第3話

そう──私が殺したのです。

 彼らは私を裏切った──だから殺しました。

 私は生まれながらにして難病を患っていました。原因不明の皮膚病です。私は太陽の光を浴びることができない体でした。具体的には紫外線を浴びると、皮膚がまるで大火傷をしたかのように醜く爛れ、水膨れが出来てしまうのです。いち早く、私の病気に気づいた母は、私を決してお屋敷の外に出そうとはしませんでした。

 しかし、ときに子供の無邪気さというものは大きな悲劇を招くものです。

 幼かった私は、いつも母親に反抗し、外に出たがっていました。それを不憫に思った兄が、私をお屋敷の外に連れ出したのです。当然、兄も母親から「私を外に出してはいけない」と厳しく言われていたはずです。しかし、兄もまた幼かったために、その重要性を認識していなかったのです。

 ある日の昼下がり、母や使用人の目を盗み、私は兄に連れられて、お屋敷を飛び出しました。雲一つない青空に大きな太陽が燦々と陽光を降り注いでいました。私は生まれてはじめて太陽の光を真正面から浴びたのです。兄と私は鬱蒼とした木々の間を駆け抜けました。

 はじめて嗅ぐ緑の匂い。頬を撫でるそよ風。お屋敷の中の生温い空気とはまるで違います。解放感に満ちあふれ、私は大きな声で叫びたい気分になりました。兄もすごく嬉しそうにしていました。

 すぐに異変が表れました。ふいに体中が燃えるように熱くなり、私はうずくまりました。兄は驚き、心配そうに声をかけてきます。兄は私の体を見て、ひっ、と声をあげました。兄の注ぐ視線に促されるように、自分の手足に目をやりました。全体が真っ赤に爛れ、大きく腫れ上がっていたのです。ところどころ水膨れになっています。あまりのショックに私は声をあげることすらできませんでした。次の瞬間、身悶えるような痛痒さが体全体を襲いました。体中を掻きむしりながら、私は地面を転げまわりました。しだいに意識が薄れてゆくのを感じました。最後、兄の「助けを呼んでくる」という声を耳に残して。


 気がつくとベッドに寝ていました。三階の私の部屋です。母と兄がいました。私が意識を回復したことに、安堵している様子でした。体を動かそうとして、私は痛みで悲鳴をあげました。母に、動いては駄目、と制されました。母は泣いていました。兄は下を向いたまま黙っていました。私は自分の体を見て驚きました。全身を包帯でぐるぐる巻きにされていたのです。足のつま先から頭のてっぺんまで、すべてが覆われていました。

 母はそのことについて何も言わず、今はゆっくり眠りなさい、とそれだけを口にしました。私はその言葉に従い、目を閉じました。しばらくすると母も兄も、部屋を出ていったようでした。

 夜中に目を覚ましました。体が痛痒くて眠れないのです。体を掻きむしりたかったのですが、包帯が邪魔でした。それでも痛痒さに我慢できず、包帯の先端を探し当て、強引に外しました。包帯に隠されていた私の体が露わになりました。

 これが私の体──頭が真っ白になりました。胸も腹も腕も手のひらも太腿も足の先まで、赤黒く爛れ、水泡で埋め尽くされていたのです。あまりのショックに何も考えられない状態でしたが、それでも私は無意識のうちに体を掻きむしっていました。爪が水泡に喰いこみ、膿が飛び散りました。それでも、手を止めることができません。膿に血が混じりました。爛れた肌は膿と血に塗れていたのです。私は嗚咽しながら体中を掻きむしっていました。

 私はバランスを崩し、ベッドから転げ落ちました。背中から落ち、そこにある無数の水泡がぐちゅり、と潰れたのが感触でわかりました。私は体中の痛みと痒みに蹂躙されながらもなんとか立ち上がりました。立ち上がったその場所には、大きな姿見がありました。

 そこには化物が映っていました。

 化物は全裸でした。

 血と膿で塗れた醜い胴体の上に見える顔──顔面の至るところが腫れ上がり、目と鼻が特定できないような様相でした。特に唇は、より大きく腫れあがり、そこに干し葡萄をいくつも並べたような醜いできものがあったのです。

