八 望み叶えし欲深旦那

 ──ああ、心持ちだけでこうも違うものか。


 夜風が吹き、月光に照らされた木々が葉を鳴らす中。信太郎は底知れない畏怖を感じていた。

 目の前にあるのは住み慣れた我が家である。八幡宮の鎮守の森に囲まれた、清浄な気のおこぼれを受けられる立地。壁や戸の細かな傷まで親しみがあり、見ただけで心休まる。帰るべき愛する住処だ。

 だが、下手人の正体を確信した今は、ただ闇に浮かぶ黒い影だった。先の見えない不安と恐怖をむしろ増してしまう。入れば最後、二度と引き返せなくなる魔窟に思えた。


 これから、直接対決へと挑む。


 下手人の正体が判明した。だから山姥退治の前に妻と二人で話がしておきたい。と清蔵に申し出たところ許され、こうして帰ってきた。監視の岡っ引きは外に残って見張る。

 その視線を浴びながら、信太郎は我が家へと入った。


「永、今帰った」


 普段となんら変わりのない言葉は、普段となんら変わりのない未来を願っての言か。

 頼りの月光も遮られた暗い土間。提灯が作る光の円に真新しい草履が見えた。ここでもやはり、気分が落ち込む。


 寝ているかもしれないと思ったが、返事はあった。


「お帰りなさいませ、あなた」


 いつも通りの、優しく温かな声音。いつも通りの柔らかい笑み。

 永は寝間着ではあったが、最低限の身だしなみは整えている。几帳面であり、よく気が利く。やはり寸分違わぬ理想の妻だ。


「こんな夜更けにお仕事だなんて御疲れでしょう。何か御用意致しましょうか」

「いや、不要だ」


 行灯の火がわずかに闇を遠ざける茶の間。

 座布団に座り、しばらく無言。夜風だけが理由でない冷えは簡単には温まらない。

 普段なら永の一言に癒されるというのに。心の変化を期待したが、不吉な予感は全く拭いされなかった。

 重い。苦しい。


 それでも、必要な事だ。意を決して口を開く。


「今、おれが関わっている件なのだがな。下手人は山姥なのだ。しかも山に住むのではなく、人に化けて暮らしている」

「では人の中から探し出すのですか。それは大変な事で御座いますね」

「いや見当はついているのだ。ただ、主の考えも聞かせてもらいたい」

「あなたのお力になれるのなら、喜んで」


 反応は良好。打てば響く、心地よい会話。何も変わらない。

 信太郎の内面だけが違う。平静を意識して、永と目を合わせ、語る。


「食わず女房という妖怪がいる。ソレは飯を食わぬ事が大きな特徴だが、本質は違うところにあると気付いた」

「それはなんでしょう?」

「男を騙す為に、望みを叶える妖怪なのだ」


 食わず女房が飯を食わないのは旦那がそう望んだからだ。

 理想の妻は甘い餌。それに化ける事で、容易く獲物は飛び付いてくる。

 理想の妻を演じる限り、正体が露見しない限り、旦那は疑いもしないで妖怪を妻として暮らし続ける。

 理想の妻ではないと疑われては終わってしまう。米が減っているのは、隠れて食っているからではないか。そう思わせてしまった事が伝承での敗因だった。

 故に食わず女房は、理想の妻に化け、望みを叶え続ける必要がある。理想の実現が妖怪としての生態と言ってもいいだろう。


 今回の山姥もそうだ。望みを叶え続けている。後から追加された望みまでをも叶えているのだ。

 思えば遠回りをしていた。

 旦那を守る為に、敵を先んじて害した。その推測は違っていた。食わず女房は自発的には動かず、あくまで旦那をきっかけとして動く。

 真実は実に簡単な話。


「旦那が、三宅殿の死を望んだのだ」


 そして叶えた。それだけの事は容易に出来る。化け物なのだから。なんなら「飯を食わぬ嫁」よりも楽な望みだろう。


 この推論を踏まえての、本題。


「そして、死を望んだのは」


 喉が渇く。

 息が苦しくなる。

 重苦しい泥のような塊が胸を占めている。


 それでも。

 信太郎は真っ青な顔で、それでも目だけは真っ直ぐ逸らさず、告げる。


「この、おれだ」


 罪の告白。

 深い後悔。絶望が心中を支配している。そんな子供じみた心情が情けなく、己を恥じる。

 未熟な半人前などと、そんな評価にも値しない罪人だった。

 昨日の夜、布団の内で思ってしまった。心を律せず過ちを犯してしまった。


 そして。

 この告白は、同時に永が山姥である事の告発でもある。

 今の姿は偽りであり、正体は人殺しの化け物なのだと。草薙衆として退治せねばならぬのだと。夫婦ごっこはもう御仕舞いでいいのだと。


 しかし彼女は一欠片の動揺もなく、相変わらずの優しく心配げな顔で言ってくる。


「どうかそのような顔をなさらないで下さいまし。三宅殿の話は幾度も聞きました。評判のよろしくないお方だったのでしょう? 死を望んだ旦那は、あなたとは限らないのではありませんか?」


