第2話

朧げにですがあの頃の記憶がよみがえります。日々、恐怖に怯えていたお屋敷での暮らし。ですが、今、思うと、当時の私は幸せだったのかもしれません。なぜなら父と母以外で唯一、私を必要としてくれた人が、ひとときでもそこにいたのですから──。

 私は大きな門の前に立っていました。

 車で置き去りにされたのです。理由はわかりません。

 かつての私には父と母がいました。父はあまり家にいませんでしたが、とても優しい人でした。それが、ある日突然、姿を消したのです。

 最後の日のことはよく覚えています。

 私と父は手を繋いで一緒に、家の外に出ました。黒くて立派な車が家の前に止まっています。父の車です。運転手が下りてきて、父に頭を下げました。父の専属の運転手で、若く、背の高い男の人でした。

運転手は後部座席のドアを開けました。父はしゃがみ、私を見ました。悲しそうな顔でした。私の頭を撫でて、さよなら、元気でいるんだよ、そう言いました。私はどうしてよいかわからず、背後に立っていた母を見ました。母も悲しそうな顔をしていました。父は立ち上がり、車に乗り、そのままいなくなりました。以後、二度と父は私の前に姿を現しませんでした。

 直後、母が亡くなりました。家の近くに、下水の川が流れていました。雨の日に足を滑らせて川に落ち、浅い川だったのですが、打ちどころが悪く死んでしまったのです。

 父と母がいなくなったあと、私は誰かに引き取られ、その人の家でしばらく暮らしていたような気がします。ような、というのは、その後、また別の人に引き取られ、そこの家でも、長くいることはなく、色々な人の家をたらい回しにされた結果、私はどんな人たちに預けられ、どんな家に住んでいたのかもまるで思い出せなくなってしまったからなのです。頭に浮かぶそれらの顔は、皆、のっぺらぼうでした。そして名も知らぬ、のっぺらぼうの一人に、私はここまで連れてこられて、置き去りにされたのでした。

 目の前にあるのは巨大な、鉄で出来た両扉の門です。扉の両脇には見上げる高さの塀があり、それがどこまでも続いています。地面は舗装されていないデコボコ道でした。背後には奥深い林が広がっており、目の前の門と塀以外、建造物の類はいっさい見当たりません。そのとき、地響きにも似た音がして、ふいに目の前の門が開きました。私は驚き後ずさりました。門が開くと、そこには身なりを整えた、スーツ姿の、細身の男の人が立っていました。顎髭を生やし、無表情で、青白い顔をしています。

「あなたを先頭にして私の後についてきてください」

 私を見るなり、男の人は、唐突にこちらを指さして言いました。

先頭──疑問に思うと同時に、背後に気配を感じました。振り返ると、いつのまにか横一列に人が立っていたのです。さきほどまで誰もいなかったはずなのに──。

 そこには五人の男女が立っていました。中年の男女が二組と、私と同じ年くらいの女の子が一人。皆、一様に下を向き、虚ろな目をしていました。

「はやくついてきてください」

 わけがわからず、おろおろする私に、男の人は強い口調で言いました。私は恐怖から、反射的に向きなおり、男の人のもとに走り寄りました。すると男の人は背中を向けて歩き出しました。あわてて、その背中を追いかけます。私の背後には五人の男女が、今度は縦一列に並び、ついてくるのです。

 背後で大きな音がしました。見ると、開いていた門が閉じる音でした。

 歩き出して驚きました。門の中には、大きな森が広がっていたのです。たくさんの木々が重なり合い、それは太陽の光を遮るほどでした。鳥のさえずりが聞こえ、草花が咲きほこっています。男の人は躊躇なく森の奥へと進んでいきました。小道があるのです。その道がどこへ続いているのかはわかりません。私にはただ黙って歩き続けることしかできませんでした。

 するとふいに、木々の間を縫って動く、影のようなものが見えました。数メートル先の枝葉も、がさがさと揺れていました。私は驚き、足を止めたのですが、後ろに続く人たちも同時に足を止め、動揺を隠せない様子でした。

「止まらず歩いてください」

 先頭を歩く男の人は、振り返りもせず言いました。

 この人には、不自然に揺れ動く枝葉の音が耳に入らないのだろうか──そう思いながらも、再び歩き出そうとしたその瞬間、木々の間から恐ろしいモノが姿を見せたのです。

 それは両目から血を流した裸の男の人でした。

 泣き声と呻き声を混ぜたような悲痛な声をあげていました。目が見えないのでしょう。両手を前に出し、手に当たるものを確認しながら、恐々とした様子で、歩を進めていました。

 私は、あまりのことに呆然とし、歩き出すことなど忘れて立ち尽してしまいました。

 目から血を流した男の人はふらふらとした足取りで、小道に出てこようとしています。

「だ、だれかいるんですか……? や、屋敷は、お屋敷はどっちに……?」

 声と足音で、私たちの存在に気づいたのでしょう。裸の男の人は、喉の奥からひり出すようにして、声を発していました。

 そして、なんということでしょうか。

 よく見ると、裸の男の人の目はありませんでした。眼球がすっぽりとくり抜かれたように。その眼窩は真っ黒な空洞だったのです。そこから流れ出る赤黒い血は、まるで涙のようでした。

 目のない男の人は、そのまま両手を前に大きく伸ばし、前習いをした状態でよたよたとこちらへ向かってきました。

「気にせず歩いてください」

 スーツの男の人は何事もないように言い放ちました。

「そ、その声はお屋敷の……お願いします……お屋敷の場所を教えてください」

 目のない男の人はスーツの男の人のことを知っているようでした。いきなり地面に膝をつくと、そのまま四つん這いになって土下座したのです。

「お、お願いします! 死にたくないんです。どうかお屋敷の方向だけでも……」

 そう言って、地面に頭を擦りつけました。

 スーツの男の人はそこでようやく振り返り、目のない男の人が土下座している場所へと歩み寄りました。何か声をかけるのだろう、と私は思いました。それがいかに冷酷な言葉であろうとも。