 私は不細工な肉塊となりました。

 体を震わせて泣き叫びました。幼い私でしたが破滅的な絶望の淵にいることを、感覚的に理解していたような気がします。私はあまりのショックに、そのまま意識を失いました。

 それから十年以上、私はお屋敷を出ませんでした。それどころか、自分の醜い姿を身内にも見せませんでした。体全体を真っ黒な服とパンツで覆い隠し、頭にも顔がすっぽり隠れる特製のマスクをかぶっていました。マスクには視界を確保するための小さな穴が空いており、そこだけが私の中で唯一、黒で包まれていない部分でした。

 私は日々、絶望に伏していました。初めは姿を現していた母も、私の鬱な気持ちが伝染したかのように言動が怪しくなり、体調を崩し寝込んでしまいました。兄は私を連れ出してしまったことに、強く責任を感じている様子で、毎日やってきては私に言葉をかけ続けました。ですがそんな兄を、私は鬱陶しく思っていました。ある日、いつものように優しく声をかけてくれる兄に向かって声を荒げました。

「私は世界で一番醜い存在よ……化物なの! どんな言葉をかけられてもそれは変わらない……もうお兄ちゃんのことは恨んでない……だからほうっておいて!」

 それに対して兄は言いました。

『エマは化物なんかじゃない……。外見なんて関係ない。本当に醜い人間というのは、心が醜い人間のことなんだ』

 適当なことを、と思い、私は言い返しました。

「じゃあ、証明してみせてよ。私より醜い人間がいるのなら、それを私の目の前で証明してみせて」

 わかった、と頷き、兄は部屋を出ていきました。そんなことできるわけがない、と私は思っていました。しかし、兄は本気だったのです。

 数日後、兄が部屋に現れ、突然、窓から前庭を見るように言いました。言われたとおり、三階の私の部屋から前庭を見下ろすと、横一列に並ぶ、人の姿がありました。聞けば、父に協力してもらい人を集めた、とのことでした。

 多忙な父の優しさとは、お金そのものでした。父はお金さえ出せば、家族に対する責任は果たしている、と本気で思い込んでいるような人間でした。特に私は父から溺愛されていました。兄は父親に、私のためだ、と懇願したのかもしれません。

「不要な人間たちをさらってきたんだ。ここからよく見てておくれ。人間の醜さというものがどういうものかを。お前が美しい存在だということを僕が証明してみせる」

 それから定期的に前庭で処刑ゲームが行われるようになりました。私はそのたびにこの黒づくめの格好で、三階の自室、もしくは二階の書庫に場所を移し、ゲームを見ていました。たしかに、どんなに結びつきが強い人間であっても、結局は自分の身が一番可愛いのです。だから極限状態になれば人を裏切り傷つけてでも、自分自身を守ろうとするのです。でも、それは当たり前のことだと思いますし、そういう人間たちの姿を見ても、正直、その人間たちが自分より劣っていると考えることはできませんでした。

 にもかかわらず、兄は次々に人を連れてきては、手を変え品を変え、様々な処刑ゲームを見せてくれました。やはり何度見ても優越感は得られませんでしたが、処刑ゲームの内容、参加人数、男女の比率、年齢など、条件が変わると結果が変わってくることに気づきました。

 そのことに私は知的好奇心を覚え、実験の結果の詳細を兄や使用人から聞き、データ分析を行うことが、いつしか唯一の趣味となっていました。

 そして、私はただ単純に嬉しかったのです。

 兄には強い罪悪感があったと思うのですが、それでも兄は、紛れもなく、私のために、人生を捨てたのです。日々、私のもとを訪れては、他愛もない話をしてくれました。それが終わると今度は書庫にこもり、新しい処刑ゲームのアイデアを考えるのです。さらに大変なのは処刑ゲームの犠牲者の手配です。父のお金を使っているとはいえ、生きている人間を定期的に連れてくることは、おそらく容易ではありません。兄はもともと花や動物が好きな優しい性格でした。人を殺す処刑ゲームなど好きでやっているわけがないのです。ただそこに兄の、私に対する深い愛情を感じていました。その想いがあったからこそ、私は死ぬことを選択しなかったのだと思います。母も同じです。母は私を想うあまりに狂ってしまったのですから。

