第6話 晩春滴る 6

 目抜き通りを歩いて五分。二階建てのテナントビルの二階。外階段を上った先にあるアルミ扉が、シルバー&ブラック探偵事務所の入口だ。

 軋む蝶番に構わず扉を開けると、部屋の奥には真っ黒な制服姿の探偵が一人、偉そうに足を組んでふんぞり返っている。

「殿様かお前は」

「どちらかと言えばお姫様のほうが嬉しいけど」

 これが我が探偵事務所の探偵、ワンボこと箱嶌一華だ。

 肩まで伸びた黒髪を手櫛で整えながら、

「遅かったね」

「警察に話聞かれてたんだよ。相変わらず融通の利かない連中だ」

「誰がいたの」

「沢木刑事」

「ご愁傷さま」

 一応労ってはくれるらしい。

 シルバー&ブラック探偵事務所の内装は実に簡素なものだった。

 置かれているものと言えば、来客用のソファに、ローテーブルを挟んでパーソナルソファが二脚、奥にオフィス用のアルミデスクが二台。飾り付けなどはなく極めてシンプルな事務所であるが、望んでそうしているわけではなく、単に予算が回る余地がなかっただけだ。

 入って右手のところにあるパーティションは台所を隠すもので、料理はしないが、カップ麺を作るかレンジで弁当を温めるか、来客用の飲み物を用意するくらいはする。言うまでもなく、お財布事情がそれ以上の利便性を許さない。

 俺は奥にあるアルミデスクの一つ、ワンボのデスクの上に紙箱を置いた。

「なにこれ」

「土産だよ、学食のケーキ。手作りで美味いらしいぞ、間野からの受け売りだが」

「犯罪者からの情報?」

「誰からの情報でもいいだろ、間違ってさえいなければ。お前が一番よく分かってる」

「間違いないの?」

「正しいかどうかを確かめるのも俺達の仕事、ってね。あ、チョコケーキは俺のだから」

「苦いのは食べない」

「おこちゃまめ」

 ワンボはスカートを跳ねさせながら、意気揚々と台所へ向かい紙皿とフォークを持ってくる。ケーキ屋とドーナツ屋でしか見ない箱を開けてショートケーキを取り出し、ぐるりと囲ったビニールをフォークの先で器用に巻き取ると、高揚を抑えられないのか笑みをこぼす。

「水無川真里の安否、どうやって確かめたんだ?」

 そう訊ねるとワンボはあからさまに不機嫌そうな顔をした。

「間野が怪しいって送ってきたのはデミオでしょ」

「借りているアパートが怪しい、とまでは言ってないだろ」

「状況報告の電話、慌てて切ったじゃない。あのとき間野が接触してきたんでしょう。間野が大学にいるってことは、水無川真里はそう遠くにはいない。アパートの可能性が一番高いと思っただけ」

「さすが」

 ワンボはケーキを口に運ぶと、おそらくは表情に出すまいとしているのだろうが、明らかに口角が幸せを隠せていない。

 俺は台所の冷蔵庫から200ミリリットル紙パックを取り出し、ストローを差して啜る。ぶどう味の野菜ジュースは、もはや野菜の風味を感じない。

「今回は真っ先に間野を怪しんだお前の勘が正しかったってわけだ」

「唯一の既婚者、自分の会社が経営難、なのに部屋を借りる余裕がある、水無川真里は金を必要としていた。まあ、普通に怪しいでしょ」

「間野の素性を突き止められるお前だからこそ分かることでもあるけどな。全く……その情報、どこから仕入れているんだか」

「内緒」

「分かってるよ。詮索はしない」

 情報源は安売りしない。それがワンボだ。

 シルバー&ブラック探偵事務所は俺とワンボの二人しかいない。共有しておきたいことも山ほどあるが、互いのテリトリーには踏み込まないのも、現時点ではうまくやっていくコツなのかもしれない。