 ところが驚いたことに、スーツの男の人はそのまま無言で何の躊躇もなく裸の男の人の頭を思い切り踏みつけたのです。

 顔が地面にめり込み、呻き声が聞こえました。男の人は、顔を押さえて悲鳴をあげながら地面を転げまわっていました。スーツの男の人は、表情一つ変えません。さらに、男の人の腹を思いきり蹴り上げました。相手が悶絶し嘔吐しても、スーツの男の人が暴力を緩めることはありませんでした。顔や喉や腹を何度も蹴りつけ、踏みつけることを執拗に繰り返したのです。しだいに男の人は動きが弱々しくなってゆき、ビクンと痙攣したのを最後に動かなくなりました。

 私はあまりのことに震え上がり、声をあげて泣き出したい衝動にかられましたが、なんとか我慢しました。後ろに並ぶ人たちも皆、呆然とした様子で立ち尽していました。

 スーツの男の人は、何事もなかったかのように向きを変え、また歩き出しました。

 それからも同じように、揺れ動く木々の隙間から目のない裸の人たちのさまよう姿をいくつも見かけましたが、私を含め、もう誰も足を止めようとはしませんでした。

 生きた心地がしないまま、しばらく歩き続けると、前方に大きな建物が見えてきました。ようやく森を抜けたのです。

 それは、煉瓦造りで三階建ての、驚くほど大きなお屋敷でした。

 大きな出窓がいくつもありました。壁には無数のつたが絡み、歴史があることを物語っています。ここにきてようやく、私は理解しました。あの大きな門はこのお屋敷への入口で、今歩いてきた鬱蒼とした森は、信じられないことに、その敷地の中にあったのです。

 ふと、お屋敷の方から何やら香ばしい匂いが漂ってきました。脂のたくさんのった肉を焼いているような、食欲のそそる匂いでした。立ちのぼる煙を見て、誘われるようにそちらへ近づいていくと、そこにはとても奇妙な光景が広がっていました。

 芝が丁寧に刈られたその場所はお屋敷の広い庭でした。そこに四つ足のコンロのようなものがいくつも並んでいたのです。そのコンロには網が載っていました。網には見るからに美味しそうな肉が所狭しと並べられ、各コンロの横にいる屈強な体をした荷物持ちのような男たちが、懸命に肉をひっくり返しては焼いていました。

 その中に、一人だけ椅子に座り、肉が焼かれる様子をじっと見ている少年がいました。少年は十代の半ばくらいに見えました。

 私たちの先頭を歩いていたスーツの男の人は、その少年の前まで進み出て、深々とお辞儀をしました。少年は髪が長く、整った顔立ちで、透き通るような白い肌をしていました。

 私たちはスーツの男の人の指示のもと、少年の前に横一列に並ばされました。少年は無表情のまま、気がなさそうに私たちを見回していたのですが、最後に私の姿を目にして態度を一変させました。あきらかに、少年の顔には驚愕の色が浮かんだのです。そして、その表情のまましばらく固まり、私を凝視しました。私はその視線に耐えきれず、目を逸らして、うつむきました。

 少年は私を見て、いったい何に驚いていたのでしょうか──。そのとき、眩暈がするほどの不安に駆られました。

「はなせ! ここから出せ!」

 ふいに叫び声が聞こえました。

 顔を上げてみると、列に並んでいた中年男性の一人でした。中年男性が筋肉隆々の荷物持ちによって地べたに押さえつけられていたのです。おそらく逃げようとして捕まったのでしょう。

「ここはいったいどこだ!? 俺たちをどうする気だ!? こんなことしてただじゃすまねえぞ!」

 中年男性は顔を地面に押しつけられたままです。土を噛むようにして叫んでいます。

「あなたがたはすでに僕の所有物です。正当な手続きを取り、僕があなたがたを買ったのです。ですから売買が成立した時点で、あなたがたの人権は消失しています。どうしようと僕の自由なのです」

 答えたのは少年でした。

 売られた──。

 少年の言葉は本当なのでしょうか───私ははじめてその事実を知りました。だとすると私は、たらい回しされた中の、のっぺらぼうの一人によって、この少年に売られてしまったことになります──。

「あなたはいったい何をしようとしているの……? さっきの森の中をさまよっていた、裸の人たちはなに……?」

 今度は恰幅の良い中年女性が少年に聞きました。

「所有物の質問になど答える必要はないのですが……まあ、いいでしょう。特別に、その質問にだけは答えてさしあげましょう」

 少年は立ち上がり言いました。少年の視線が見上げる高さに移動します。

「僕は極限状態における人間の行動というものにとても興味を持っていましてね。日常では経験し得ない窮地に陥った場合、いったい人間はどのような反応を示すのか──それを日々研究しているのです。彼らはその研究材料、言わば検体です」

「研究材料……検体……」

 中年女性は呆然とした様子で、少年の言葉を反芻しているようでした。

「人間の五感──視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。このどれか一つでも不全に陥ると、それを補おうとして、他の感覚が鋭敏になる。そんな話を聞いたことはありませんか? 例えば目の不自由な人は、それを補うために、聴覚がより発達するというケースがある。それを応用した実験ですよ。まず彼らの目を潰し、視覚を奪う。今回は、視覚を奪われた人間の嗅覚の反応を見たかったのです」

 少年は列を成す人間たちの反応を楽しむかのように話しました。

「嗅覚の反応……」

 中年女性はコンロから立ちのぼる煙を見上げながら呟くように言いました。

「そうです。嗅覚の反応です。両目を潰した検体には、決められた時間内に屋敷に戻るよう伝えてあります。そして敷地内の森の中に放し、制限時間内にここまで戻れない場合は、殺す、と。それが、この肉を焼いている理由です。生き残るためには嗅覚を鋭敏にするしかありません。この香ばしい匂いを嗅ぎ取れなければ、屋敷にたどり着くことはできない。それはすなわち、死を意味するのです」