 兄と母がこの世の中でただ二人だけの味方でしたが、私はそれを思うと幸せでした。

 しかし、エマとラファエル医師の出現が、私の人生を大きく変えることとなりました。

 エマを見たときは本当に驚きました。かつての私と瓜二つだったからです。兄がひどく動揺しているのがすぐにわかりました。同時に、ひどく悪い予感がしたのです。

 予感は的中しました。兄はエマをゲームの処刑者に選ばず、自分のそばに置き、特別扱いしたのです。私はすぐに兄を問いただしました。兄はばつの悪そうな顔をしながらも、母のためだと言いました。かつての私と似たエマを見せることによって、病に伏している母が心の平安を取り戻せるかもしれない。兄はそう言ったのです。私は言葉を返すことができませんでした。

 ラファエル医師が現れたのは、その直後です。その姿を見たのは本当に久しぶりでした。最後に見たのは、私がこの醜い姿になる前──本当に幼いころです。彼は家に仕えるお抱えの医者ということでしたが、実際は父に仕えているように見えました。

 当時は、父もときどきお屋敷に顔を出していました。正門から入るとお屋敷まで鬱蒼とした森が広がり、車は通ることができませんが、実はお屋敷には裏門があり、そこからであれば車でお屋敷へたどり着くことができます。父がラファエル医師の運転する車に乗り、お屋敷に二人で一緒にやってきた姿を何度か見た記憶もあります。

 ですが、父がこのお屋敷から足が遠のくにつれ、ラファエル医師の姿も見なくなりました。 それが突然、十数年ぶりに姿を現したので、私はひどく驚いたのです。不思議なことに、ラファエル医師の姿は、私が幼いころに記憶していたものと、まったく変わっていませんでした。細身で背が高く、整った顔立ち。切れ長の目をしており、あまり表情を変えません。笑うときは、口の端だけを歪ませて、薄く笑うのでした。

 私の変わり果てた姿を見ても、まるで表情を変えませんでした。

 ラファエル医師は、私と兄に伝えたいことがある、と言いました。

 三階の私の部屋に、三人が集まりました。

 そこで、彼は驚くべきことを口にしたのです。

 エマはラファエル医師が町で見つけた少女で、曰く、ある目的のためにお屋敷に送り込んだ、とのことでした。

 その目的とやらを聞いて、私は息をのみました。とても信じられない内容だったからです。すなわち、それは私をこの地獄の日々から救い出すための計画でした。

 幸せな気持ちがじわりじわりと私の体を覆います。それは久しく忘れていた感覚でした。計画がうまくいけば、昼間、外を歩くことはできないかもしれませんが、化物ではなく、人間として生きることができるのです。兄も喜んでいる様子ではありましたが、ラファエル医師の話を聞いた直後、一瞬だけ顔を強張らせたのを、私は見逃しませんでした。

 兄の心は揺れていたのです。

 案の定、計画はなかなか進みませんでした。協力するといったはずの兄が、故意に計画を遅らせているようでした。

 エマが現れてから、兄の態度も変わりました。以前の兄は、毎日、私の部屋を訪れ、処刑ゲームの予定や実験結果を詳細に教えてくれたのに、それ以来、ほとんど姿を見せなくなったのです。

兄はエマといつも行動をともにしていました。ただ処刑ゲームだけは、エマとは一緒にいるものの、書庫にこもってアイデアを考えては続けてくれました。

 私は再三、兄に、計画に協力してほしいとお願いしました。それでも兄は、何かと理由をつけて、計画を先延ばしにしました。

 しかし、運命の瞬間は唐突に訪れたのです。

 その日の深夜、私は兄をこっそりと呼び出しました。二人で三階の、私の部屋へ向かおうとしたのですが、二階の廊下で口論になりました。この頃になると、兄はまるで開き直ってでもいるかのように、私の言葉に従順に頷きはするのですが、それはその場しのぎの演技でしかなく、言い訳を重ね、結局、何もしない、ということを繰り返していました。そのときも兄はわざとらしい悲壮な表情をつくり、空虚な相槌を重ねるだけでした。

