十 嫁もまた欲ありて

 どうやら心境の変化は信太郎だけの話ではなかったようだ。

 唸り猛る風切り音。

 伝承に謳われる以上の脚力で、駆け、跳ね、激しく攻める。永だった山姥は、化け物らしく荒れ狂っていた。


「……ぐ、ああっ……せいっ!」


 口から勝手に漏れる声は苦闘の証。

 上下左右、四方八方。前から爪を振りかざし、かと思えば背後から首を落としにくる。休みない連撃は防ぐので手一杯。

 常に集中し、感覚を研ぎ澄ませ続けなければ、攻撃を察知し損ねれば、そこで終わる。五感、第六感、神頼み。先を読み、勝利する為にはそれら全てが必要だろう。


 右上の爪に刀を合わせ、胴薙ぎの蹴りは後ろに跳んでかわす。目前から消えた山姥は、左後方に現れた音がしたのでそちらへ見もせずに牽制の空振り。その動きを滑らかな円に変化させ、そのまま前方へと袈裟切り。足元を切り裂こうとしていた山姥を下がらせる。

 下がった山姥は、しかし次の瞬間には信太郎のすぐ右隣に存在していた。弾かれたように前に走るも、間に合わずに浅く腕が裂けていた。

 即時反転し、続く攻撃をさばく。軌道は見切った。構えた刀を盾に受け、逸らし、強烈にぶつけて押し返す。姿勢を崩した。

 そこを狙って頭から振り下ろす。と見せかけておいて、途中で逆手に持ち変え脇の横から背後へ刺突。石を跳ねさせる足音が聞こえた。

 次は刀を戻しながら左へ跳ぶ。更に前、左、前、右と間を空けずに移動し、殺意を空振らせ続ける。

 耳元で風は切られ、肌が粟立ち、髪がはらりはらりと落ちていく。正に間一髪の死地だが、焦りなく的確に進路を定めた。

 刀を使う暇も無い連撃でも生き残る事は出来る。とはいえ逃げの一手では好転する訳もないので、移動によって隙を作る。

 剛力任せに真下を踏みつけた。爆発に似た音が響き、石がつぶてとなって弾ける。自分にもぶつかって赤く腫れたが、山姥にも強かに命中。

 怯むとは期待していない。ただ、わずかにでも攻め手が鈍れば、そこを刈れる。

 振り向き、視線がかち合う。瞳は冷たく、鋭い。横に伸ばした構え。

 互いの刃が交差した。

 信太郎の刀は脇をすっぱりと。山姥の爪は肩口をざっくりと。両者痛み分け。揃って傷を押さえ、血を垂らしながら後退する。


 油断なく構えつつ、一息。気付けば汗がどっと噴き出していた。


「ふう……」


 奇妙な感覚だった。

 切られて血を失い、濡れた着物で体温を失い、それでも調子が良いという自信に満ちている。

 先読みの感覚は冴えに冴え、不思議と外れる気がしなかった。予測と実際の動きが正確に噛み合う。まるで演舞の如く。

 自分がここまでの達人に至っていたとは自惚れていない。八幡神のお陰だろうか。


 だが、このまま膠着では埒が明かない。伝承の旦那とは違い、生き残る事ではなく退治する事が目的なのだから。

 骨を切らせて肉を断つ。

 たった今も狙ったが、それでは不足か。

 相手は強い。相討ち覚悟の捨て身か、博打めいた戦法が必要なのかもしれない。


「……食わねばならぬ。食うには、化けねばならぬ」


 唐突なしわがれ声。思索を断ち切り、信太郎は警戒を最大限に強める。

 俯いていた山姥が、呟きと共に顔を上げた。波打つ長髪に隠れた、爛々と輝く瞳と乱杭歯を剥き出しにしていた口を、閉じる。

 瞬間。夢幻のように、姿が変化した。


「……おい。それは他の話の山姥だろう」


 信太郎はひきつった顔でぼやく。

 そこにいたのは夜空を遮る巨人。伸びた背丈は大木を優に越えていた。最早山姥の範疇にない化け物のようだが、これもまた山姥としての性質の一つではある。

 唾を呑み込む信太郎の耳へと、声が天から降ってくる。


