第8話 Last Fight

「うん。何を言っているのか全くわからないな」

 容疑者がシラを切る言い方とは全く違う抑揚でジェイは口にした。アマラを心配する表情を浮かべながら。

「どんだけ飲んだらこうなるんだよ、まったく」

 ジェイはそう口にしながらも、アマラの血中には未処理のアルコールなど残っていないのは見て取れていた。

「ジェイから借りた白いニット帽」

「ん、別に返さなくていいぞ」

 そのジェイの言葉は無視して、アマラはディテクティブとしての視線でジェイの表情を捉えて離さずにいる。

「消毒液、防腐剤、それと僅かな死臭」

「何だよ、ディテクティブはチーズとソーセージを見つける探知犬にでもなったのかい?」

 獲物を捉える猛獣の目をしていたアマラが、普段のジェイを見る目に戻して笑った。

 かつて一二五万ポンドを投じてマンチェスター空港に導入した麻薬探知犬たちが、ヘロインには見向きもせずにチーズとソーセージばかり嗅ぎつけたというニュースを引っ張り出して、遠回しにアマラの無能ぶりを指摘するジェイが「ウイスキーマン」であるはずがない。アマラはそう確信し、詫びた。

「だよね。ごめん。でもこの帽子は」

「それだけは正解。マキシを抱いた記念に貰ってきた。でも、俺のことはハズレ。マキシにはギルモアに言われて近づいただけ。あと、マキシも白だよ、その帽子同様ね」

「いつの間に。あ、もしかして私も?」

「おっ、流石に勘が鋭いね。最初は容疑者だったよ。まずは身内を疑えってね」

「マキシにあんなこと言ったのも、揺さぶりをかけたのね。そっか。そういうの得意だものね。思い出すとイラッとしちゃうから、ジェイの名前も思い出さないようにしてたけど」

 ジェイ。ジェイムズ・ボンドなどという冗談みたいな名前でMI6から出向してきている諜報員。本名はギルモアでさえ知らされていない。

「名前に関しては俺だって納得してないけどね。それより、本当に俺がウイスキーマン役だったらどうするつもりだったんだよ。無謀にも程がある」

「バルに居た時はジェイのこと信じ切ってたから」

 何でもなくそう言ってのけたアマラに、ジェイは思わず視線を外した。

「ま、それは置いといて、だ。どうする、ディテクティブ・バーネット。容疑者も浮かんでこない。証拠は何もない。酒を飲んで誘き寄せる作戦も不発。次の手は考えてあるのかい?」

 ジェイはそう言いながら愛用の青いMAー1から青いグラスケースを取り出した。そのグラスケースにも黄色い文字で「SUBARU STI・R.A.B.」と刻印されている。

「どれだけ好きなのよ」

 アマラはそのグラスケースを見て苦笑している。

「リチャード・アレクサンダー・バーンズ。彼と地元が同じだったんだよ。八歳から運転してたってんだぜ? 田舎とはいえ、今じゃ考えられねえよな」

 そのラリードライバーの名前は、イギリス人であれば大抵知っている。二〇〇五年、脳腫瘍により三十四歳の若さでこの世を去った天才。

 そのグラスケースから取り出されたのは、ドライビングサングラスではなく、一見すると普通のメガネだった。

「カメラとマイクが内蔵されている。ディテクティブは普段はコンタクトだろう?」

「そうだけど。私にこれを掛けろってこと?」

 黒く丸いフレームにシルバーの金具。必要以上にファッショナブルなメガネに、アマラは顎を引いた。普段見た目に頓着しない彼女にとっては不自然と、自身で感じていたが、ジェイに促されてその重みを鼻筋に乗せた。レンズに度は入っていない。

「うん、よく似合う。その髪を縛ればもっと知的に見えそうだけどな。まあ、知的に見せるのが目的じゃねえし」

 ジェイはそう言いながら今度はポケットからスマートフォンを取り出してアマラに向けた。写真でも撮られるのかとアマラは咄嗟に両手を顔の前に出したが、ジェイが笑って「違う、見てみろよ」と言ってスマートフォンのモニタ側をアマラに見せた。

 すると、その画面の中には合わせ鏡に映したように、ジェイのスマートフォンが奥に向かって連なっていた。

「視線感知機能もついているから、メガネの正面じゃなくディテクティブが見ている物を映すんだ。目を閉じている時は、メガネの正面を映す。ある程度動きを自動追従してね。音声は指向性じゃなく全方位の音を拾うから」