 突然、近くで鈍い音がしました。さらに、どさっ、と何かが床に崩れ落ちるような音が聞こえたのです。

 私と兄は驚き、口論をやめ、音の聞こえた場所へと急ぎました。

 そこには、廊下に倒れたエマと、それを見下ろすラファエル医師がいたのです。

 エマは兄の部屋を抜け出し、私たちの会話を盗み聞きしていたようでした。その姿を見たラファエル医師が、気をきかせて、背後からエマを殴り、昏倒させたのです。

 その瞬間、兄が信じられない行動に出ました。倒れるエマにすがりつき、名前を叫び、涙を流しはじめたのです。

 予想はしていましたが、実際に、私はその姿を見て呆然としました。

 すぐに我に返り、兄の肩を叩きました。

 兄さん、何してるの、と聞いたのです。ふざけるのはよして、と言葉を重ねました。その子はどうせ死ぬ運命なのだから、とあきれる思いで言ったのです。

 すると兄は私の手を振り払いました。私を睨みつけていました。それは鬼の形相でした。

「触るな! 化物め!」

 一瞬、何が起こったか理解できませんでした。

 頭が真っ白になりました。

 化物──。

 兄は私のことをたしかに、化物、と呼んだのです──。

 やはりそうなのです──。兄に、私への愛情などずっと前からなかったのです。兄は罪悪感に苛まれていただけでした。化物の姿をした本物の妹よりも、かつての私とよく似た容姿の赤の他人を愛していたのです。体の奥底で何かが弾け飛びました。とにかく体じゅうが燃えるように熱かったことを覚えています。そして目の前が真っ暗になりました。

 闇はすぐに晴れました。目の前には血しぶきがありました。私は包丁を握っていました。

 大の字で倒れる兄の体に覆い被さるようにして、包丁を振り下ろし、抜き、また振り下ろす、この動作を何度も繰り返していました。私の目の前には体じゅう穴だらけの兄がいました。すでに事切れています。

 私はよろめきながらなんとか立ち上がりました。眼下には血に塗れた兄、その隣には意識を失ったエマが倒れていました。その様子をラファエル医師は無表情で見下ろしています。

「先生、わ、私……いったい……」

「大丈夫、私はエレナ様の味方ですよ。お父様もあなたの幸せを一番に願っています。私の言うとおりにすれば何の問題もありません」

 ラファエル医師は微笑み、優しい口調で言うのでした。

「ど、どうしたらよいでしょうか?」

 混乱していた私は藁にも縋る思いで聞きました。

「そうですね……では、こうしましょう。処刑ゲームの犠牲者の一人が離れの家畜舎を脱走し、この屋敷に忍び込み、ミカル様を殺した。買われたことを恨みに思って、屋敷の人間を殺そうと考える犠牲者は少なからずいると思いますから、十分な動機になるでしょう。一人、顔つきの悪そうな犠牲者を選び、私が連れてきます。食堂から包丁を持ってきて、犠牲者をそれで殺します。その凶器をミカル様のかたわらに、エレナ様が持っている包丁は、その犠牲者の傍らに置いておきましょう。そうすれば、犠牲者に襲われたミカル様が、最後の力を振り絞って、犠牲者を一突きした。それが致命傷となり、刺し違えて、お互いが死んでしまった……いくぶん無理はあるかもしれませんが、とりあえず筋は通ります。そのためにはこの屋敷の人間の口をすべて封じなければなりません……」

 流暢に話していたラファエル医師は、ここで一度、言葉を止めました。

「お屋敷の人間すべて……」

「そうです。お母様にも死んでもらいましょう」

 ラファエル医師はあっさりと言いました。そして上着の内側から素早く白手袋〈しろてぶくろ〉を取り出し、私に手渡しました。

「これを着けて、その包丁でお母様を殺してください」

「お、お母様を……?」

 予想もしない言葉に、私は何も考えられず、手渡された包丁と白手袋を交互に見ていました。

「エレナ様、時間がありません。それに言いにくいのですが、お母様の心は、この娘に移ってしまったのではありませんか?」

 ラファエル医師は床に倒れているエマを指して言いました。

 その言葉に私は、大きな衝撃を受けました。

 そうなのです──。母も同罪なのです。私はこっそり何度か母の部屋に行き、母の目の前に立ったことがありました。でも駄目なのです。私を自分の娘だと理解してはくれませんでした。それなのに、エマが、母の目の前に現れたあの日、自分の娘だと喜び、抱きしめ、涙を流したのです。私はドアの隙間からその様子を見て愕然としていました。

