二 山の歓迎
山、とは人の住まう土地ではない。木々や鳥獣、妖怪、そして神の住まう領域である。
故に、山に入る人間は、常に余所者である事を意識しなければならない。畏れ敬わなければならない。そうでなければ、どれ程の傑物であろうと命を散らすだけなのだから。
無論、草薙衆であろうと。
朝に城下町を出発し、日が暮れる前に着いた麓の村で一泊。夜明け前に目覚めると、これまでの移動を苦にもせず、信太郎は己の足で危険な領域へと踏み入った。
服装は着物に股引、手甲に脚絆。丈夫で動きやすい物が揃う。そして刀。妖怪退治の為に所持を許された、神社での祈祷を済ませた一振りを携えている。
大木が鬱蒼と茂る山中は、昼日中にもかかわらず暗い。街道であれば整備された山越えの道もあるが、人ならざるモノの領域には道など無い。あるとしても獣道だ。ただそこにあるだけの環境が、人を拒む。
そんな不安定な足元だが、山での修行は慣れたもの。歩調に淀みを見せず、軽々と進んでいく。
奥へ。奥へ。深い暗闇の中へと。
与力によれば、山姥を見たと証言したのは地元の猟師であった。
普段のように山に入ったはいいが、獲物を求めている内に普段よりも奥にまで立ち入り、そこで見たのだという。
薄汚れた着物を着て、ギョロリと不気味に眼を輝かせて、大きく口の裂けた、明らかに人でない老婆を。
そこで彼は恐れ慌てて逃げ帰ると、以降家で震えていたらしい。まるで人が変わったかのように。村に泊まった際に話を聞こうとしたが、未だにまともに話せない状態だった。
その噂が広まった結果、付近で山仕事をする者達も大いに恐れ、山に入る事を控えるようになっていた。村全体の空気が重い。奉行所に話を持ち込んでからも尚悪化しているという。
人間が変わろうと、山は一見何も変わっていない。相変わらず、ただそこにある。
だが彼らの慎重な選択は杞憂でなく正しいと言えた。
確かに今この山は猟師や
「今度は砂か」
山中の道なき道を往く信太郎は、頭上から降ってきた砂を軽く手で払った。
しかし、頭上には獣や鳥がいたわけではない。砂が突然出現して落ちてきたのだ。
砂かけ婆。砂撒き狸。砂かけ坊主。思い当たる名は多い。
妖怪の仕業だ。
普段からこのような事例が多いとは地元の人間から聞いていない。過去の経験からしても異常。信太郎の浸入を察知した山の主が警戒している、とも考えられた。
周囲からの足音がしたかと思えば、木を切り倒すような音が響く。
狐、
姿を見せず、音や行動だけで存在を主張する妖怪達。現象そのもの。それらは確認される妖怪の中でも数多い。
慣れぬ人なら恐れるだろうが、信太郎は悠々と歩める。草薙衆が集めた怪異譚を知る事で、必要な恐れだけを掴めているからだ。
しかし。
「まあ、このままではいかぬよな」
背後から低い唸り声が聞こえた。
警戒を強めて振り向けば、今度は声だけではなく、しっかりと姿があった。
しなやかな体躯。鋭い爪牙。山に住まう、恐れるべき肉食獣。
狼である。
姿無き妖怪よりも、実感が伴う脅威。恐怖の対象が、付かず離れず付いてきている。
否、背後だけではない。
前方にも影が現れた。一頭、また一頭。すぐに数を増して群れとなり、山の守護者として立ちはだかった。
只人ならば絶体絶命だと身を縮めるところ。だが信太郎はやれやれと首を振る。
本来なら帰り道に付いてくる送り狼だろうに、と。
此方も立ち止まり、泰然と語りかける。
「山の神の眷属か? ならば手荒な真似をする訳にはいかぬ。通してくれぬものか」
返答は当然、拒絶。
緊迫した空気が音を立てて引き裂かれた。
群狼は牙を剥き、飛びかかってくる。
速く、鋭い。敵対者への歓迎は殺気を伴っていた。
「残念。嫌われたものだな」
信太郎は冷静に対処。まずは右へ大きく跳び、先頭の突撃を空振らせる。そして狙うは、空いた包囲の隙間。一気に加速し、群れに背を向けて駆けていった。
逃げの一手。狼を無視して、登る。
山の神の眷属であるならば、傷つけるのは無礼に当たる。そもそも無益な殺生は厳禁。
だから、奥にあるであろう山姥の庵を目指して登る。
足場の悪い山道だろうと、やはり平地と同じように軽々と走る。
後ろからは狼が猛烈に追ってくる。
山地、獣。圧倒的に不利な鬼事。されど決して差は縮まらない。山の獣を置き去りにする脚力を信太郎は持っていた。
人の限界を超える、並外れた修行の成果だった。
その人外の登山行を止めたのは、獣の唸り。狼よりも深みのある、身の毛もよだつ重低音。
「これは、また」
声の主は熊だった。
山の獣の中でも特に危険な災害。大きく、逞しく、存在感を放つ。殺気でもって空間を支配している。
それも大物だ。過去見た熊よりも二回りは大きい。鬼を思わせるような、主と呼ぶべき巨魁。
静かに立ち止まり、信太郎は身構えた。
「試練ならば、ここは力を示すべき時か」
このまま歓迎を無視し続けてようと、認められそうもない。
ならば逃げない。されど武器は構えない。
凛とした佇まいで目を閉じる。静かに集中力と戦意を高め、身に纏う圧が強まる。
「南無八幡大菩薩」
彼が奉じる八幡神は軍神である。かつて名だたる武将豪傑達も祈願した、戦勝の神。
その力を、借り受ける。
後は熊が行動を起こすよりも、早く。
爆発的な踏み込みから、重心を低くして突進。一息にぶちかまし、鼻面を突き上げる。
悲鳴のような鳴き声。強ばる筋肉。衝撃。言葉は通じずとも、相手の苦痛と動揺が伝わる。
手は緩めない。浮いた胴体に腕を回し、足腰に力を込め、強引に持ち上げた。巨体が浮く。地から離れる。剛力の離れ業。
「八幡神よ、そしてこの山の主よ。御照覧あれ!」
それは御伽草子の再来か。宙を舞うは、黒き巨魁。
熊を相撲で投げ飛ばした。軍配は人へ。
ズシンと揺れる。山が揺れる。この山一帯へ信太郎の存在を知らしめた。これで主は認めてくれるだろうか。
礼を欠かさず、余計な傷を与えないよう注意して身を起こす。ゆるやかに息を整えた。
警戒は維持し、慎重に辺りを探る。
「さて、次はどんな手を……む」
神仏の力により敏感に研ぎ澄まされた感覚が、興味深い音を捉えた。
それは川のせせらぎ。そして、そこに混ざる些細な異音、人の気配だ。
気付いた瞬間、方向を変えて駆けた。
気取られぬよう静かに、足を踏み外さないよう確実に。難しい条件に苦心しつつ歩を進めれば、確かに水音と共に人の気配は大きくなった。
確信を得て気を引き締める。様々な可能性を考慮し、想定し、深い集中を維持。
やがて耳だけでなく、目でも川を確認出来たので、徐々に速度を緩めていく。
そして、そこにいた気配の主の姿を見て、完全に足を止めた。決して集中は解かぬままで。
「……童?」
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