 永は何処までも、旦那を思いやる妻として在った。非の打ち所の無い女性だ。

 とても化け物には見えない。己の考えが間違い、考え過ぎだったのではないか。そう思えてくる。


 だが。これもまた、己の望みだとしたら。

 告白の否定。現実の拒絶。それを叶えているのだとしたら。

 未熟な半人前は、今ここで成長しなければならない。


「山奥で逢った山姥に言われた。『不愉快な余所者の気配を漂わせている』と。それは、間違いなく主からの移り香だ」


 突き付ける次の一手。

 山姥と共に暮らせば影響も受ける。それをかの山姥が嗅ぎ取った。

 これに気付いてから永を疑い、推測を深め、確証を得たのだ。


「いえ、それは勘違いでしょう。この家は八幡様のすぐ傍にあるのです。信仰も厚いあなたからその気配を感じ取ったのではないでしょうか」

「ああ、おれも初めはそう思った。だがな、だとしたら『余所者』とは言わぬ。この地の八幡宮は五百年近い歴史がある。余所者とは、新参者を指す言葉だろう」

「妖怪の中には百年も千年も生きるモノがいるといいます。その感覚ならばおかしくないのではないでしょうか。いえ、そもそも人と妖怪。言葉の意味や使い方が違っているのでしょう」


 反論に一応の筋は通っており、無理はない。徹底抗戦の構え。

 頼もしかった知恵が、この立場では恐ろしい。

 ただし、まだ、根拠はある。


「真新しい草履」


 土間で確認した、動かぬ証拠。

 永が履いていた物は長く使い込んでいて、汚れやほつれも多かったはずだった。ならば何故、しかもこの深夜に、真新しい物になっているのか。


「今まで履いていた草履が血で汚れてしまったから、新しくおろしたのだろう?」

「……いえ、それは、流石に長く使い過ぎて穴が空いてしまって」

「それは何処にある」

「使えないので燃やしてしまいました」

「……そうか」


 苦しくなってきても言い逃れを止めない永に、信太郎は首を振った。

 少しの動揺は見えたが、それだけだ。埒が明かないと気付く。人の論理で追い詰めようとしても無駄だった。


 妖怪には、妖怪の理がある。

 恩返しの為に人に化けて嫁入りした獣も、正体を知られたら姿を消すように。弱点となる文言さえ言ってしまえば消えてしまう妖怪がいるように。ただ人を驚かすだけの妖怪は、本当にそれだけの事しか出来ないように。

 人の世の法と違い、妖怪の理は絶対的である。


 食わず女房の場合は、その正体を見せるきっかけは──

 言葉による拒絶。


「離縁しよう。化け物とは暮らせない」

「……! ……そう、ですか。分かりました。では、最後に」

「悪いが、何もくれてやれる物は無い」

「……そう、ですか」


 永は目を伏せる。明らかな狼狽を表して。

 信太郎は油断なく、息を整え、刀の鯉口を切り、膝を立てる。戦闘態勢。


「しかし……わたしは、頂かねばなりません」


 消え入るような声の後、行灯の光がふっと消えた。暗闇。人ならざるモノの領域。

 目を慣らすより先に、信太郎は即座に外を目指した。

 その一歩目で、殺気を感じて振り返り、抜刀。首筋への突きを防ぐ。

 火花が飛んだ。その一瞬の灯りで、永の正体を確認した。

 山姥。醜く、おぞましい、人食いの化け物。大きく裂けた口からは鋭い歯が覗き、ぎょろりとした瞳は獲物を見据えている。


「……もう、永、ではないのだな」


 極わずかな震え。感情を削り切れなかった信太郎の声に、答えは無い。

 代わりに鍔迫り合いの形から、人を超えた脚力で押し込んできた。床板が砕け、壁が震える程に。

 対する信太郎はあえて押され、自ら床を蹴り、月明かりの下まで突き飛ばされた。転がるように受け身をとり、すぐに態勢を直して刀を構える。

 そして、岡っ引きが慌てふためく前で、改めて対峙。


 直前まで夫婦だった者同士の、命の取り合いが始まった。

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