 悲しいのと悔しいので、身震いを止められませんでした。母も、兄と同様、私ではなくエマを選んだのです。

 気がつくと、私は白手袋を着けた右手に包丁を持ち、一階へと駆け出していました。一階の廊下を素早く走り抜け、そのままの勢いで母の部屋に忍び込み、寝ている母に覆いかぶさり、兄と同じように包丁で滅多刺しにしてやりました。母の口からは、ぐぅ、と空気の漏れるような音がしたきり、すぐに動かなくなりました。

 私は兄と母の血を吸った包丁を手にしたまま、一階のホールへと戻りました。

 すると二階から降りてくるラファエル医師の姿が見えました。

「母を殺しました……」

 私は喉奥から引きずり出すようにして言葉を発しました。

「つらい仕事をさせてしまいました。このような状況で急かすことは心苦しいのですが、まだまだやらなければならないことがたくさんあります。その包丁をお渡しください」

 私は言われるままに、握りしめていた包丁を手渡しました。いつのまにかラファエル医師も白手袋を着けています。

「すでに身代わりは私の方で用意しておきました。この包丁をその死体の横に置いてまいります。エレナ様はここでお待ちください」

 そう言うとラファエル医師は素早く二階へと駆け出しました。

 すぐにラファエル医師は一階へと戻ってきました。驚くことに息一つ切らしていないのです。

「お待たせしました。では次にやるべきことをご案内いたします。お父様に電話をしてほしいのです。私が言うとおりそのままに話し、お父様にお願いしてください。お父様は、先ほど言いましたとおり、エレナ様の幸せを一番に考えておられます。必ず、希望を叶えていただけるはずです」

 私はわけがわからず、面くらいましたが、兄と、母までも殺してしまっているのです。ラファエル医師の指示どおりに動くしかありませんでした。

 私は父に電話をしました。深夜だというのに、すぐに父は出ました。言われたとおり、兄と母を殺したことを父に伝えました。父はあまりのことに絶句しているようでした。私は警察に自首することを仄めかしました。すると父は、絶対に駄目だ、と驚くほど大きな声で叫びました。ラファエル医師が予想したとおりの展開です。頭を抱えているであろう父に、私は「お屋敷で雇っている人間全員の契約を解除してほしい」と言いました。そのための手切れ金の用立てもお願いしました。父は力ない声音で、しかしすぐに私の要求をのんだのです。

 父はそういう男でした。彼にとって一番大事なのは仕事であり、重要なのはその地位を守ることなのです。

 これは言い方の問題ですが、要するに、自分の娘が人殺しであることを公表されたくなければ要求をのめと、父親を脅迫しているのと同じことなのです。ずっと父に仕え、その人間性を熟知したラファエル医師ならではのかけひきのように思えました。

 私が電話を切ると、ラファエル医師はさっそく使用人が寝泊まりする離れへ向かうことを私に告げました。深夜でしたが、全員を叩き起こしました。そして契約解除の旨を伝えたのです。突然のことに驚き、中には不満を露わにする者もいましたが、手切れ金の話をすると、使用人全員が了承しました。この屋敷で見たすべてのことに対して口をつぐむ、という条件も折り込み済みです。

 使用人全員が出払った後、お屋敷に戻りました。すると二階で悲鳴が聞こえました。ちょうどエマが目を覚ましたようでした。エマは泣き叫びながら通路に飛び出し、使用人を探していたのでしょう。転がり落ちるようにして階段を下りてきました。

 私とラファエル医師は身を隠しました。エマの肌着は真っ赤に染まっていました。エマはふらふらとよろめきながら母の部屋へと向かっているようでした。私とラファエル医師はゆっくりとその後を追いかけました。もはやエマに逃げ道などないのです。