「知らぬな。そんなもの、人が勝手に分けただけであろうよ。我らに区別などないわ」

「ごもっとも。他の山姥に出来る事ならば、どの山姥に出来てもおかしくはないな。ただ、どうせなら、豆にでも変化せぬか?」

「口の中でまたこの姿に化けるが、それでもよいか?」

「やはり知っておるではないか。いや、三枚のお札の話はおれが聞かせたのだったか」

「そうじゃろうが。婆より惚けおってからに」

「山姥は婆でなく、母だとも語ったはずだがな」

「それこそ主よりよおく知っておるわ」

「ふ。しかり」


 相手は巨人であるにもかかわらず、自然と口は滑らかに回った。しかも打てば響く心地よい会話。懐かしく、胸を刺激される会話。

 流れるままに喋りつつ、思う。確信を得る。

 ああ、自分は何処まで愚かなのか、と。


 何故、あんなにも予測と実際の動きが噛み合っていたのかを、悟ってしまった。

 頭上の巨大な顔を見上げながら、優しく寂しげに語りかける。


「主は、永なのだな」


 夫婦として暮らしてきたその時間は、当然夫婦として意志疎通して苦楽を分かち合っていた。

 だから互いが何を考え、どう行動するのか、察する事が出来ていたのだ。

 あの幸せな日常は、殺し合う今も、確かに胸の内に息づいている。それがまた、心苦しい。


 調査の際、永に疑惑をぶつける前に、信太郎は食わず女房の目的について考察していた。

 嫁は旦那に正体を知られてしまったから、結果として食おうとしただけなのだとしたら。妖怪としての理を守らざるを得なかっただけなのだとしたら。

 だとしたら、決して騙して食う事は目的ではなく、ただ、人として暮らしたかっただけなのではないか。理想の嫁という甘い餌で釣ろうとしていたのは、見ず知らずの余所者でも、あるいは化け物だろうと受け入れてくれる旦那だったのではないか。


 里で人として暮らしたい。

 根底にあったのは、純粋な願い、あるいは憧れだったとしたら。

 人と妖怪との橋渡し役となる。そんな使命を愚かにも掲げていた信太郎は尋ねずにはいられない。


「おれは、良い旦那だったか?」

「……さて、な。人の良い悪いなぞ、わしは知らぬわ」

「主は良い嫁であったぞ」


 心から微笑みつつ、正直に言ってやった。化けた山姥だとしても、それは事実だったから。

 返事は沈黙。

 痛い程の静寂が夜の山を埋める。風も鳥獣の声も奇怪な音も耳に入らない。世界も次の言葉を待っていた。


 ややあって、ゆっくりと穏やかな声が、まるで目の前で喋っているように聞こえてきた。


「わしは、それでも主を食らうがな」

「ああ。おれも、主を斬らねばならぬ」


 信太郎は笑みを消して、臨戦態勢の引き締めた顔つきで応じた。麗しき思い出に身を焼かれながら。


 食わず女房の話において。

 もし旦那が、嫁が頭部の口から飯を食っている姿を見ても、それを咎めなかったとしたら、どうなっていただろうか。

 飯を食った事。化け物である事。

 それらを許したとしたら、二人は夫婦として暮らし続けただろうか──。


 そんな、人と妖怪が共に幸せになる夢物語は、それはそれでとても素敵だと思う。


 だが、彼女は──永は、信太郎の願いによって人を殺してしまった。

 もう「許し」は与えられない。与えてはいけない。

 故に、たもとを分かつしかないのだ。


 妻だった化け物、否、永を斬る。そしてその後で己は白洲の裁きを受ける。

 楽せず苦しみの末に難事を果たし、報われずに死ぬ。信太郎は、そんな覚悟を決めねばならないのだ。


「いざ、参る」

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