五 山姥殺人事件

 月夜の静かな暗闇に浮かび上がるのは、赤黒い染み。鉄の匂い。そして、遺体。

 最早人が住まうにちじょうではない。与力の館は凄惨な死の領域ひにちじょうと化していた。


「……はい。あの恐ろしい顔、腕、爪。人間離れした逃げ足……あれは間違いなく山姥でした」


 青ざめた表情、震える身体、ガチガチと鳴る歯、恐怖に染まった様相で語るのは与力の妻だ。

 彼女が目撃したのだ。人でない下手人の姿を。


 山姥が里まで降りてきて、人を殺す。

 にわかに信じ難い。

 福も禍も、山で与えるからこそ、山姥は山姥なのだ。それは絶対的な理であるはずだった。

 信太郎は疑念を持つが、かといってこの怯えように疑念は無い。ただの老婆の見間違えではないだろう。証言は真実だ。


「お話有り難う御座いました。今宵はどうぞ御休みください」

「はい……」


 細い返事を残した彼女は下女に付き添われ、奉行所に用意された館へと向かった。憔悴しきった後ろ姿は刻まれた恐怖の大きさを物語っている。

 と、心配しながら見送っていたその時。信太郎に乱暴な手が伸びる。


「おい」


 肩を掴まれ、なすがまま壁に打ち付けられた。軽くはない衝撃と握力。しかし一切の抵抗はせずに、されるがままに任せる。


 相手は同心の里見清蔵さとみせいぞう。この現場において指揮を任された人物だ。

 顔にあるのは憤怒。奥方の前では抑えていたそれを、一切の容赦なく信太郎へぶつけてくる。


「貴様。どうなっている。山姥は退治したのではなかったか」


 睨み殺すような視線、押しつける力の強さ。言葉以上に信太郎の不手際を責める。

 彼の怒りはもっともだ。至極真っ当な正論である。

 過去の選択は正しいと信じていたが、改めなければならない。故に、信太郎は正直に打ち明ける。己の罪を。


「退治しておりませぬ。嘘の報告を致しました」

「っ……よくもまあ、白々と。貴様には同情していたが、それは間違いだったようだな」


 清蔵は吐き捨てるように言い、手を離した。怒りは尚も煮えたぎっているようだが、冷静に制御しているようだ。その上、肉体も隙なく鍛えられている事も体感した。

 傑物だ。未熟な己と違って。信太郎は感嘆を胸に、指示へと耳を傾ける。


「貴様の沙汰は後だ。今は山姥退治に尽しろ。今度こそな」

「かしこまりました」


 深く、頭を下げる。今すぐ罰を受けてもおかしくないのだ。この処遇を有り難く思う。

 これは己の失態が招いた惨劇。疑念は頭から追い払う。挽回は当然の責務であり、使命だ。罪悪感をしっかりと刻みつつ、償う為に前を向く。


 捜査はまず、清蔵の質問から始まった。


「まずは答えろ。何故見逃していた?」

「人を食わぬ山姥だと判断したからで御座います」

「何故だ?」

「子が居りましたので。情を持って育んでおり、子の方も素直に受け取っているようでした」


 真っ直ぐ、自信に満ちた口調で、信太郎は状況にそぐわない発言をした。

 自覚はある。

 妖怪、化け物、それらは理解の及ばない存在。であれば人のような行動をするはずがない。こんな話は馬鹿馬鹿しいと一蹴されるのが世の常である。


 だが、清蔵は真剣な視線を崩さなかった。しばしの思案顔の後、再び問うてくる。


「ならば、子を守る為であれば、人も殺すか?」


 突かれたのは核心。

 話が早い。信太郎はますますこの男の優秀さに舌を巻く。

 妖怪の人間性。信太郎が持つ信頼。それらを理解した上で、納得する動機を導きだした。

 これは素直に同意するしかない。


「はい。神通力を備え、知り得ぬ事柄を知る山姥の伝承も御座います。三宅殿は彼らへの害意を持つ、と知っていたとしても不思議ではありません」

「そうか。であれば、疑念は消えたな?」


 見透かしたように告げてくる。有無を言わさぬ言には彼の強い責任感が見て取れる。

 山姥が里に降りて人を殺す。

 それに筋の通る理由が示されたのだ。未練がましく迷ってはいけない。


「夜更けに山に入るのは貴様でも辛かろう。今のところはこの場を調べておけ」

「かしこまりました」


 その後清蔵は淡々と指示を出し、岡っ引きに灯りを用意させた。そのお陰でよく見えるが、彼らの顔は一様に青い。この事件は本来の領分ではない。恐ろしさによって調子を落としたとしても致し方ないだろう。


 その分信太郎が働けば良い。

 黙祷し、改めて直勝の遺体を観察する。

 腹を大きく裂く傷口は荒い。刃物でなく、爪で一突きされたようだ。

 抵抗した痕跡は皆無。

 山姥は熟睡している彼を布団越しに一撃。奥方によれば悲鳴が聞こえたらしいので、即死ではなかった。だが致命傷であり、刀は遠い。そのまま反撃も逃避も出来ずに事切れてしまった。そんなところだろうか。


「無理からぬ事か」


 平和な世においては、武士の戦場は机の上。

 殺気を感じて目覚め、逆に討ち取る。それを可能とする段階まで鍛える者など、異常者なのだ。


 大きな傷だったせいか、辺りは血塗れ。それを踏んだ血の足跡は屋外まで続いている。

 徐々に薄くなる赤色は畳にはハッキリと足の形を残していたが、流石に土の上では消える。代わりに土は土で普通の足跡が草履の形を残していた。


「……む?」


 ふと、違和感を覚えた。

 何かが、おかしい。

 答えを手繰り寄せようと、集中する。

 昼間に見た山姥の姿と言動、二種類の足跡。手がかりとなる情報を元に山姥の犯行を想像し、一つ一つの行動まで脳内で再現。

 違和感の正体を探す。


 そして、辿り着いた。


「里見殿! こちらの足跡を御覧ください!」

「なんだ、足跡だと?」

「裸足でなく、草履の跡です」

「……それがどうした」


 眉根を寄せる清蔵へ説明する。不信感は隠さないが、無駄だと切り捨てずに聞いてくれる。本当に有り難い人物だ。

 心から感謝し、重大な発見を伝える。


「山姥は草履を履きませぬ」


 そう、信太郎が山で遭遇した山姥は常に裸足だったのだ。

 妖怪だから当然とも言えるが、ここには跡がある。ではこの時だけ履いたのか、それは有り得ないだろう。つまり、あの山姥は下手人ではない。

 ただ、それはそれとして目撃証言も正確だ。下手人は人でなく山姥である。

 この二つはどうしても食い違う。


 しかし、あるのだ。これらが両立する、もう一つの可能性が。


「山姥は、この町にもう一人います」

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