人でなし夫婦道中記
右中桂示
第一章 山姥と恩返し
一 夫婦は只人ならぬ
世は泰平である。
幕府が全国を統治して、長い年月が過ぎた。罪人の悪行はあれど、戦と呼ばれるような大きな争いは久しく無い。戦国の血煙から解放され、人は浮世を謳歌出来るようになっていた。
しかし。
それはあくまで、人同士の争いが少なくなった、というだけの話であった。
春風が吹く穏やかな昼日中。賑わう町から郊外へ向かう道を、鍛えられた肉体の青年が進んでいく。
だがその顔には、この日和の雰囲気に似つかわしくない暗い影があった。深い
一歩の挙動にも厳しさを滲ませる青年。名前は信太郎といった。
彼が向かうのは、この地域で信仰を集める八幡宮だ。
だが目的は参拝ではない。鳥居の前で道を外れ敷地の外側に沿って進むと、木々に埋もれるように建つ板葺きの建物があった。
それが彼の住居である。戸を丁寧に開けて入り、奥に声をかける。
「
「はい。お帰りなさいませ」
すぐに返ってきたのは、優しげな声。
その主は切れ長の眼に薄い唇の、凛とした佇まいの女性だ。地味な色の野暮ったい着物も、彼女の質実な気質を感じさせ似合っていた。
ただ、信太郎を迎えた今はその整った顔が曇ってしまっている。
「あなた、どうされたので? 良くない顔を顔をなさっていますよ」
そこに自らの失態を見て、信太郎は急いで取り繕う。
「ああ、いやなんでもない。それより仕事に行かねばならん」
「その前にお茶屋へ参りませんか。小腹の空く時間でしょう」
不意打ちに顔を上げれば、彼女は曇りを晴れやかに隠して微笑んでいた。
戸惑いつつも、信太郎はしっかりと首を横に振る。
「いや。悪いがすぐ山に入らねばならん」
「まあ。それがお仕事なのですね。やはり、重要な命が下されたので?」
「ああ。重要で、急がねばならぬ仕事だ」
「そのお顔は重要な仕事を遂行するに相応しいとは思えません。しゃっきりして頂かないと」
「確かに好調ではない。だがそれを言い訳には出来ぬのだ」
「ですから、尚更。乱れた心で山に入るのは危険でごさいましょう? 山は人知の及ばない土地なのですから」
「…………ああ、
話し合いは流れる川のように。
決して厳しい訳ではない永の言葉に諭され押され、信太郎は観念、いや反省をする。
乱れた焦りがあった。過ちを認める事で、抱えていた影は少し薄まっていた。
永は妻である。
仕事で怪我をした際に助けられた事で知り合い、そして結婚。出会ってからまだ一年にも満たない。
それでも、こうして毎日支えられ、彼女の好ましい人柄と、様々な事柄を察する賢さはよく分かっていた。
緊張を解いた上で目を閉じて座し、一息。鬱屈していた心の内の切り替えを意識する。
「済まぬな。おれもまだまだ未熟だ」
「ええ、全くです。もっとしっかりして下さらないと困ってしまいます」
「不甲斐ない男に呆れたか?」
「いいえ。あなたのお役に立ててなによりでございます」
温かい言葉と表情に、ささくれだった心が和らぐ。
確かに信太郎を案じてくれる上に、気遣いが上手い。自分には勿体ない女性だと思う。改めて感謝する。
「邪念は取り除いておきたい。話を聞いてくれるか」
「ええ、なんなりと」
その上で信太郎は、今までの不満の原因へと冷静に向き合った。
原因は、彼の仕事。それを引き受ける際の一幕にあった。
「山姥でございますか」
「うむ。発見の報告があった。即刻退治に向かって貰いたい」
信太郎が眉根を寄せて聞き返せば、中年の男が居丈高に答える。互いに不満はあれど、押し隠す信太郎に対し、中年は露骨な態度である。空気は淀む一方だった。
そこは地方の小さな藩の城下町。朝、開いたばかりの奉行所。
中年の男は武士、与力の
信太郎は武士ではない。同心でも岡っ引きでもない。だが、奉行所に寄せられた山姥の一件の為に呼び出されたのだ。
