七 食わず女房、その正体

 永は第一印象から素晴らしい女性だった。目を見張るような美人で、丁寧かつ豊かに話をし、仕草一つにも思慮深さが見てとれた。

 故にこそ、夫婦にはなれないと思った。


「有り難い話だが、断りたい」

「何故で御座いましょう?」

「おれは化け物を殺す人間だ。けがれをこの身に溜め込む人間だ。主のような聡い美人にはもっと良い縁談がある」


 心からの助言だった。

 常から、自分が人並みの幸せな生活を送られるとは考えていなかった。自己犠牲こそが、喜びであり使命だと信じていたのだ。


「ならば、その溜まったけがれを払う人間も必要でしょう?」


 呆気に取られる信太郎。


「心配せずとも、あなたのお仕事については既に聞き及んでおります。その上で承諾したのです。ですから、そのように己を卑下するのはお止めください」

「……本当に頼めるのか。後から『こんなに辛いと思わなかった』と嘆いても遅いのだぞ?」

「その心構えが前もってあれば励む事も出来ましょう」

「二言は無いな? 覚悟は決まっておると決めつけるぞ?」

「構いません」


 試すような口振りの裏で、実のところ信太郎は疑念を持っていなかった。

 何故なら既にこの短い会話だけで、淀んで鬱屈した感情は払われていたのだから。






「アンタの妻も余所者じゃなかったか?」


 がつん、と衝撃を受け信太郎は一瞬息が止まった。

 当然の指摘であり、むしろ真っ先に挙げて然るべきなのに、動揺してしまった。

 常人であれば許されるだろうが、彼の立場では耐えねばならない。情けないと己を恥じる。


 妻の永を思う。

 確かに、素性は知れぬ上に過去は詮索していない。美人で賢く働き者で、自分には勿体ない女性だ。毎日の家事に助けられ、仕事で生じた悩みの相談に乗ってくれ、足りないところを補ってくれる。話も合って、居心地が良い。

 正に信太郎の理想通りの女性だ。


 つまり、願いを叶える事で男を騙す女怪の、その条件は整っている。


 だが自分は草薙衆。妖怪の敵。

 あの山姥も言っていたではないか。余所者の不愉快な気配には敏感なのだ。永が山姥ならば、縁談の前に信太郎が天敵だと気付くはずだ。

 だから、山姥である可能性は低いだろう。

 無論、信太郎は弱い未熟者。願望が混ざっている自覚はある。他人の妻を疑う以上の疑心を持たなければならないのに。

 残念だが容疑を完全に晴らす事は出来ない。

 一瞬で山程の言葉が駆け巡り、出した結論がそれだった。


 信太郎の神妙な顔で溜飲を下げたのか、岡っ引きの二人は表情にこそ出さないが筆の進みは早くなった。そうして順調に書き終え、これで全員だと言ってきた。


「有り難う御座います」


 候補は永を含めた六人。

 ここから下手人を絞り込む。その為に、まずは動機から探っていく事にした。


 里に潜む山姥は何故、他人の家に侵入し、殺したのか。普通ならばその理由は無いはずだった。

 であれば、殺す事が目的ではなく、他に目的があった可能性を考える。

 三宅家は地位のある武士。そこにあって、町人の家に無いもの。それは何だ。


「嫁入りした先は貧しく、食う物に困った。食いたくても食えぬ故に、食える家へ忍び込んだ」


 考えを口に出して纏めていく。

 食わず女房は飯を食う妖怪だ。正体を見抜かれる前までは、人を食わずに飯を食って飢えを脱する。ところが飯が家に無い。無いから、余所から盗む。

 人と同じ行動原理。筋が通っているように思えた。


「それなら、真っ先に旦那を食っちまうはずじゃないですかい?」


 岡っ引きからの横槍に、一理あると唸る。

 人食いなのだから、飢えれば人を食うはず。その理屈を根底に据えて考えるならば、飢えは動機にならない。

 熟考すべき質問だ。真剣に検証する。手掛かりとなる指摘かどうか、知識と照らし合わせた。

 その上で、最後に辿り着いたのは、否定。


「……それは、ない。山奥の山姥ならばともかく、食わず女房に連なる山姥ならば」


 優しい老婆に化けて旅人を泊め、その夜の寝入った隙に内に襲いかかるのが、山奥の人食い山姥だ。

 対して食わず女房は正体を見抜かれるまで何日でも暮らす。逆に言えば正体を見抜かれなければ、嫁として暮らし続けたのかもしれない。故に、食わず女房の目的は人食いではないと考える。