 皆、一様に押し黙ってしまいました。唐突に突きつけられた、この恐ろしい現実を誰もが信じられない様子でした。

「今のところ、まだ誰一人として戻らない……時間がかかるようだな……部屋に戻る。後で状況を聞かせてくれ」

 少年は私たちに話すのを唐突にやめ、かたわらに立っていたスーツ姿の男の人に言いました。おそらく、このお屋敷の使用人なのでしょう。スーツ姿の男の人がうやうやしく少年に頭を下げました。少年は去り際に使用人の耳元に口を近づけると、その使用人が無表情のまま大きく頷くのを見もせず、お屋敷の中へと消えていきました。

 私たちはいったいどうなってしまうのでしょうか──。

 裸に剥かれて、両目から血を流しながら、森をさまよう人々の姿が頭に浮かびました。恐怖で膝が笑い、歯の根がガチガチとぶつかり合うのがわかります。

 死にたくない──。心からそう思いました。父と母がいなくなってから、いつ死んでもいい、と思っていました。しかし、いざ、現実に死を突きつけられたとき、私は心の底から「死にたくない」とそう思ったのです。

 そのとき、使用人が私の方へ近づいてきました。私は恐ろしくなり、逃げ出そうとしましたが、その場から動くことができませんでした。屈強な体躯をした荷物持ちの一人に、取り押さえられたのです。

「放せ」

 使用人は荷物持ちを睨みつけ、強い口調で言いました。

 途端、ぱっ、と手が離され体が自由になりました。

「ミカル様が、あなたをお屋敷にお通しせよ、とのことです。どうぞ、私の後についてきてください」

 私は返事もできぬまま立ちすくんでいました。一人だけお屋敷に呼ばれる。それがどういう意味なのかわからず、頭が真っ白になってしまったのです。

 使用人はすでにお屋敷の入口へと向かっていました。反射的にその背中を追いかけたのですが、ふと不安な思いにとらわれ、私がお屋敷を見上げたときでした。

 思わず、ひっ、と声をもらしてしまいました。三階の窓から得体の知れない黒い影がこちらを見下ろし、ゆらゆらと揺れ動いているように見えたのです。使用人の背中を追いかけながらだったので、それはほんの一瞬のことでしたが。

 使用人はお屋敷への入り口となる、両開きの豪華な扉を開けました。入ってすぐのその場所は大きなホールでした。天井は仰ぎ見るほどに高く、豪華なシャンデリアが吊るされ、きらきらと光を放っていました。ホールの床は柔らかな赤い絨毯で埋め尽くされており、その中央から螺旋階段が美しい弧を描きながら、二階に向かって伸びていました。

 使用人が螺旋階段を上っていったので、私もそれに続きました。

 二階も、床には絨毯が敷き詰められており、広い廊下がどこまでも続いているかのようでした。使用人は二階の廊下をどんどん進んでいきました。

 等間隔でドアが並ぶ廊下を何度か折れ曲がった末の突き当たり、ひときわ大きな扉の前で、使用人はようやく足を止めました。

「連れて参りました」

 使用人がドアに向かって言いました。

「入れ」

 すぐにドアの向こう側から声が聞こえました。先ほどの少年の声でした。

「失礼いたします」

 そう言うと、使用人は素早くドアを開け、私を部屋の中に導き入れました。

 とても広い部屋でした。大きな木製の机。部屋の壁一面を占拠する本棚。ふかふかで柔らかそうな大きなベッド。中央にはソファがあり、少年はそこに足を組んで座っていました。

「ご苦労だった」

 少年は使用人に言いました。使用人は深々とおじぎをして、部屋を出ていってしまいました。私は一人残されたのです。正面には、あの少年が座っていました。人間を検体と呼び、実験材料としか見ていない、とても残酷な少年です。やはり私が、あの一団の中の、最初の生贄に選ばれてしまったのでしょうか──。

 恐ろしくて体が震えだしました。足がまるで自分のものではないように力が入らず、柔らかな絨毯の上に、膝から崩れ落ちてしまいました。

「お、お願いします……こ、ころさないで……ころさないでください……」

 私は絨毯に頭を擦りつけ、泣きながら少年に訴えました。

「殺しなどしないよ……ほら、ソファに座って」

 少年は先ほどとは打って変わって優しげな声で言いました。ゆっくりと顔を上げる私を、少年はじっと見つめていました。私は立ち上がり、おそるおそる歩を進め、少年の正面にあるソファに座りました。ソファはものすごい柔らかさで、体全体がずぶずぶと埋まってゆくような感覚でした。少年は身じろぎもせずに私を真正面から見つめています。そのときの表情に冷徹な印象はありませんでした。

「僕はミカルだ。君の名は?」

 ミカルは微笑みながら言いました。すごく優しい笑顔でした。やはり先ほどとはまるで別人です。

「エ、エマです」

 緊張からか自分の声がくぐもっているのがわかりました。

「エマのことを知りたいんだ。自分のこと、両親のこと、友達のこと、住んでいた家のこと。何でもいいから聞かせてほしい」

 ミカルは私に優しく語りかけるように言いました。質問の意図がわかりませんでした。ですが気がつくと、私は自分の身の上について必死に話していたのです。

 父が突然いなくなり、母が死んでしまったこと。二人がいなくなる前は幸せだったこと。それから今に至るまで色々な家をたらい回しにされたこと。友達は一人もいないこと。

 ミカルは、私の要領の得ない話を真剣に聞いてくれました。途中、言葉が出ずに止まってしまっても、決して急かすことなく、私が言葉を見つけるまで待ってくれたのです。私は両親以外の人間と、生まれてはじめて話ができたような気がしました。

 ミカルは私の言葉に大きく頷き、笑顔を向けてくれました。いつのまにか私は緊張が和らぎ、胸のうちにあった苦しい思いをすべて吐き出せたような、そんなすっきりとした気分になっていました。

「ありがとう、エマ。君のことはよくわかった。やはり君は僕にとって特別な存在だ。だけど、ここに来たからには僕の言うことを聞いてもらわなければならない。それは君とて例外じゃない。僕の願いは必ず聞き入れてもらう」