 顔の位置はそのままに、アマラが視線を動かすと、スマートフォンの画面に映される風景も変わっているのを視界の端で確認できた。

「で、このメガネで何をするのよ?」

 答えがわかっているアマラだったが、その答えをどうジェイが伝えるのか聞いてみたくて尋ねた。

「そりゃあ殺されるのさ。犯人から。さあ、今夜もパーティーだ。方法は間違っちゃいないはずだからな」

 あまりにストレートな答えに、アマラは嘆息した。


 その日の夜。アマラとジェイは再びいつものバルに居た。

「昨日のアルコール分解の疲れが残っているみたい」

 ジェイに言われたからなのか、普段は肩のあたりで跳ねている髪を縛っているアマラが、眠そうな声を溢して天井を見上げた。その天井にあるシーリングファンが、アマラの酔いまで回し始めた。

「どれどれ」

 ジェイはスマートフォンの画面を確認している。アマラの視線がシーリングファンに釘付けになっているのが一目瞭然だ。さらに別窓で表示されているバイタル値が、泥酔ぶりを可視化している。

「うん、そろそろ頃合いかな。マスター、チェイサーを」

「ほいよ」

 マスターはカウンターの下に置いてあったグラスをジェイに手渡した。そこには既に液体が満たされている。

「ほら、ディテクティブ。これでも飲んで」

「うん、ありがとう」

 アマラがそれを飲み干すのを見届けたジェイは、スマートフォンで素早くテキストを送った。短く ”Last Fight” とだけ。


「随分と待たせたじゃない?」

「流石に昨日はギルモアの目が厳しかったからね。ところで、今回は殺してから耳を切るんじゃないのかい?」

「それじゃ面白くない。私の気も済まない。深く眠っているといっても、麻酔をかけているわけじゃない。耳を切られたらその痛みで目を覚ますはず。その時の表情を見てみたいじゃない?」

 不敵に笑うマキシが、恍惚の表情で躊躇なくアマラの耳にメスを入れた。邪魔になる髪の毛は、こうなると知っていたかのようにアマラ自身が束ねている。

「コイツが起きた時の第一声を想像するだけでイッちゃいそう」

 アマラの右耳の半分が顔から離れた時、吐息混じりのその言葉をアマラが聞き取った。チクチクとした痛みに目がゆっくりと開く。焦点はすぐには定まらない。

「ん、ううん」

 そのアマラの呑気に寝ぼけたような声に、マキシが怒声をあげた。

「何良い気分で寝てるのよっ!」

 アマラを縛り付けている椅子をマキシが蹴り飛ばすと、椅子ごとアマラは倒れた。

「な、何?」

 条件反射的にアマラはズレたメガネを直した。そして、右耳が大きく切られていることと、誰によって切られたかを悟った。そして、誰によって嵌められたかも。

「ああ、折角の楽しみも半減じゃないのかい? マキシ」

 怒りで興奮するマキシの腰に手を回し、彼女の耳を軽く噛みながらジェイが囁いている。

「やっぱり、貴方たち!」

 アマラはこれまでに感じたことのない怒りを言葉にぶつけた。特にジェイへの怒りは、耳の痛みを忘れさせた。

「今回だけ特別さ。マキシが面白いことをしていると気付いたのは最近だからね」

「そういうこと。あんたのお友達はあたしのいいなり。ベッドの上でも、ね」

 マキシはそういってジェイの唇を吸った。

「なあ、マキシ。コイツ、目を覚ましたけど、どうするんだい? やっぱり両耳とも落とすのが先か、殺すのが先か」

 マキシ以上におぞましい笑みを浮かべるジェイに、アマラの身体中の毛が逆立つ。

「殺したい。とりあえず殺して、あなたとしたいわ」


 NCAイギリス国家犯罪対策庁所属マキシマ・ミンズ・テイラー検視官。マキシの愛称で呼ばれる彼女には三人の兄がいる。

 その三人ともが医者であり、長男が精神科の開業医。次男と三男はそれぞれ別の総合病院で外科医をしている。

 マキシは幼い頃より医者にはならないと決めていたが、結局三人の兄たちからの猛烈な影響を受けて、家業とは違った形の医者となった。一般的な医者が患者の体温が平時より上がっていないか確認する体温計を、マキシは物言わぬ亡骸となったただの身体に突き刺し、その温度がどれだけ下がっているかを確認する。

 その時に必ず彼女が口ずさむ歌があった。

あなたの叫びを聴かせてLet Me Hear You Scream

 ブラック・サバスとそのボーカル、オジー・オズボーンは彼女のアイドルだ。そのオジー・オズボーンが活動に終止符を打とうとしている今、彼女は狂った列車Crazy Trainに乗り人生のレールから外れていた。