「水無川真里の安否はどうやって確認したんだ。警察に通報したのか?」

「刑事に直接」

「直接? 誰に」

「沢木刑事」

「あいつがいたのお前のせいかよ」

 ネチネチした性格の刑事を召喚しやがって。

「水無川真里の様子はどうだったの、デミオは見たんでしょう?」

 ケーキの甘い匂いが充満した事務所内でワンボはいちごを頬張りながら訊く。

「いや。話を聞いただけだ。流石に会わせてはくれなかった。沢木だったし。手首は縛られていたらしいが、身動きが取れないってほどじゃなかったらしい。少し頬が痩けていたそうだが、健康状態に大きな問題はなさそうだ」

「へえ」

 いつの間にか残り一口になっているショートケーキを名残惜しそうにフォークで突いて、ワンボは残りを食べることを躊躇うように息を吐く。

 距離を開けて隣同士に並ぶデスクに、窓から西日が差し込んだ。

 少し目を細めると、途端に視界に映るものが限られてくる。

「それにしてもやばい男に掴まっちまって、水無川真里も不幸だったな」

「……ホントに不幸だったのかは分からないけど」

「あ?」

 ケーキを平らげたワンボは、満足そうに足を組み直して言う。

「ずっと優しさだった可能性はあるよ、水無川真里が無理をしてでもアルバイトを続けた理由」

「なんでそう思う」

「冷たい飲み物は汗を掻く。ぬるくなっていくのが目に見えて分かる。でも、人の心は目には映らない、でしょ? 印象だけで、間野に強要されたなんて決めつけられない。もちろん、それでも間野が水無川真里を部屋に閉じ込めた事実は変わらないけど」

「間野が怪しいって言ったのはお前だろ」

「強要されてるかもって言ったのはデミオ」

「そうだったか」

「あなたは痛みに敏感だけど、心の機微には鈍感すぎる」

「……痛いとこを突くな、本当に」

「水無川真里は間野春樹と不倫していた。付き合っていたの。あんな男でも、妻帯者だって分かっていても、彼女は恋をして、彼のために少なからず尽くした。だからバイトを辞める決断も間野に伝えずにはいられなかったんだと思う。好きな人が困っていたならなんでもしたくなるらしいから、女って生き物は」

 理解できん、わけでもないが。

「よく分からん生き物だな」

 ワンボは口元を拭いながら、

「ここにもそのよく分からない生き物がいるんですけど」

 俺はつい失笑する。

「少なくともお前が男に振り回されてる姿は想像もつかんな」

 ズズズ、と音を立てて、俺は野菜ジュースを飲み干した。デスクの脇にある小さなゴミ箱に容器を捨てる。少しだけ残っているような音がしたが、容器の角に残ったそれを飲もうとは思わない。

「好き勝手振り回す方だろ、お前は」

「……そうでも、ないかもよ」

「ん?」

 ワンボが何か言ったような気がしたが。

「なんでもない」

 ツンと言い放って立ち上がり、ワンボは皿を台所へと運ぶ。

 楽しそうにしてみたり不機嫌になったりと忙しい奴だ。

 人の心が見えたらもっと楽になるだろうと、仕事柄思う。そんなことができたら、こんな仕事をしようとも思わなかっただろうとも。

 分からないからこそ分かろうとする。分かろうともしなくなったとききっと、人はあるべき姿を失って、良からぬ事件の引き金を引くのだろう。

 もし、水無川真里のそれが優しさだったとするなら――、

「間野は彼女のことを、分かっていたと言えるのだろうか」

 答えの出ない謎に首を突っ込んで、分かるはずのない答えを求め、導き出した気になって次へと進む。その曖昧なものを真実だと言い張るしか、俺達には出来やしないのに。

 シルバー&ブラック探偵事務所は夕映えの街の中、今日も静かに夜へと向かう。

 踏み入った世界の謎に、光を当てられないままで。

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銀色デミオと黒色ワンボックス 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam

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