 それを聞いて絶望的な気持ちになりました。ミカルの優しい微笑みに、自分は特別なのかもしれない、と希望を見出した私が馬鹿だったのです。もしかしたらミカルは私だけじゃなく、順番に、連れて来られた一人一人をここへ呼び、「君だけは特別だよ」と懐柔しているのでは、と思いました。下手な抵抗をさせないための、ミカルの策略です。

 わたしは言葉を発することもできず、ただただ震えていました。

「エマ。違う。違うんだ。君を殺したりなんか絶対にしない。僕を信じてほしい。僕を信用して、僕の願いをすべて叶えるんだ。できるよね……?」

 ミカルは不安な面持ちでおそるおそる、というふうに言いました。

 私はわけがわからず、ただただ頷くことしかできませんでした。

「僕の願いはこうだ。君は、ずっと僕のそばにいること。そして身の回りの世話をしてほしい。それが僕の願いだ。僕から片時も離れてはだめだ。いいね」

「な、なぜ、わたしだけ……だ、だって他の人たちは……」

 ふいに出てしまった私の言葉に、ミカルは大きく首を振りました。

「他の人には申し訳ないが、彼らは代えがきく。だけど君は違う。君こそ僕が求めていた女性なんだ。僕の願いを叶えてくれるよね……?」

 哀願するような表情でした。私は半ば死を覚悟していたのです。そのことを考えれば、これほどたやすい願いを受け入れないわけなどありません。

「ありがとう。じゃあ、さっそく僕と一緒に、お母様に会いに行こう」

「お母様……?」

「そうだよ。お母様にエマを見てもらう」

 ミカルはそう言うと勢いよくソファから立ち上がり部屋のドアを開けました。

「エマ、付いてきて」

 私は言われるままに、ミカルの後についていきました。

 ミカルは一階へ下りました。一階の広い廊下にも、二階と同じように等間隔で数えきれないほどのドアが並び、壁面には高そうな絵画がいくつも掛けられていました。

 突き当りに一際大きな両扉があり、ミカルはその扉の前で足を止めました。

「実はお母様は数年前から重い病気にかかっているんだ。ほとんどをベッドの上で過ごしている。そして起きているときでも、意識が混濁していることがたびたびあって……だからお母様が話すことにうまく合わせてほしい」

 ミカルの急な話にひどく不安を感じてしまった私は、すぐに答えることができませんでした。

「大丈夫。何も難しいことじゃない。お母様の言ったことを否定せずに、頷いていれば問題ない。僕も助け舟を出すから」

 ミカルの笑顔に不安が拭われたような気がして、どうにか頷くことができました。

「お母様、ミカルです。入りますよ」

 ミカルはドア越しに声をかけ、数秒、返事を待っていたようですが、返ってくる声はありませんでした。

「お母様、開けますよ」

 今一度言うと、ミカルは返事を待たずにドアを開けました。

 大きなお部屋でした。しかし、その部屋には驚くほど何もありませんでした。中央に大きなベッドが一つだけ。そのかたわらにはたたんだ車椅子。ベッドの上には、年配の女性が、上半身だけを起こした状態で座っていました。

 ミカルの母親ということですから、それほど高齢だとも思えないのですが、肩まで伸びた長い髪は真っ白で、眼は落ちくぼみ、顔には無数の皺が刻まれていました。体は細く、まるで鶏ガラのように、白い肌着の隙間から、骨が浮き上がっているのが見えました。

 ミカルの母親はぼんやり私の方を見ているようでした。力なく茫洋とした目で、顔をゆらゆらと揺らしていました。

「エレナ……」

 ミカルの母親がふいに言葉を発しました。かすれた、か細い声でした。同時に右目から、涙が伝ったのです。

「エレナなのかい?」

 今度は声に力が宿りました。ミカルの母親は興奮してベッドから降りようとしました。ミカルはすぐに走り寄り、落ち着くように声をかけました。

「エ、エレナ……こっちへ来ておくれ。顔を見せておくれ」

 顔をくしゃくしゃにして、ミカルの母親は私に向かって言ったのです。

 ミカルが私に向かって、素早く手招きをしました。急いでミカルの母親の近くへ走り寄りると、私はミカルの母親に頭を掴まれ抱きしめられました。

「エレナ……ごめんね……本当にごめんね……わたしがダメなばっかりに、辛い思いさせて……」

 私はミカルの母親に身を委ねました。その薄い胸に、顔を埋めたのです。ミカルの母親の体からはすえた臭いがしました。

 彼女は泣きながらずっと、私を抱きしめ続けました。口がふさがれているために、呼吸ができず、苦しくなってきました。それでもなんとか耐えて、もう限界だと思ったときに、ようやくミカルが助けてくれました。

「お母様、エレナが苦しがっているよ。今日は、それぐらいにしてあげなよ」

 エレナというのが誰かはわかりませんが、私は驚きました。そう言ったミカルの目にも、涙が浮かんでいたのです。

「ああ……わたしったらごめんなさいね……つい嬉しくて……」

「そんなに焦らなくてもエレナはもうずっとそばにいるんだから……だからお母様はしっかり体を治さないと……」

「そうね。わかったわ」

 ミカルの母は、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして、嬉しそうに頷きました。ようやく私は解放されました。

 部屋を出ると私はミカルに勇気を振り絞って訊きました。

「あ、あのエレナさんて……?」

 すると、少しの沈黙の後にミカルは話しだしました。

「妹だよ……。だけど……数年前に病気で、亡くなってしまってね。お母様はそれを自分のせいだと思い込んだ。それ以来、心を病んで、現実をきちんと認識できなくなってしまった。お母様の中ではエレナは死んでいない。いつの日か帰ってくると信じているんだ。だからお母様は君を見て、エレナがとうとう帰ってきたと思った……」