 そのきっかけになったのはオジーの活動停止だけではない。

 マキシの自宅には、祖父が残したバーネット刑事のDNAサンプルがあった。当時はDNAサンプルとして残した物ではないが、結果として現在そうなっている。

 そのサンプルと合致する人物がいないか。兄たちが務める病院で採取された血液等から、マキシは毎晩自身のラボでチェックしていた。

 そして、ヴォクソールタワー建設時のヘリコプター衝突事故の際、怪我人として運ばれてきたホームレスが、バーネット刑事のDNAと一部合致した。それがアマラの大叔父だ。


「大叔父も、本当はあなたが殺した。そうでしょう?」

 メスを持って近づいてくるマキシを睨みつけ、アマラは訊いた。

「当たり前じゃない。もう死にかけも同然だったけどね」

「なぜ自然死を装ったりしたの?」

「まあ、時間稼ぎかしら。もうちょっとNCAって優秀だと思ってたんだけど、どうやらその必要はなかったみたいだと分かってからは、変な小細工は辞めた。あの捏造フィルムだけで充分撹乱できたみたいだから。ウイスキーマンなんて実在するはずないのに、それも分からないなんて、ほんと無能」

 話を聞き出すにつれ、アマラは冷静さを取り戻し、同時に耳の痛みが襲ってきた。その痛みに思わず目を閉じようとするが、怒りの炎を胸にマキシを再度睨みつけた。

「その頃からあのコンセルジュを操っていたのね」

「まあ、そういう言い方もできるのかもね。あの人はただあたしに従順だっただけ。ただ、いつも果てるのが早かったから、逝ってもらったけど」

 アマラはマキシの言葉を聞きながら、怒りの炎が消えていくのを感じていた。あと五分もしたら間違いなく殺されるというのに。

「あら? 何を泣いているのかしら?」

 アマラが恐怖で涙していると思ったマキシは、そう言うと声高らかに笑った。

「なんて可哀想な人なの」

「なんですって?」

「可哀想って言ったのよ、マキシ」

「くっ! あんた、何様だと思っているのよ!」

 マキシは手にしていたメスを逆手に持ち換え、頭上に振り上げた。

「あんたの叫びを聴かせな!」

「うん。そろそろ限界かな」

 振り上げたマキシの手をジェイが掴んでる。

「ちょっと、離しなさいよ!」

「おっと、その言い方は俺が離さないのを悟ったような言い方だね。うん、正解」

 ジェイは掴んだマキシの手を捻ると、あっさりその手首を折ってマキシを床にねじ伏せた。そして、折った手首に手錠を素早く掛けると、床に落ちたメスでアマラを縛っていたロープを切り、メガネが落ちたのも構わず彼女を抱きかかえて愛車のS204へと急いだ。


「もう一本メスを持っていたとはね」

 ギルモアがスマートフォンの画面を見ながら盛大に嘆息した。

「すみません。迂闊でした」

 これまでに見せたことのない畏まった態度で詫びたのはジェイだ。

 マキシの証言と行動を記録したあのメガネが、アマラとジェイが去った後に自分の首を切るマキシも記録していた。図らずとも祖父の最期と同じように死に様が記録されたことになる。

「これで真相がまたひとつ闇の中だ」

 ギルモアがスマートフォンをポケットに収め、ベッドに横たわるマキシの遺体に目を落とした。

「バーネット捜査官はどうしている?」

「俺にはもう会ってくれませんよ」

「そんなことはないと思うがね。兄妹だろう?」

「いや、まあ、はあ」

 なんとも歯切れの悪いジェイの背中を、ギルモアは強く叩いた。

「見舞いに行ってやれ。間違いなく彼女が今一番会いたがっているのは君のはずだ」

「そうですかね。そうだと良いんですけど」


 ロンドン、ウェストミンスターA3205通り。二人の男女が信号待ちの車の中から高層アパートを見上げている。

「ねえ、千ポンドで住める部屋があるって言ったら、住む?」

「いや、住まないね。五千払ってこそのヴォクソールタワーだろ?」

「そっか。そうだね。じゃあやっぱり私たちはここから眺めているのが性に合ってる」

「そういうこった」

 ウェストミンスターの鐘が朝の八時を告げる。テムズ川に横たわる霧が、鐘の音で僅かに揺れた。

「さて、今日もひと仕事しますか」

「そうね、お兄さん」

 青いスバルのステアリングを握る男が、助手席の女の額を軽く小突いた。


 アンチクライマックス ケース#1 ウイスキーマン 了

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アンチクライマックス ケース#1 ウイスキーマン KAC版 西野ゆう @ukizm

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