九 人喰いと化け物殺しの決闘
永は常人離れした不思議な印象のある女性だ。それは見た目の話だけではない。賢く教養があり、かと思えば力仕事も十二分にこなす。
故にかつて一度だけ、信太郎は尋ねた事がある。
「もしや名高い武家の生まれなのか?」
「ふふ。何を仰るやら。わたしはそれ程の人間に見えますか。なれば一層の働き甲斐があるというものてす」
「済まない。もしや気分を害したか? いやそうか、何処の生まれだろうと己を磨く事は可能だな。うむ」
「安心して下さいな。慌てずとも、あなたが気にされるような事は御座いませんよ」
「しかし、言いたくない、話し難い事情があるのではないか?」
「いえ。言いたくないというより、言うべき事が無いのですよ。平凡な町娘でしたから。それに、あなたは称賛してくれますが、わたしが特別なのではなく、あなたが誉め上手なのです」
あくまで素直に、遠慮や気遣いの気配も無く。仏像めいた、神秘的な微笑みを浮かべて永は答えてくれた。
「ただ、わたしは、あなたに相応しくあれと自分を変えただけなのです」
──ならば、今のこの姿もそうなのか。
死と不吉を纏った、恐ろしく荒々しい山姥の姿が。
蘇ってくる懐かしい思い出を切り捨てて、信太郎は命を取り合う夫婦喧嘩へ身をさらす。
「つあっ……!」
直前まで引き付けてからの横っ飛び。顔面を薙ぐ爪をかわしたが、頬が裂けた。
直ぐ様反撃の一太刀を上段から繰り出すも永は、否、永だったモノは軽やかな身のこなしで避ける。そしてまた腕を振りかぶったので、信太郎は大きく距離をとった。
爪でさえ名刀にも匹敵する切れ味と殺傷力。運動能力は獣をも凌ぐ。人ならざる化け物、流石の強敵だった。
木々の合間から差す月明かりが川面に反射して煌めく。夜の静寂に沿うように水の流れは緩やか。
両者は木々に挟まれた川原で睨み合う。
戦いの内に家から移動し、鎮守の森を抜け、街道を外れ、今や山へ入っていた。かの山姥親子が暮らすそれとは別の、浅く小高い山である。
ただでさえ真夜中であるのに、更に暗い山中に入っては分が悪いのが明らか。だが、人にも町にも巻き添えを出したくなかった。それらは是が非でも守らねばならないのだから。
いや、それだけではないだろう。
他人に見られたくなかったのだ。この期に及んでも尚、妻を庇おうとする自分がいると自覚する。未熟にも程がある。あまりに未練がましい。
目の前にいるのは、人食いの化け物だ。
息を整え、改めて意識する。
「南無八幡大菩薩」
人ならざるモノには相応しき力を。信仰を捧げ、剛力を望む。
活力がみなぎって熱い。神気を宿し、奮い立つ。愚か者にまだ力を貸してくれる神はなんと懐が深いのか。
加護を受けた刀を正眼に構える。
「どうした、おれを食うのだろう?」
誘いのせいか、山姥が動いた。
流石に速い。踏み飛ばした砂利が落ちるより早く、信太郎の下へ肉薄する。
迎え撃つ刃。
踏み込みに合わせた一撃は頭蓋を切り裂くはず。だったが、刀の腹を手で打たれた。右に流され、正面が空いてしまう。
そこに迫る殺意。
逃げずに、応じた。多少無理矢理ながら、刀を抑える手を外して切り上げる。
腰に達し、着物を切り、皮に触れ、しかしそこで感触が消えた。山姥は体を横に倒しながら屈んでいる。刀は斜めに空を斬った。
そして低い位置から、掬い上げるように振るわれる爪。上がっている柄頭を引き戻し、叩きつける。そこから滑るように下方への袈裟切りに繋いだ。
が、またも平手で打たれる。斬撃の速度には自信があったが、追い付いた上で正確に。
勢いを殺したところで山姥が前へ。肩から体当たりし、更なる攻め手を潰してきた。着物を掴んできたが、それ以上をされる前に腕を畳んで顎へと柄頭を見舞う。
手が緩みふらついた隙に、背後へ一足飛び。刀の間合いを取り戻す。
多少息があがってきたので呼吸を正し、構え直した。
再びの仕切り直しか、と思ったがそうはならなかった。
山姥は木が作る暗闇に消えた。
恐らく逃走ではない。奇襲するつもりだ。
ならば音が頼り。ざわざわと葉が鳴る。危地から逃げる為か、鳥獣の声が離れていくのが聞こえる。逆に木を斬り倒す音や破裂音といった不審なモノは、興味があるのか近付いてくる。豊かな音を生む自然から、目的の不自然を見つけるべく耳を澄ませる。