 母の部屋は開け放たれ、母の死体の前で呆然と立ちつくすエマの背中が見えました。

 エマは完全に壊れているようで、一人で何やらブツブツと呟いていました。

『わたしが……殺した……』

 どうやらエマは自分が兄と母親を殺した、と思い込んでいるようでした。私はエマの背中にぴたっと張りつき、耳元で囁きました。

『おまえが殺したんだ』

 途端、エマはビクッと体を震わせました。

 そう──この女が、兄と母に取り入り、私に向けられていた愛情を奪ったから、二人は死ぬことになったのです──。結局、二人が死んだのはこいつのせいなのです──。

 殺す──。抗えぬ強い衝動が体を貫きました。背後から思い切り首を絞めつけようとした瞬間、強い力で腕を掴まれました。

 ラファエル医師でした。医師は無表情のまま首を左右に振りました。そして私に何かを握らせるのでした。見ると脱脂綿でした。脱脂綿に何かの液体が滲んでいます。

「エレナ様、お気持ちはわかりますが、ここで殺してしまっては、すべてが台無しになってしまいます」

 ラファエル医師は抑揚のない口調で言いました。ようやく私は我に返りました。すばやく脱脂綿をエマの口元にあてがいました。一瞬でした。エマは膝から崩れ落ちました。

「エレナ様、お疲れ様でした。これですべて終わりです。夜を待ってお屋敷を出ましょう」

 そう言ってラファエル医師はエマを担ぎ上げました。 

 私は希望に満ち溢れていました。

 私はようやく化物から人間に生まれ変わることができるのです。



 ラファエル医師による皮膚の移植手術は無事成功しました。

 それにより私は新しい顔を手に入れたのです。

 あの日──十数年ぶりに現れたラファエル医師は、他人の皮膚を移植すれば病気が快方に向かう可能性を示唆してくれました。ただ、ドナーは誰でもいい、というわけではなく、以前の私とできる限り年齢や外見が近い方がいい、とのことでした。そんなとき、ラファエル医師が偶然にも町でエマを見つけて、このお屋敷に連れてきたのです。エマは似ているどころか、以前の私と、まさに瓜二つでした。これ以上ない、最高のドナーといえたでしょう。

 兄は死に、母も死にましたが、手術は行われました。エマの顔は、私のものとなりました。

 包帯が取れて、手術後初めて鏡を見たとき、私は嬉しくて大声で泣きました。ようやく人間に戻れたのです。

 顔を移植してから、もう数年経ちますが、拒絶反応は一度も起こっていません。

 やはりエマは最高のドナーでした。

 お屋敷を出た直後、またラファエル医師の口添えで、父にあと二つだけお願いをしました。お屋敷を出た後の隠れ家を用意してもらうことと、移植手術の費用を出してもらうことです。やはりラファエル医師の助言に従い、森の奥の地下室付きの一軒家を望むと、父はその条件を満たした古い一軒家をたまたま所有していました。それをそのまま譲り受け、手術費用も負担させた私でしたが、その二つの条件をのむ代わりにと、父からは絶縁を言い渡されました。実の父を脅すような娘に辟易したのでしょう。

 別に悲しくはありませんでした。これからは父に甘えず、ラファエル医師にも頼らず、自分一人の力で生きていこうと決めていたからです。

 そうして、私はこの一軒家に移り住みました。

 幸い、お屋敷にいた頃に見た処刑ゲームが、あるジャンルのアイデアの源泉になってくれました。

 ホラー小説です。

 私の作品はすぐに新人賞に引っかかり、極限状態に置かれた人間の心理、行動が実にリアルだと評価され、期待の新人としてデビューを果たすことができました。それからも順調に作品を発表し、謎の覆面作家としていくつかのヒット作も出しています。

 ですが、まだまだお金が足りないのです。

 私はときどき、あのときのラファエル医師の行動について考えることがあります。

 ラファエル医師は、私を手術するにあたって、きちんと費用を要求してきました。そう。彼はそれに見合う対価がなければ、決して動かない人間なのです。情で動くことは絶対にありません。

 ならば、なぜあのとき──激情に駆られて兄を殺してしまったとき、ラファエル医師は私を救ってくれたのか──。

 彼自身が実験体を身代わりに一人殺し、使用人全員を辞めさせてまで、兄と母を殺した私を逃してくれたのです。それに関しては何の見返りもないにもかかわらず。

 私が捕まってしまうと、手術費用を取れないから──。

 いえいえ。実働は兄であれ、数えきれないほどの人間を殺人ゲームで屠った、私は主犯なのです。そんな人間に対する殺人幇助ほうじょなど、どれほどの罰に値するかわかりません。あまりにもリスクが高すぎます。