「そうですか……私は、エレナさんに似ているのですか?」

「ああ……似ている。まるで生き写しだ……君が選ばれた人間だというのは、そういう意味だ。これからもお母様の前では、エレナとして振る舞ってもらう。できるね……?」

 やはり私は頷くしかありませんでした。ですが特別扱いされている理由がようやくわかりました。

 その日から、私は常にミカルと行動をともにしました。ミカルの部屋に運ばれてくる豪華な食事をとり、ミカルと同じベッドで寝ました。シャワーも一緒に浴びました。そして、そのことがここに連れてこられた人間の中で、どれほどの特別扱いなのかを、すぐに知ることとなったのです。

 連れてこられてから数日たったある日、私はミカルと一緒にお屋敷の前庭に出ました。

 照りつけるような陽射しでした。

「エマの白い綺麗な肌を焼かせるわけにはいかないな……」

 ミカルはそう言って、日傘を用意してくれました。私のかたわらにはスーツ姿の使用人がいて、日傘をさしてくれたのです。

 それから、私は前庭を見て驚きました。数日前、肉を焼くために設置されていたいくつものコンロはすべて片付けられ、代わりに信じられないものがそこにあったのです。

 それはガラス張りの、見上げるほどに大きな、正方形の箱でした。たった数日で、いったいどのようにしてこんなものを用意したのでしょうか──。

「これは……?」

 私は唖然としながらミカルに訊きました。

「僕の父親は最低の人間だけど、お金だけはいくらでも用意してくれるんだ。エマ……今から面白いものが見られるよ」

 そう話すミカルの表情は、私に向けられる優しいそれではありませんでした。目を大きく見開き、なぜか呼吸も荒く、どこか興奮しているようにも見えました。

「用意はできたか?」

 ミカルは庭に立っていた荷物持ちの一人に聞きました。

「はい。整っております」

 荷物持ちは即座に答えました。

「では、始めろ」

 ミカルの声で、屋敷の陰から、何かがこちらに向かってくるのが見えました。徐々に近づいてくるそれは──肌色の塊──裸に剥かれ、一列に並んで歩く人の群れだったのです。彼らの顔には見覚えがありました。数日前、私と一緒にお屋敷へ連れてこられた人々でした。皆、手錠をはめられ、四人の荷物持ちに監視されながら歩かされているのです。裸の一団は透明な箱の前にたどり着きました。

 すると、ガタッ、という音が箱から聞こえました。ガラス張りの壁面の一部が透明なドアになっていたのです。よく見ると、そこだけ色の違うドアノブのようなものがありました。

 透明なドアが荷物持ちによって開け放たれました。

 同時に、皆が私に気づいたようでした。ミカルのかたわらに立ち、日傘をさしてもらっている私の姿に、一様に驚きの表情を浮かべています。ですが、それもほんのつかの間で、すぐに屈強な荷物持ち達の手によって、開いたドアから順番に箱の中へと投げ込まれてしまいました。

 皆、もんどり打って倒れました。全員を放り込むと、すぐに荷物持ちはドアに鍵をかけたようでした。

「あのドアは特殊なドアなんだ。像が体当たりしてもびくともしない」

 ミカルは冷ややかに言いました。

 箱の中では、二人の男の人が立ち上がり、必死の形相で透明なドアに向かって体当たりしていましたが、ミカルの言ったとおり、ビクともしません。年配の女の人、二人と、一人の女の子は、地面に突っ伏し、泣いているようでした。

「い、いったい何をするの……?」

 不穏な空気を感じた私はミカルに聞きました。

「実験だよ。透明な特殊ガラスの閉ざされた箱の中に、裸に剥かれた五人の男女。直射日光ですぐに箱の中は蒸し風呂状態になる。脱水症状で意識は朦朧としてくるだろう。その環境下で、ほんの少しだけ水を与える。ごく少量だ。他人と分け合える量じゃない。一人分だ。そのとき、彼らがいったいどのような行動をとるか、それが知りたいんだ」

 ミカルは饒舌でした。箱の中を見ると、皆、地面にうずくまっていました。男の人たちもガラスに体当たりするのを諦めたようでした。中は密閉されています。酸素の量も限られていたのでしょう。騒げばそれだけ早く箱の中の酸素を消費します。余計なことをせず体力の温存に努めたほうが賢明だと気づいたのかもしれません。

 一時間が経過しました。ミカルと私には椅子が与えられ、私たちは並んで箱の中の様子を見ていました。その間、ミカルは一言も言葉を発しませんでした。

 そのときの太陽は一日の中で一番高い所にあるように思えました。容赦なく、透明な箱に陽光を浴びせます。箱の中の人々は皆、全身汗に塗れていました。表情は虚ろでした。しかし、私たちと彼らを隔てている正面のガラスの壁にときおり体全体を貼りつかせては、大声で侮蔑の言葉を叫ぶのでした。そのときの彼らの表情は、狂おしいほどの憎悪と絶望、そして、この現実を受け入れられず、自分だけはなんとかしてもらえるのではないだろうか、というわずかな希望、それらが入り混じった異様なものでした。

 と、ふいに一人の女性が暴れだしました。髪を振り乱し、全身の汗を飛び散らせながら、ガラスの壁を叩き、大声で喚いたのです。後ろから男の人が女性を羽交い絞めにしました。

 悲劇はそれからでした。女性がそこから逃れようと手足を滅茶苦茶に振り回したとき、その肘が男の人の顔に勢いよくぶつかりました。痛そうに顔を押えた彼の手の隙間から鮮血が滴り落ちるのが見えました。

 男の人の目つきが変わりました。

 彼は暴れまわる女性を押し倒すと、両手でその首を絞めはじめました。我を忘れて全力で首を絞めているようでした。意識が朦朧としているのか、他の三人にその凶行を止めようとする気配はありませんでした。首を絞められている女性は腕を伸ばし、足をバタつかせて懸命にもがいていました。それでも男の人は、鼻血をポタポタ垂らしながら、鬼の形相で女の人の首を絞め続けたのです。

