2、漆黒の姫と聖杯
幽閉される前にブランに口答えしてきたスウルス国の王女ノワール。
数か月が経ち、かつて威厳があった彼女の面影は、もうそこになかった。
『本当に彼女の心が死んだのかもしれない』
『そうさせたのは一体、誰だ?』
静かに責め立てる、姿なき亡霊の声がする。
「違うんだ…私は…!」
ブランは思わず片手で顔を覆った。
ノワールは自分が人質に取られたことで、まんまと国の宝である【聖杯】を他国に奪われた。
ノワールは自分自身をとても恨んだことだろう。
兄が来たと期待して隠し部屋から出てきたノワールは、敵兵のブランの姿を見てどんなに絶望したことだろうか。
「…………」
ブランは決意して、椅子に座るノワールにゆっくりと近づいた。
そして彼女の前で片膝を折る。
「…何を、しているのですか」
ブランの行動に、ノワールは疲れ切った顔のまま眉を
「私は貴女に償わなくてはならない……」
ブランは片膝をついたまま、真っ直ぐ彼女を見上げて告げた。
「何でも言うことを聞く…貴女が望むなら私の…この命を喜んで差し出す」
その言葉にノワールは目を見開いた。
「何を…言っているの…?」
「私は本気だ…この剣で私を殺してくれてもいい」
ブランは己の剣をノワールの前に差し出す。
「そんなことをして…なんになるの?」
途端に、ノワールは怒りで震えた声を振り絞った。
「貴方が“死んだ”ところで!死んだ父も、兄も、臣下の者たちも、民の皆も!みんな生き返るわけではないわ!!」
ノワールは椅子から立ち上がり、泣きながら声を荒げた。
「何でもするなら、私の家族たちを“生き返らせてよ”!」
ノワールは悲痛な面持ちで叫んだ。
「ほらね…できないでしょ?」
何も言えないブランの姿を見て、ノワールは力なく椅子に座り込んだ。
「もう…いい。私の前から“消えて”」
ノワールの
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ノワールを…処刑…する…?」
グリーディオラ皇帝の言葉に、ブランは動揺しながら聞き返した。
「ああ」
「しかし、彼女が死ねば【聖杯】の力を行使することができなくなります!」
ブランは叫んだ。
「それがな。あの女がいなくても済む方法を見つけたのだ」
グリーディオラ皇帝は自慢気に言った。
「なぁ、そうであろう?」
「左様でございます、陛下」
グリーディオラ皇帝の隣に立っていた男が、
「貴殿は…?」
ブランが男を睨みつける。
「アッシュと申します。以前はスウルス大神殿で神官長を務めておりました」
(ノワール以外にまだ生き残りがいたのか…)
「こやつはスウルス国の古い禁書から、王族の血筋がいなくとも【聖杯】の力を使える
グリーディオラ皇帝は勝ち誇ったように高笑いした。
グリーディオラ皇帝は、【聖杯】の力を引き出せるノワールを恐れていた。
『いつか自国民が、敗戦国が、ノワールのことを聖女の様に祭り上げて、自分の地位を失墜させるのではないか』
自国民の税の取り立ては厳しく、殺戮を繰り返しては敗北した近隣諸国を属国して従わせる。
こうしてグリーディオラ帝国は国土を肥大化し続けている。
『報復』
グリーディオラ皇帝はそれをなによりも恐れていた。
『ノワール』がその引き金と成り得ると、彼は危険視していたのだ。
“ 己の主 ”を静かに見つめながら、爪が食い込み、血が
「なぜ、陛下に仕えている?お前にとって陛下は…」
グリーディオラ皇帝がその場からいなくなり、すかさずブランはアッシュを問いただす。
するとアッシュは無言で、自身の口元に人差し指をそっと添える。
「お静かに。それ以上仰ると、不敬罪に問われますよ」
釘を刺されて、ブランは押し黙った。
「まぁ、“自分の命の保証と引き換えに情報を提供したまで”です」
アッシュはそう言って笑ったが、その目は全く笑ってはいなかった。
「時にノワール…様はいかがお過ごしなのですか?」
「…………」
命と引き換えに国を裏切っても、自国の王女のことは気になるらしい。
アッシュの言葉に、ブランは静かに首を横に振った。
「彼女に…消えろと。……拒絶されてから会いには行っていない。だから、彼女が今どうしているか…分からない」
ブランはアッシュに事の経緯を話した。
「…そうですか」
聞き終えたアッシュは思わず目を伏せた。
「それで…貴方はこのままノワール様の“
「……それが、彼女の望みだ」
ブランの返答に、アッシュは思案顔で自身の顎にそっと手を添えた。
「なら、貴方にはその“誓い”を破っていただくしかないですね」
「……どういう意味だ?」
アッシュの含み笑いに、ブランは眉をひそめた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アッシュ…他の者は?他に誰もおらぬのか?」