 では人食いに代わる目的とは何なのか。

 と、それを考え始めたところで我に返る。今は伝承の考察ではなく、現在の事件について考えるべきだ。


 改めて想像する。

 化けて嫁入りしたはいいが、その家は貧しく、旦那共々食う物に困る生活を送っていた。このままでは飢える。そう思い、盗みを決行した。

 選んだのは立派な武家。忍び込んで台所で米を炊いたはいいが、物音に気付いて起きた直勝がやって来て──


「……いかんな。忘れていた」


 違う、と首を振る。

 最初にこの目で確認した事だ。

 忍び込んだところを見つかったから殺したのではない。直勝は布団にいたところを一方的に襲われていたのだ。

 やはり最初から、直勝が目的で侵入した。そう考えるのが妥当だ。


 では何故、この与力を目的としたのか。

 利益を得る為か。生きていては不都合があるのか。

 不都合。そう、信太郎は山で逢った山姥も「子供を守る為」であれば人を襲うだろう、と結論付けた。

 それだけは合っていたとすれば。


「三宅殿の町人への態度をお聞かせ願いたい」


 岡っ引き達はびくりと飛び上がるように反応し、ひきつった顔を見合わせる。それから何かを恐れるような小声で相談し始めた。

 これは当たりか。

 やがて覚悟を決めたのか、二人は近くに寄ってくると、声を潜めて話し出す。


「……武士の中でも酷い態度でした。目付きが気に入らないとか、商品が気に入らないとか、怒鳴り散らす事はしょっちゅうで」

「武士の中でも問題視されていたようなのですが、上役からの注意は聞かず、位が低い武士では止められなくて……」

「成る程。話は分かった。では、その中でも特に迷惑、被害を受けていたのは?」


 渋々と、紙に書いた名前を指す。

 呉服屋の妻のお咲。

 金貸しの妻のお弓。

 鍛冶屋の妻のお亀。

 その三人だ。

 その三人の誰かなら、旦那を守る為に殺したと言われても納得してしまう。それだけの非道があったとの事だ。


 この論理こそ、筋は通っている。ように思える。少なくとも完全否定は出来ない。

 間違っている可能性がある事を踏まえつつ、調査を先へと進める。


「それぞれの家へ出向き、足跡か、今夜外に出た形跡があるかどうか調べましょう」


 清蔵にも断ってから三人連れだって外へ出る。

 外は暗闇、人でないモノの領域。刺すように肌寒く、静寂が耳に痛い。蒼い月明かりと頼りない提灯の灯りだけが弱い人を守っていた。


「着いたら叩き起こすんですかい?」

「それは、出来ない」


 震えるか細い声に信太郎はきっぱりと返答した。

 騒ぎを起こせば、他の候補にも聞かれてしまう。もし一人目が山姥ならば問題無いが、違った場合は逃げられる恐れがある。

 確定する何かが欲しい。否、見つけてみせる。

 そう意気込んでいたのだが。


「また同じか」


 どの家の周りにも真新しい足跡は無かった。勿論血の跡も、落とし物も、分かりやすい手がかりなど無い。

 闇が浅はかさを呑み込んでいる。

 山姥の身軽さで足跡を残さなかったのか、この絞った三人がそもそも間違っているのか。

 進むか、戻るか。選択を迫られる。

 顔色は悪く、心臓は激しく、息は荒く。進まない事への焦りを否応なく自覚した。


 夜空の黒が薄まっていく。刻限の夜明けまで、猶予は残り少ない。

 清蔵との取り決め。過ぎてしまえば信太郎の推測は間違いとなり、討伐隊が山狩りを決行する。

 

 あの子供思いの山姥を助けたければ、まだ足りない。力を尽くさねば。身を削ってでもやり遂げねば。使命なのだから。

 それこそ、一人で背負うべき崇高なもので──


「いや、そうか。またおれは思い上がっていた」


 頬を強烈に叩き、己の忘れっぽさを反省する。永にもまた咎められる。

 山姥は守られるべき弱者ではないのだ。一人で背負わず、力はあるモノに借りれば良い。

 山姥ならば、余所者の山姥の事も知っているのではないか。縄張り争いのようなものがあるかどうかは分からないが、人より気配には敏感だろう。


 ふと、思い出す。


「そうだ、確かに言っていた」


『これだけ不愉快な余所者の気配を漂わせておる癖に』


 あの山姥は言っていた。八幡神の加護に気付いていた。

 やはり、人でないモノの気配には敏感なのだ。里の山姥についても何かを知っていてもおかしくない。

 今から山を登って尋ねれば何らかの手掛かりが貰えるのではないか。無論時間は厳しいが、八幡神の加護を受け、心身を削って全力で駆け登れば可能性はある。

 ただ、八幡神の気配はかの山姥にとっては不愉快。それで山を染めるような行為は大いに機嫌を損ねてしまう恐れも──。


「……待て」


 気付いて、寒気が走った。

 本当に、この「不愉快な余所者の不気配」とは、八幡神の事なのか。己の勘違いであったのではないか。

 山姥は山の主、山の女神としての性質を持つ。だから八幡神を余所者と表現した。そう思っていた。


 しかし、単純に考えるならば、余所者とは他の山姥。里に潜む山姥の事だったのではないか。


 だとしたら、何故それを信太郎が漂わせているのか。


「……まさか」


 月明かりに浮かぶ真っ青な顔で、信太郎は愕然と呟いた。

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