草薙衆。
彼は神仏の力を借りて妖怪退治を行う専門家であった。
各地の寺社が垣根を越えて協力しながら活動しており、この城下町では八幡宮が中心となっている。信太郎はそこで幼子の頃より鍛えられたのだ。親を亡くした身で、他に選択肢が無かったが故の道である。しかし今ではこの仕事に誇りを抱いており、巡り合わせに感謝している。
草薙衆が必要な理由とは何か。
武士は本来人と切り合う職業であり、平和な世では刀剣よりも筆や算盤が得物。更に妖怪となれば、武士の出る幕ではない。絵物語のようにはいかないのである。
手続きをする上で、奉行所は草薙衆との橋渡し役となっている。
だが、武士は寺社に頼まなければならないこの構図を快く思わない。両者の間にある溝が、与力の態度を悪いものへとしていたのだ。無論、全ての武士がこの態度という訳ではないのだが。
では信太郎の方の不満は何が理由かと言えば、それは言い渡された内容にあった。
「お言葉ですが、退治は引き受けられない場合がございます」
ぴくり、と直勝の眉間に皺が寄る。機嫌が悪化する。空気が固くなる。
身分の差は絶対的。
それでも信太郎は己の威信に懸けて反論した。
「確かに山姥は人を食う妖怪でございますが、決してそれだけの妖怪ではありません。人に富や福をもたらす場合もございます。発見者が山姥を目にして尚生きて帰ったのなら、問答無用の人食いではないという証でしょう。即刻退治すべき、とは思えませんが」
きっぱり、はっきり、理路整然と述べる。硬い語り口はそのまま彼の意思。
草薙衆は妖怪を退治する集団だが、全ての妖怪を退治の対象とはしていない。
無害なモノ、人を助けるモノ、信仰を集めるモノ、様々な妖怪を知っているからだ。その為に古今東西の妖怪譚を集め、調べ、学んでいる。人と人ならざる存在の調和こそを使命としていた。
しかし、その使命感を直勝は呆気なく切り捨てた。
「化け物は化け物であろう。退治すべきに決まっておる」
「いえ。単なる妖怪で収まらないような、それこそ山の主と言える存在であった場合、退治によって災いが起こる恐れさえ……」
「くどい。意見は求めておらん。これは奉行所、ひいては殿の命であるぞ」
「…………かしこまりました。謹んで拝命致します」
聞く耳を持たない。真剣に語ったが、興味すら持っていない。ただ、早く仕事を済ませたいだけ。
実体を知らぬ者には、化け物は化け物でしかないのだ。
仕方ない。これが現実。
身分をわきまえ、深々と頭を下げる。
そうして信太郎は内に影を抱えて奉行所を後にしたのだった。
そして、現在。
信太郎は気持ちを整理する為にも、永へ顛末を話した。良い聞き手である妻のおかげで精神は整えられた。頭はすっきりと冴えている。
「ともあれ奉行の命が下された。だが、おれは」
「私は、あなたが正しいと信じていますよ。妖怪は退治すべき化け物とは限らない。でしょう?」
最後まで言い切る前に肯定され、目を見張った。
向き合う顔にあるのは信頼と応援の眼差し。多弁な瞳は適当に話を合わせた訳でないと語っている。求めていたものを完璧に埋めてくれた。
妖怪は退治すべきとは限らない。
知識として蓄え、実際に経験した真実である。与力には相手にされなかったが、信じてくれる相手というのは、こんなにも気持ちを震わせてくれる。
信太郎の口元は自然と笑みを形作る。
「ああ、有り難う」
「いいえ。わたしはただ、話を聞いただけにございますよ」
やはり、自分には勿体ない程に素晴らしい。そんな永には必ず報いなければならない。
気力は充実。信太郎は使命を果たすべく出立した。
次の更新予定
2024年11月30日 17:00
人でなし夫婦道中記 右中桂示 @miginaka
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