周囲を警戒。違和はまだ無い。
緊張感によってじりじりと消耗していく。
唾を飲み、何処から来るかと顔を辺りへ巡らせる。右へ、左へ。耳を動かして聞こえ方が変わらないかを試みる。
その、ついでに動いた視界の端に変化が見えた。地面に現れたのは、人影。
──上。
素早く頭上を見上げた。
高く跳んだ山姥を発見。後の先で突きを繰り出そうと力を溜める。
だが、よく見ると着地するであろう地点は川の中だった。戸惑い呆けそうになるが、目論みに気付いて息を呑む。
直後に、着水。
豪快な水音、そして豪快な水飛沫が夜空へ向かって跳ね上がった。視界一面、月に煌めく水が埋め尽くす。
山姥の気配を探るも、体に痛みが走る。川底にあった石も無数に飛んできていた。だがそれに対する防御は捨てる。
集中すべきは、殺気。
水の中に揺らぐ影を見かけ、打ち払う。しかし手応えが無く、すぐに刀を切り返す。またも空振り。
既に敵は間合いの中だった。しゃがんで刀の下を潜り、振り切った腕へと爪を突き出している。
「ぐ!」
命中。激痛。遅れをとってしまった。
負傷した右手を離し、左手一本で切りつける。かわされてしまったが、利き手を千切られる前に引き剥がせただけでも御の字か。
水で濡れて着物が重い。負傷して万全ではない。
だからこそ、こちらから攻める。主導権を与えてばかりでは勝てる訳もない。
再び両手で柄を握り、肩の高さで構え、疾走。からの刺突。踏み込みの重さは十全に乗っている。空気が切り裂かれ、唸る。
そこに合わせて払おうと伸びてくる、同速の手。達人の技にも思えるが、そうではない。人が虫を払うように、ただ邪魔な物を払っているだけだ。
そこに付け入る。
全力の出し時だと、神より借り受けた剛力を用いて地を強烈に蹴った。爆発したかのように足元と音が弾ける。風が震える。
しかしそれは加速ではなく制動。動作の激しさに反し、つんのめるのも抑えてぴたりと止まった。
払おうとした手は目の前を通過。それを見送ってから、改めて動く。
「せえい!」
白刃一閃。
最小限の行動で突きを放ち、血が川原の石に飛び散った。手応えは、確か。
貫いたのは鎖骨の辺り。心臓狙いからかなり外されたが、ようやく、まともな傷一つ。気分が高揚する。
ただ、追撃は許してくれない。
傷など無いかの如く俊敏に退く山姥。またも木々の闇の中へ紛れる。
追う事は、出来ない。むざむざ山姥の領域へ足を踏み入れる程甘くはない。
いたずらに時間は過ぎていく。隙になるので応急手当すら出来ない右の二の腕からは血液と体力が失われていく。
その血が抜けて冷えた頭でふと思う、疑問。このじっくりとした戦いは、山姥らしくないのではないか、と。
「なあ。お前は、本当におれを食う気があるのか?」
言ってしまって、恥じる。
これはやはり願望から生まれた問いかけだ。わずかな希望にすがった、やり直したいという浅はかな過ちだ。
と、そんな風に心中が邪念で満ちる中。耳に届く、幽かな声。
「…………い」
「む?」
「何を今更。食うともさ。化け物じゃからの」
戦いとなってから初めて喋った。何処から聞こえているのか分からないのに、はっきりと認識出来る。まるで山そのものに話しかけられているような感覚。
それに口調、しわがれ声。やはり永だった頃とは何もかもが違う。
なのに、気安く自然に応じてしまうのは何故なのか。
「そうか。ならば、やはり斬るしかないな」
「それが人よな。人殺しと蔑んでおきながら、化け物と何も変わらぬ」
「……ああ。人は、時に獣にも化け物にも劣る愚か者となる」
「それは主の事かえ?」
「そうだ。おれは愚か者だ。だが、せめて尻拭いぐらいは自分でするつもりだ」
問答が終わり、余計な疑問は去った。心はすっかり落ち着いている。
風が川から涼を運び、濡れた服と、気付かず流れていた汗を冷やす。飛んできた木の実が川に落ち、ぽちゃん、とやけに響いた。
それを合図としたのか。
唐突に暗闇から影が飛び出してきた。真正面から、小細工のない、凶悪な突撃。
信太郎も正々堂々、応じる。
「南無八幡大菩薩」
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