「ええ、陛下と私だけですよ」
誰もいない部屋を見渡すグリーディオラ皇帝に、アッシュは内心ほくそ笑む。
「これは他人には内密にしていただきたいことですから…」
「む、そうだな。して、余が【聖杯】を自由に扱える方法とは、一体どうすれ…ぐっ!」
グリーディオラ皇帝は“鋭い痛み”を感じて、自身の胸を見下ろした。
背中から血塗られた剣が胸を
上等な服がみるみるうちに赤黒いシミで広がった。
「アッ…シュ。これは…、どういう…」
アッシュはグリーディオラ皇帝の片肩を掴みながら、その背中に刺したままの剣を、さらに深く差し込んだ。
グリーディオラ皇帝は、堪らず口から血を吐いた。
そして血溜まりの上へ、その膝を突いた。
「そんな方法などありませんよ。陛下」
床に倒れ込んだグリーディオラ皇帝の背中を踏みつけながら、アッシュは剣を抜き去る。
そして剣身についた血をひと振りで払うと、鞘に収めた。
「貴様…余を…騙し…」
「…先に
アッシュは冷酷なまでに、静かな声で問うた。
「……貴様は…だれ…なのだ……!」
グリーディオラ皇帝は息も絶え絶えになりながら、目一杯叫んだ。
アッシュは
「俺か?俺はスウルス国第一王子の“アシュベルト”だ」
「…ばか…な」
「配下に『死んだ』と聞かされていたものな?だが貴様は『俺の死体』をその目で確かめてみたのか?」
グリーディオラ皇帝は戦いの最中、一度でも自国の城から出たことはない。
あの戦火を、あの悲惨な光景を、この男はその目で見たことがないのだ。
『無言』それがなによりの答えだった。
グリーディオラ皇帝の死を確認し終えた、アシュベルトは部屋を去った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『っ!?……お待ちください!!……ぐっ!』
制止する兵の声が途切れて、ずさっと重い音が漏れ聞こえてきた。
ギィー、軋んだ音を立てながら鉄扉が内側へ開く。
部屋に入って来たブランは、椅子に座っているノワールの前で片膝を折った。
「ノワール…」
ブランは彼女の名を呼んだ。
「…ブラン…貴方に“お願い”があります」
消え入りそうな
「…私を殺してください」
ブランは息を飲んだ。
ノワールは椅子から崩れ落ちるように石床に座り込むと、ブランの胸元に縋って懇願した。
「もう疲れました…皆が…私を責め立てるのです。国の宝を奪われたのはお前のせいだ…と。…お前のせいで…我々は死んだ……と、そう責めるのです」
「それは違う!」
すかさずブランが、強く否定した。
ノワールの両肩を掴むと、強い口調で
「貴女のせいではない!絶対に違う!!私のせいだ…!貴女から【聖杯】を奪ったのは、この私なんだ…!!…一体…誰が貴女を恨むだろうか」
そう言い切ったブランは、下唇を噛み締めながら、深く俯いた。
「…そうだ。貴女は悪くない…なにも悪くないんだ」
ブランの
慌ただしく、石畳を打ち鳴らす複数の足音が聞こえてきた。
「…ノワール、行こう」
ブランはノワールを片腕で抱き上げた。
【聖杯】を奪ったあの日も、気を失った彼女を抱きかかえたことがあった。
しかしそれよりも驚くほどノワールの身体は軽くなっていた。
「どこ…へ?」
抱き上げられて戸惑うノワールに、ブランはただ何も言わず優しく微笑みかけた。
ブランはノワールを片腕で抱き上げたまま、剣を振り払って鞘を抜き去った。
カラン、と軽やかな音を立てて、鞘が石床に落ちる。
と同時に、複数の兵が部屋に雪崩れ込んできた。
「ブラン=ケオトルト!貴様を陛下を殺した“反逆者”として拘束する!!大人しく投降しろ!!」
兵士たちの剣の切っ先が、一斉にブラン達に向けられた。
ノワールは身体を
そんな彼女を安心させるように、ブランは抱える片腕にグッと力を込める。
「断る!」
ブランは短く答えて、不敵な笑みを浮かべた。
兵士たちは思わず、喉を鳴らした。
「ノワール姫をお守りすることがこの『白銀の騎士』ブラン=ケオトルトの使命!!貴様ら、そう心得よ!!」
ブランは少し態勢を低めて、一歩踏み出した足にぐっと力を込める。
「押し通る!!死にたくなかったらそこを
ブランはノワールをしっかりと抱きかかえたまま、兵士たちに向かって突進した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「はっ、はっ」
ブランは建物の影に身を潜めながら、荒い呼吸を繰り返した。
「大丈夫…ですか?」
ブランの腕から降りたノワールは、心配そうに声をかけた。
「…大丈夫だ」
ブランは傷ついた身体で、無理に笑う。
「でも…」とノワールは両膝を折って、ブランの傷を心配した。
「…そうだ。吉報があるんだ」
「?」
ノワールは首を傾げた。
「貴女の兄上は存命している」
「!!」