 女の人の伸ばす手に、しだいに力がなくなってゆくのがわかりました。直後、女性はビクンと体を痙攣させたきり動かなくなりました。

 首を絞めていた男性は立ち上がり女性から離れました。動かない女性を見て、しばらく呆然としていました。そのとき、大きく広げられた女性の太ももの付け根あたりから広がるものが見えました。黄色い液体です。女性は絞殺されたことで失禁したのです。女性が漏らした尿は放射状に広がりをみせ、小さな水たまりをつくりました。

 わたしは直後、世にも恐ろしい光景を見ることになるのでした。

 その女性の尿で出来た水たまりに、他の四人がふらふらと近寄っていきました。今まさに女性を絞め殺した男性もうずくまり、その水たまりに顔を近づけていました。そして、なんと四人は争うようにして顔を水たまりにうずめ、女性の漏らした尿を啜りはじめたのです。

 硬い地面が一瞬、ぐにゃりと柔らかくなったような感覚に襲われました。その異常な光景から顔を背けようとしたとき、ミカルの表情が目に入りました。

 ミカルは悲愴な顔をしていました。さらによく見ると、その手は固く握られ、小刻みに震えていたのです。私はわけがわからなくなりました。

 ミカルはふいに立ち上がりました。

「あとはまかせる。結果の報告だけ頼む」

 ミカルは使用人に言いました。使用人は相変わらずの慇懃いんぎんな礼を返しました。ミカルがお屋敷の入口へ向かって歩きはじめたので、私も立ち上がり追いかけました。

 二階のミカルの部屋に戻ったとき、さらに予想外の事態が私を待っていました。ドアを閉めた途端、ミカルが床にうずくまって、突然、嘔吐したのです。白い綺麗な絨毯がミカルの吐瀉物で汚れました。

「だ、大丈夫ですか?」

 私は驚き、ミカルの顔を覗き込みました。目は血走り、顔色は蒼白でした。

「だ、大丈夫だ。きゅ、急に気分が悪くなってね……申し訳ないけど誰か呼んできてくれないか……」

 ミカルは呻くように言いました。私はすぐに部屋を出て大声をあげました。

 すぐにどこからかスーツ姿の使用人が現れました。事情を話すと、使用人は別の使用人を連れてきました。中年で恰幅の良い女の人でした。女性の使用人は先に部屋に入り、私とスーツ姿の使用人に、少しドアの外で待っているよう言いました。ほどなくして女性の使用人が部屋から出てきました。どうやらミカルを着替えさせ、ベッドに休ませ、床の汚れも綺麗に拭きとってくれたようでした。

 私が戻るとミカルはベッドで寝ていました。私はそのかたわらに椅子を置き、ミカルの顔を見ていました。自分のもとを離れるな、というミカルの言葉に従ったのです。

 整ったその顔は苦しそうに歪んでいました。恐ろしい夢でも見ていたのかもしれません。

 私はミカルと数日前に会ったばかりですが、彼がどのような人間かを計りかねていました。どうにも彼が自分の意志で残虐非道な行いをしているとは思えなかったのです。

 前庭で一瞬、垣間見せた悲痛の表情。強く握りしめられた拳。よくよく考えてみれば、初めて会った日も、ミカルは残虐行為のすべてを確認することなく、使用人に「後で状況を聞かせてくれ」と言い残し、中座しているのです。もともと残酷な性癖の持ち主ならば、実験の結果は自分の目で確認したいのではないでしょうか。

 私に優しく語りかけるミカル──もしかしたら、それこそが本当の彼の姿ではないか、と思えたのです。

 しかしどんな理由であれ、あのような恐るべき実験を首謀する人間なのは紛れもない事実です。まともではありません。生き残るためには、ミカルの言葉どおりに動き、ぜったいに油断してはならない。そう自分を今一度、私は戒めたのでした。

 次の日、ミカルはいつもどおり目を覚ましたようでした。昨夜の体調不良も尾を引いてはいないようで、何事も無かったかのように、優しいミカルがそこにいました。

 二人で朝食をとった後、スーツ姿の使用人が昨日の実験の報告に現れました。

「先日の実験結果をご報告致します。五人中、生き残っているのは男性一人のみです。他の四人は死亡致しました」

 昨日の記憶がよみがえります。暴れまわる女性。それを止める男性。そこで起こった悲劇。その悲劇をきっかけに起きてしまった、人間としての尊厳が崩壊するような狂態──。

「夜になってから、一人分の水を箱の中に入れました。それが殺し合いの引き金となったようです。女が一人殺されていますから、残るのは男性二人、女性一人、少女が一人の合計四名です。水の奪い合いになり、力の強い男性二人が一時、協力関係を結び、女性と少女を殴り殺しました。その後、男たちは協力関係を解消し、二人で水を奪い合いました。殴り合いの末、男一人が生き残ったわけですが、その男も虫の息です。今日も暑くなるとのことなので、明日まではもたないかと思われます」

 使用人から放たれた言葉はどこまでも救いのないものでした。

「わかった……ご苦労……水を入れたのは夜間と言ったな?」

「はい。おっしゃるとおりです」

 使用人は質問を予期していたかのように、淀みなく答えます。

「きちんとライトで照らし出していただろうな」

 ミカルは問いただすように言いました。

「はい。陽が落ちてから昇るまで、間断なく三方向から照らし出しておりました」

「わかった……実験は終了しろ。残った男はすみやかに処分すること」

 ミカルは無感情に言いました。

 私は使用人の話を聞いている間じゅう、震えが止まりませんでした。

 信じられるでしょうか──。つい何日か前に、私の後ろを歩いていた人たちのほとんどが死んでしまったのです。もうこの世にはいないのです。

 私も、のんびりしている余裕などないかもしれません。今、気に入られているからなどと、悠長に構えていては駄目なのです。もっと積極的にミカルに取り入らなければ、命を失うかもしれないのですから。そう改めて自分を戒めたのでした。