 やはり──ラファエル医師には、何か大きな目的があったのでしょう。今、思い出してみると不可思議な点が多々あるのです。

 私は当初、ミカルの殺人ゲームのことを、父がラファエル医師に話していると思っていました。その後、町で偶然エマを見つけたラファエル医師は、お屋敷に彼女を送り込んだ直後、私たちの前に姿を現して、移植手術の話を持ちかけたのだと考えていたのです。つまり、すべて父から殺人ゲームのことを聞かされた上での行動だと思っていました。

 それではなぜ、あのときわざわざ、私に電話をさせたのでしょうか──。

 父がラファエル医師にすべてを話していたなら、それは常に彼を信頼し協力を求めていたことになります。だとしたら私からではなく、ラファエル医師から直接、電話すれば話は早いはずなのです。しかも、実の息子が行っている殺人ゲームのために父がお金を出していることを知っているのですから、そのことで父を脅すことだってできます。

 ラファエル医師はおそらく、殺人ゲームのことは父から聞いたのではなく、自分で、どこからか情報を得たのではないでしょうか。その上で、町でエマを見つけて、お屋敷に現れたのです。。父に知られずに私たちと接触する必要がラファエル医師にはあったのかもしれません。

 ただ、それが何を意味するのかはいくら考えてもわかりませんでした。

 不思議に思ったことはまだあります。

 兄を殺した後、ラファエル医師は私に、母も殺すよう指示を出しました。私は言われたとおり一階に下りて眠っていた母を刺し殺し、ホールへと戻りました。その間、おそらく十分足らずです。

 しかし、ホールに戻ってくると、すでに二階から螺旋階段を下りてくるラファエル医師の姿が見えました。そして、一階に下り立った彼は言ったのでした。

 身代わりはすでに用意した、と。

 たった十分しかなかったのです。彼の言ったことが事実であれば、ラファエル医師はそのわずかな時間でお屋敷の裏の畜舎まで行き、犠牲者を一人選んで殺してから、その死体をお屋敷まで運び、さらにそのまま階段を上がって、ミカルと刺し違えたと見えるように配置した、ということになります。

 どんなに頑張ってもたった十分で終わるような作業ではありません。

 もしかしたら彼は何もせず、私が戻るのを見計らって下りてきただけなのではないでしょうか。それを裏づける根拠もあります。

 私とラファエル医師が使用人をすべて辞めさせ、離れからお屋敷に戻ってきたとき、あわてふためきながら二階から下りてくるエマの姿が見えました。そして、そのまま母の部屋に向かい、茫然とした状態で戻ってくると、彼女は言ったのです。

 私が──殺した──、と。

 そうなのです。エマは自分が兄と母親を殺したと思い込んでいたのです。

 しかし、状況的にそれは考えられません。もしもラファエル医師が言ったとおり、身代わりを用意していたとしたら、エマが目を覚ましたとき、兄の死体の近くには兄と刺し違えたと見せかけるための犠牲者の死体が置いてあったはずなのです。もしそれをエマが見ていたのなら、いかに錯乱していようとも、自分が殺した、などとは思わないのではないでしょうか。

 だとすれば、結論は単純です。兄の死体の近くには、犠牲者の死体などなかったのです。

 なぜラファエル医師がそのような嘘をついたのか、私にはわかりません。

 ただ──うすうす感じてはいました。ラファエル医師には、何か大きな目的があり、私はそれに利用されているのかもしれないと──。

 しかし、それを考えても仕方がありません。ラファエル医師にどんな思惑があろうと、私は新しい顔を手に入れ、小説家となり、さらなる目的のために、充実した毎日を送っているのです。兄と母が死んでしまった今、あのお屋敷がどうなろうと、知ったことではないのです。ラファエル医師は、お金さえ払えば、すぐにでも現れ、きちんと仕事をしてくれます。

 やはり私は、余計なことを考えず、目的を遂げた自分の姿を頭に描きながら、小説を書き続けるしかないのです。

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