も望んだ幸ある生活だったと願っている。

 それを、自らの手で終わらせる。恨み憎しみは無く使命感だけがある。

 心は揺るぎない。迷いは既にない。


 連想が繋がり、つい最近言われた言葉を思い出す。


 ──乱れた心で山に入るのは危険でごさいましょう? 山は人知の及ばない土地なのですから。


 そうだ。それが真理だ。

 人は山においては矮小な異物で、だからこそ、ただ全力で、全身全霊で立ち向かわなければならない。

 神を頼るのも、心身を削るのも、生き抜くには当然の行為。

 刀を目の前に掲げ、祈る。


「南無八幡大菩薩」


 心を静め、ただ熱心に。人の業を超えるには、まず人としての当然を修めなければならない。故の祈り。ふらつき汗をかき顔色が悪くなる、激しく消耗する程の、祈り。

 その上で、感謝。覚悟。精神統一。

 力が、みなぎる。


 木々の闇から出ると、まず全力で離れるべく走った。巨体は地響きを起こしながら追いかけてくるが、軽やかに引き離す。

 そして十分な位置で刀を構える。ただしそれは槍を投げるように、切っ先を前にして肩に担いだもの。藤原秀郷の弓矢の代わりである。


「この身を捧げまする。どうかこの悲願、遂げさせてくださいませ」


 精神を集中。深く呼吸し、狙いを定め、力を溜める。筋肉が悲鳴をあげても、容赦なく酷使する。

 そして放つ。

 鋼が月の下で煌めく。風切り音が鋭く鳴る。空を引き裂いて飛翔する刹那を越えれば、見事、刀の切っ先は岩肌めいた額に命中した。


「ああああああああああっ!!」


 絶叫。世界も震える大音声。

 予想以上に効いた。顔には苦悶が浮かび、手は額を押さえ、ぐらりと揺れてたたらを踏む。

 そこを目掛けて信太郎は走る。一歩、二歩、三歩で残る軸足の後ろに回り込む。そして全身で巨大なかかとを支え、一息に力を込めた。

 大きな足が川原の上を滑り、信太郎の腹の傷から血が吹き出す。巨体の重心が崩れ、骨がみしりと嫌な音を立てる。軸足の滑りは加速し、肉も内蔵も絶叫をあげる。


「ふっ……う、おおおおおおおおおおぉっ!」


 巨人に化けた山姥の足を払い、転ばした。

 完全に態勢を崩して背中から倒れる。地震の如く山が轟いた。

 それが収まる前から信太郎は素早く駆け抜け、足を腹を肩を踏み越え、額に刺さった刀へ辿り着く。

 足場にしていった肉体は当然だが動いていた。息が通り、血が通っている。踏み締める毎に命を実感した。立ち止まる今も、当然。

 その拍動を、止めるべきであった。


「……永よ」


 呼び掛けに続きはなく、返事もない。顔も見えない位置関係なのは良かったのかどうか。

 起き上がる前に済ませなければ。

 刺さったままの柄を握る。刃の向きを変え、横へと一閃。頭蓋骨ごと裂いて、切り払う。

 豪快な血柱が上り、信太郎を真っ赤に染めたのだった。








「……何をしておる」


 信太郎は木に背中を預けさせた永に睨まれていた。

 流石は妖怪。変化は解けたが、頭が裂けていても即死していないし、喋ってもいる。不思議なものだが、それが妖怪なのだから仕方ない。

 もっともこれは予想通り。巨体を考えればあの傷でも浅いと踏んでいたのだ。あるいは八幡神が願いを聞き届けてくださったか。

 己の傷の手当てを終えた信太郎は、刀も丁寧に手入れをし鞘に納めていた。しばらく使うつもりはない、とそう主張するようにわざわざ永に見せながら。


「見て分かるだろう。帰り支度だ」

「わしを退治するのではなかったか」

「永よ」


 しゃがみ、目線を同じ高さにして呼び掛ける。その目に闘志や気迫はなく、ただの町人めいた戦いとは無縁の微笑みを浮かべていた。


「妖怪の理と人の法は違うのだ」


 かつて荒ぶっていた山姥も、弱々しく戸惑うばかり。彼女にも分かりやすく、ゆっくりと教え諭すように語る。


「依頼による殺人においては実行者よりも首謀者の方が罪は重い。そして、今回の一件、首謀者は」


 隠せない激しい消耗をそれでも隠しながら、信太郎は飄々とうそぶく。

 身勝手な理屈を。


「この、おれだ」


 信太郎は相変わらず微笑んでいて、永の方は皺だらけの顔を驚き一色にしていた。


 これから山を降り、全てを奉行所に話す。そうすれば死罪になる。それも相手が相手故に引き回しや獄門だろうか。

 命懸けで戦い、生き残ったのは、人の法を守る為。化け物に食われるのではなく、己の罪によって死ぬ為だ。

 人殺しの咎を背負わせてしまった、純粋に人里への憧れを持っていた山から来た嫁に、これ以上の罪を重ねさせない為だ。

 ただ自己満足の為の戦い。それでいい。


「おれは死罪だろうが、主はそれより軽いはずだ。もうあの町には入ってはならぬ」


 信太郎は最後まで未熟な愚か者だった。

 人殺しの化け物を見逃すなど、罪人の更なる罪である。永への贖罪にはなっても、人の世では許されない。

 それでも、そうすべきだと、そうしたいと思ったのだ。

 人の法より、これまで世話になった妻への恩返しを優先すべきだと感じたのだ。


 だから永に背を向け、帰路につく。


「最後の願いだ。次は上手くやってくれ。他人の死など望まない、善良な旦那が見つかることを祈る」

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