 昼食後、ミカルは私を部屋の外に連れ出しました。そして、二階の廊下を階段の方に歩き、途中の、ミカルの部屋から数えて五番目の部屋に入りました。

 そこは書庫でした。やはり大きな部屋で、外に面する壁には大きな窓がいくつも並んでいました。他の三方の壁面はすべて天井まである本棚です。その威容に圧倒された私は、並んでいる本の背表紙を見てさらに驚きました。そのほとんどが殺人にまつわる内容の本だったのです。古今東西の拷問、凶悪犯罪の歴史。異常犯罪者の自叙伝。さらには、どうのように撮影されたものなのか、変死体の写真集までありました。

「僕はいつもここで実験のヒントを探しているんだ。今日、しばらくはこの部屋にいる。退屈かもしれないけど、エマも一緒にてくれるかい? 資料だけじゃなく、小説なんかもあるから」

 私は頷きました。ミカルの言ったとおり一つの壁面の本棚には、殺人にまつわる小説──古今東西のミステリー小説や、ホラー小説が整然と並べられていました。

 ミカルはすでに本棚から何冊か取り出し、中央の閲覧用テーブルの上に、それらを積み重ねているところでした。私はそれまで本を読んだ経験はほとんどありませんでした。ですが、私だけが何もせず、ぼんやりしているわけにはいきません。題名を見て、小説の棚から面白そうなものを何冊か選びました。それらをテーブルに置いたところで、ミカルに促され、彼の向かいに座りました。一応、ページを捲り、文字を追ったのですが、読めない文字も多くあったせいもあり、文章が頭に入らず、なかなか読書に集中できませんでした。

 疲れてしまった私がふと窓の外に目をやると、お屋敷の前庭が見えました。昨日、その場所にあったはずの件の箱はすでになくなっていました。ただ、前庭の奥の方──鬱蒼と生い茂る木々の間に、人の姿が見えました。先頭にはスーツを着た使用人。その後ろについて歩く、不安な面持ちの男女数名。こちらへ近づいてくるにつれ、等間隔に並ぶ人の顔がはっきりと見えてきました。やはり誰もが恐怖におののいている様子でした。

 彼らはそのまま前庭を横切り、お屋敷の裏へと消えていきました。そういえば昨日、透明な箱に入れられた人たちはお屋敷の裏から出てきたはずです。彼らはいったいどこから連れてこられたのでしょうか──。

「気になるかい?」

 背後からミカルの声がしました。私があわてて振り返ると、ミカルはテーブルの上の資料に目を落としたままでした。

「い、いえ……」

 ふいの問いかけに、私は焦りながら答えました。

「検体はなくなると外から補充するよう手配してある。屋敷の裏に離れがあるんだ。以前、畜舎として使われていた場所だ。必要になるまではそこに収容しておく」

 ミカルは資料に目を落としたまま言いました。

 畜舎だった場所に──。牛や馬と同じように連れられてきた人々が頑丈な鎖で繋がれている光景が頭に浮かびました。その人たちの殺し方を今まさにミカルは考えているのです。

 私は恐ろしくなり、ミカルから逃げるように、今一度、窓の外へ目を向けました。

 また誰かが鬱蒼とした森を抜け、お屋敷に向かってくるのが見えました。今度はたった一人です。使用人ではなさそうでした。身長が高くスーツを着ていることから、男性だと思いました。マントを羽織り、山高帽を頭に載せた男の人が軽快に歩いてこっちにきます。左手には黒のアタッシュケース。山高帽のつばに隠れ、顔は見えませんでした。

 と、男の人は突然立ち止まり、片手で山高帽を取りました。顔が見えます。男の人は長髪でした。切れ長の目を眩しそうに細め、お屋敷を見上げていました。目が合った瞬間、男の人が笑ったように見えました。表情を大きく変えて笑うのではなく、口の端だけを少し歪ませ、薄く笑ったのです。

 息が止まりそうでした。その顔に私は見覚えがあったのです。どこだったか──思い出せません──ただ、私は間違いなく、彼とどこかで会っているのです。

「背の高い男の人がこっちを見ています……」

 私はひどく不安な気持ちになりミカルに伝えました。すると、ミカルは立ち上がり、私の隣に寄ってきました。窓外の男の姿を確認するためです。その表情がとても真剣だったので、私は少し驚きました。

 窓外の男の人がミカルに気づいたらしく右手を高く上げました。しかしミカルはそれに応えず、背を向けてしまいました。

「エマ、窓から離れろ」

 ミカルは冷たく言いました。あきらかに苛立っている様子でした。私はすぐに窓から離れました。

「医者のラファエルだ……」

 しばらくして、ミカルはぼそりと言いました。

「お医者様ですか……」

「ああ……父親が抱えていた医者だ。ずっと見なかったのに、ここ最近、頻繁に出入りしている。お母様の病状を診るためだ、と言っているが、どうだか……この屋敷に巣食う寄生虫みたいな奴だ」

 ミカルは吐き捨てるように言いました。

 その、まるで人が変わってしまったかのような態度に、私は言葉が出ませんでした。

「エマ、すまない。怖がらせてしまったね。あんなヤブ医者のことなんか気にするな。君のことは僕が絶対に守る……」

 そう言ってミカルは、ふいに私を抱きしめたのです。

 ミカルの吐息が──心臓の鼓動が──すぐ耳元で聞こえます。私はいつしかミカルの背中に手を回し、強く抱きしめ返していました。すると吐息はさらに近づき、私は唇を奪われたのです。

 どれほど時間が経ったのか──気がつくとミカルの顔が目の前にありました。

「ありがとう、ございます……わたしにできることがあったら、何でもします……」

 私の言葉にミカルは嬉しそうに頷きました。ミカルがなぜこれほどまでにラファエルという医者を毛嫌いするのかはわかりません。ただ、とにかくこの屋敷の絶対的な権力者であるミカルに取り入りその愛情と信用を得ることが、自分が殺されないための一番確実な方法だとこのとき私は思いました。