ノワールの目に再び光が点った。
「お兄様が…生きていらっしゃる?」
「そうだ」
ブランの返事にノワールの目から涙が溢れた。
・
・
・
「お兄様!」
アシュベルトを見るや否や、ノワールはその胸に飛び込んだ。
「ご無事でよかった…!」
そう言ってノワールはアシュベルトの胸元で泣きじゃくる。
アシュベルトは痩せた妹の背中を、優しく
「お前も生きていて、本当によかった…」
アシュベルトが安堵したように息を吐いた。
そんな兄妹の再会を見届けたブランは急に力が抜けて、その場に倒れ込んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
乾いた喉に何かが流し込まれてブランは、薄く目を開けた。
「よかった…」
ノワールが泣きそうな顔をして、ブランの顔を覗き込んでいた。
ブランはノワールに膝枕された状態で、はっきりしない視界で辺りを見渡す。
鮮やかな緑の色彩が目に飛び込んできて、ブランは無意識に起き上がっていた。
そして目の前の光景に圧倒された。
「これ…は、一体」
二人の周りは、青々と茂った木々で覆われていた。
「【聖杯】の力を使いました」
ノワールが静かに告げた。
彼女の手には、かつてブランが『水の神殿』から奪い取った【聖杯】が握られていた。
「【聖杯】は
ノワールは辺りを見渡しながら、ゆっくりと話す。
「生命の成長を早める促進作用もあるのです。種を撒き【聖杯】の水を与えたら…このように数時間で大木に成長することが出来るのです」
ノワールの話に、ブランは驚いた。
「だが、その力を使えるのはスウルス王家の者が【聖杯】を持っている場合だけだ。他の者がその【聖杯】の水をかけただけでは、まったく意味がない」
木の幹に体を預けて、腕を組んでいたアシュベルトが補足した。
「だが、この力には“
「
「ああ。聖杯の力を使った分だけ、使用した者自身の寿命を縮めることになる」
「!?」
ブランはすぐさま、ノワールを見た。
「さっき…私に飲ませたのは…?」
ブランの問いには答えず、ノワールは静かに微笑む。
「【聖杯】の力は飲んだ者の自己回復の手助けにもなるのですよ」
ノワールの言葉に、ブランの弾かれたように自身の身体を見下ろした。
ーブランの深手を負った傷はすでに
「しかし、それでは…」
「それで…これから『私達』は巡礼の旅に出ることにしたのです」
ノワールが急にそう告げた。
「……お兄様と一緒に各国を回って、この大陸を、再び緑の大地に戻すつもりです」
それはノワール達の寿命を縮める行為だ。
しかしスウルスの民はとても慈愛深い民族である。
「本当は、こうなる前に……すべきだったのですが…」
「我々とて人間だ。聖人ではない。自分の寿命を縮めてでも…お前たちを助ける価値があるのか…私達はそれを見極めようと思っていた…だが、お前たちは大きな過ちを犯した」
ノワールの言葉を引きついたアシュベルトは、若干
「……自分達の私利私欲のために、【聖杯】を我が物にし、独占しようとした」
アシュベルトは冷淡たる声で、ブランに言い放った。
「………」
ブランは何も言い返せなかった。
「ですが、ブラン。貴方は…私に自分の命を差し出そうとした。その気持ちは“私達”に通じるものがありました。だから…私達はあなた達を許し、そして救う道を選びます」
ノワールとアシュベルトは互いの顔を見合って、頷き合う。
「…その巡礼の旅、私にも同行させてほしい」
ブランは決意を固めて、二人を見上げた。
ノワールとアシュベルトは驚いた。
「傭兵としてでも構わない。国を追われる身としては…むしろ好都合だ」
ブランはそう言って、からっと笑った。
「私は自分で言うのもなんだが強い。その【聖杯】を、あなた達を狙う輩は多いのだろう?」
ブランの投げかけに、ノワールとアシュベルトは言葉に詰まった。
ブランの言う通りだからだ。
「だから、私を連れて行ってくれ」
二人の反応を見越していたブランは、そう告げると深々と頭を下げた。
「……本当にいいんですか?」
ノワールは控えめな声で、ブランに尋ねる。
「ああ。それが私の望みなんだ」
立ち上がったブランは、強く頷いた。
「それに…私は何より貴女と共に、生きたい」
ブランに真っ直ぐな目を向けられて、ノワールは驚いて目を見開く。
戸惑うノワールの手をそっと取ると、ブランは静かに片膝をついた。
そして自身の手ひらに重ねた彼女の手の甲へ、そっと額を押しつける。
「ノワール=スウルス。この『白銀の騎士』ブラン=ケオトルトがこの魂に誓い、貴女へ揺るぎなき忠誠と……そして永遠の愛を捧げる!」
ブランは高らかに宣言した。
白銀の騎士と漆黒の姫 甘灯 @amato100
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