三 山の母は強し
深い山中で子供と遭遇した場合、その
まず、迷い込んで里へ帰れなくなった普通の子供である場合。これならば普通に助け、送り届けてやればいい。
次に、なんらかの妖怪が化けている場合。これは悪戯程度で済む話もあるが命を奪われる危険性も高いので、接触には十分に注意する必要がある。
そう。正体が未知の存在は、強く狂暴だと判明している獣や化け物よりも恐ろしい。恐れなければならない。
対応を間違えば、力持つ傑物でさえ容易く死に至る。それが異境たる山の掟であるのだから。
「だあれ?」
「ああ、驚かせてしまったかな」
静かな川の前で、信太郎は緊張感を持って相対する。
一方の子供は小首を傾げていた。浮かぶのは警戒ではなく、純粋な興味と疑問。危険に触れない幸せな暮らしをしている証拠だろうか。
その動作や気配は自然。化ける妖怪のような独特の不自然さは無い。
恐らく普通の子供、そう勘は告げる。
だが、だからといって危険が無い訳ではない。一層慎重に対応すべきだと判断した。
信太郎は腰の刀を鞘ごと外し、地面へ落とす。
本来なら絶対しないような雑な扱いだが、今は何よりも優先して、敵意が無い事を主張すべき時であった。
「……この通り、傷つける意思はない」
語りかける相手は、目前の子を通した、その「親」。当然子供には伝わっておらず、相変わらず不思議そうにしているばかり。
信太郎は怖がらせないように笑いかけつつも、決して緊張を解かなかった。
そして間もなく。
予想を裏付けるかのように、背後に濃密な死の気配が立ち上がった。
敵意。害意。殺意。
強大な力を持つモノが、ただその意思を放っている。それは神域である山そのものによって決定される、絶対的で覆らぬ未来だ。
まさか、ここまでの大妖がすぐ近くに居たとは──。
信太郎は唾をごくりと呑み込む。気を抜けば体が震えそうになる。
人を食うモノ、人に富をもたらすモノ、人に退治されるモノ、かつて人であったモノ、姿を見ただけで呪うモノ。与力へ語った通り山姥には様々な伝承があるが、考えられる中でも、最大の力を持つ山の主であった。
敵対は必ず避けねばならない。目的はあくまで調査。そもそも最初からその気は無かったのだ。
だから、対話を試みる。
信頼など簡単には得られない。畏れを持って、挑戦する。
「失礼は詫びまする。それから、あなたの子に手は出さぬと誓いましょう」
祈るように言い終えた後、呼吸が楽になる。
背後の圧力が和らいだ。その反応に、予想的中を確信する。
途中の試練から明らかに変わった、この殺意。
やはり、原因は、子供に向けて走った事。目的を誤解させてしまったのだろう。
この敵意は我が子への庇護そのものだ。そこから、この山姥の性質を推し量る事が出来た。
故に、立ち向かわず、真摯に乞う。
「どうか、話をさせてくれぬか。山に住まう母よ」
果たして、返答は。
不可思議な音は止み、辺りを包むのは軽やかな鳥の声。木漏れ日が温かく明るく照らしている。そんな
ただしすぐ側には、あちこちに穴が開き、隙間風が吹き込む廃墟めいた庵があった。山姥の住処と言われて想像する、まさにそのものの空間である。
そこで信太郎は、山姥に向き合っていた。
対面した主は、やはり山姥そのもの。深い皺を刻み、落ち窪んだ奥で目を輝かせる、枯れ木のように細い老婆。身に付けるのは薄汚れた着物のみで、履き物や飾りの類はまるでなかった。
見た目だけでも普通の老婆ではない。だが見た目以上に人間とは違うと、肌に突き刺さる悪寒が告げている。
「此度は対話を叶えて頂き、有り難う御座います。近くに住んでおりながらこれまで挨拶の無かった非礼、どうかお許しを」
「……そこまで大袈裟にするでない。
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
そうは言いつつも、姿勢は真っ直ぐ、真剣な佇まいは崩さない。彼の自然体であった。
山姥はわずらわしそうに鼻を鳴らす。
「何の用だい。儂は静かに暮らしたいんだがねえ」
「成る程。では、付近の者には奥へ入らぬよう厳命しましょう。境界を明確に定め、領域を分ければ、今後騒ぎにはならぬでしょう」
「……へえ。本気で退治する気は無いんだね」
驚いた様子の山姥。人への不信を剥き出しにした、人ならざるモノの考えが見て取れる。
「それとも諦めたのかい? これだけ不愉快な余所者の気配を漂わせておる癖に」
「それは失礼をば。己で抑える事は出来ませんで」
「……は。情けない話だねえ」
馬鹿にしたような目付き。嘲笑が混ざる声音。
信太郎は自分自身の話ではないと察した。
では指摘された不愉快な余所者の気配とは、彼が奉じ、力を借り受ける八幡神だろうか。
この山姥は力の大きさからすると、山と生命を司る女神、或いはその零落したモノに近いのかもしれない。自らの土地に他の神が勝手に上がり込んでくれば気に食わぬのも当然だ。
口では調子よく言っておいてそれでは、確かに情けない。嘲りも当然。深く反省する。
挽回せねばなるまいと話を変える。
「甘味を持って参りましたが、あの子にどうでしょうか」
差し出したのは町で買った団子。物で釣るというのは気が引けるが、友好の意思を目に見える形で示すのも一つの手である。
しかしそれは裏目だったか。
すうっ、と。目付きが刃の如く鋭くなり、気配が影を纏って重くなる。疑念と警戒の表れ。
「童が居ると、知ってたのかい。それとも、探してたのかい?」
「いえ、居るかもしれぬと予想しただけに御座います」
視線の責め苦に晒され、冷や汗をかく信太郎。
彼女が何より忌避しているのは、子を失う事。
そうではなく、純粋な手土産であると告げる。
やがて信じてくれたのか、圧を緩めてくれた。
「ふん。貰っておくよ。山じゃ手に入らないからね」
子と獣が遊ぶ外へ目を向け、愛おしそうに笑う。
その姿には、人との違いは見えない。老婆と孫。単に何処にでもいそうな家族である。
親子の事情は知らない。
山姥には自ら子を産む話も、捨て子や迷い子を育てる話もある。
彼女は子を慈しむ母。そうであるなら、それ以上の詮索は不必要である。
退治せよ。
それが奉行所より下された命だが、それこそ立ち向かうべき無知だ。
改めて己の使命を定める。
「あなた方の平穏を守れるよう、尽力します」
「はん。期待はしないよ」
「厳しい言葉は励みとします。必ずや成し遂げましょう」
「達者な口だね。とっとと他も動かしたらどうだい」
「真にその通りで。では、これにて失礼致します」
ぶっきらぼうな見送りを背に退去。
庵を出たところで遊んでいた子と目が合い、笑いかける。ついでに、こちらにも重大な意味のある質問をしてみた。
「母君は好きか?」
「うん!」
屈託のない笑顔と、迷いのない返事。たった一言で、子育てに間違いはないとよく分かる。
安心したところで、手を振って別れの挨拶。最後まで心地がよい。
守る、とは傲慢だ。それでも、守りたい。
強い思いを胸に、信太郎は山を降りていくのだった。
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