 それから、私の書庫にいるときの意識は変わりました。少しでもミカルの手助けができればと思い、棚に置いてある小説や文献を積極的に読みはじめたのです。すると、ことのほか──特に小説が面白く、時間を忘れてのめり込むことも数多くありました。その結果、ミカルが読んでいた文献にも興味を持てるようなったことは、必然だったのでしょうか。

 ミカルが、考案中の実験内容を私に教えてくれるようになりました。それは、何の罪もない人たちを残酷に殺す計画です。にもかかわらず、私はミカルの計画を聞くことに、知らず悦びを感じはじめていました。そして、お屋敷の前庭や敷地内の森を舞台に、定期的に行われる残酷な実験を見ても、何とも思わなくなったのです。それどころか、回を重ねるごとに嫌悪感は薄れ、代わりに心の奥底から体じゅうを熱く火照らせる快感にも似た感情が湧き上がり、それに支配されつつあったのでした。

 その暗い劣情は、最初は仄かなものでしたから抗うこともできました。自分自身、それは否定すべき感情だということをきちんと理解していたのです。しかし、それはあっというまに奔流となり、私はその言い知れぬ感情にのみこまれてしまったのです。気がつくと、私は人が悶え苦しんでいる姿を見て興奮していました。

 そうしてついに、私は自分から実験のアイデアを出すようになったのです。ミカルを同じ、人を残酷に殺す立場になることで自分の身が守られる、と考えていたことも事実です。でもそれは言い訳でしかありません。人を実験で殺し、それを見て快感を得ている、という私自身を否定したかっただけなのです。

 ミカルは私のアイデアをきちんと聞いてくれました。私は次々と実験のアイデアを出しました。ミカルが実験において重要視していたのは、極限状態における人間の行動です。人間の醜い部分を浮き彫りにするような実験をミカルは望んでいました。

 そこで、私はミカルに一つ提案しました。検体を集めるのに、まったくの赤の他人ではなく、お互いが強い信頼関係で結ばれていると信じてやまない集団を連れてこられないか、と言ったのです。ミカルは一瞬、眉をひそめましたが、すぐに手配してみよう、と答えてくれました。 繋がりのある人間たちを一度に複数拉致するのは難しいかとも思ったのですが、私の要望どおりの検体はすぐに集まりました。熱い友情で結ばれている、という若者の男女五人組。男が三人、女が二人でした。

 まずは全員を裸に剥いて、一つの大きな檻に閉じ込めました。檻が設置されたのはいつもの前庭です。その五人にミカルは言い渡しました。

「毎日、深夜十二時にこの中の一人を殺します。ただ、殺す人間はあなたがたに決めてもらいます。処刑を行う十分前、一人一人に、五人の中の誰を処刑すべきかを聞きます。多数決です。票が一番多かった人間を殺します。自分の名前を答えてもかまいません。ですが、一つだけルールがあります。水と食事は与えますが、票が同数で処刑に至らなかった場合、その翌日は水も食事も抜きです。そして、最後に残った一人が勝者となります。その一人だけに生きる権利を与えましょう」

 全裸の若者たちは困惑した表情でミカルと、すぐそばにいる仲間を交互に見ていました。

 その実験──いえ、処刑ゲームを考案したのは私です。考えるとおりにゲームが動けば面白いものが見られるはずでした。

 初日。若者たちには余裕がありました。我々に罵声を浴びせ、このような狂ったことをさせるおまえらに自分たちは絶対に屈しない、と声高に叫んでいました。お互いに声をかけ、自分たちの友情を確かめ合っているようでした。感極まった様子で、全員が涙を流していました。その日の夜の投票では、全員が自分の名前を言いました。同数です。よって誰も処刑されませんでした。若者たちはお互い抱き合って、泣き叫びながら友情を改めて再確認したようでした。

 二日目。うだるような暑さでした。若者たちに容赦なく太陽が照りつけます。先日の投票が同数だったため、水も食事も与えません。汗まみれの若者たちは、虚ろな目をしてかたまり、座り込んでいました。かなり衰弱している様子でした。夜になり、また投票の時間がやってきました。この日もそれぞれが自分に投票し、全員、処刑を免れました。

 三日目。暑さは続きました。皆、衰弱の度合いが著しく、よほど水が欲しいのか、喉を掻きむしり悶える姿も見られました。半狂乱で暴れだした一人を、他の仲間がなんとか落ち着かせる、という場面もありました。夜になり、また投票の時間がやってきました。四人目までは変わらず、自分の名前を言いました。しかし、最後の一人がなかなか答えようとしませんでした。唇がわなわなと震えていました。檻の中の空気が一瞬、張りつめたのがわかりました。仲間の四人は不安そうに、最後の一人となる男を見つめました。

 男はようやく言葉を発しました。

 自分の名前を言いませんでした。

 仲間の一人である、他の男の名前を言ったのです。投票された男は何が起こっているのか理解できない様子で、しばらくの間、呆然と佇んでいました。その隙に二人の荷物持ちが檻の扉を開けて、素早く檻の中に入り、投票された男を両側から挟み、外へ引きずり出しました。引きずり出された男は、必死の形相で暴れ狂いました。しかし、およそ三日も飲まず食わずということもあり力が入らないのでしょう。檻の外に出るとぐったりとした様子で、すぐに地面に倒され、押さえ込まれてしまいました。すぐに手錠と足枷をつけられると、男は太い縄で体全体をぐるぐる巻きにされました。男は必死に体をくねらせていました。まるで惨めな芋虫のようでした。もう一人の荷物持ちがどこからか鶴嘴つるはしを持ってきました。荷物持ちは億劫そうに鶴嘴を振り上げ、そのまま躊躇せず、芋虫男の頭に振り下ろしました。鶴嘴の先端が男の後頭部に突き刺さります。男は、ぐえっ、という呻き声を上げ、直後、ビクンビクンと痙攣をはじめました。荷物持ちが突き刺さった鶴嘴を引き抜くと、途端に大量の血が噴き出しました。檻の中にいる若者たちは、その光景を見て気が狂わんばかりに泣き叫んでいました。しばらくすると痙攣はやみ、芋虫男は完全に動かなくなりました。

 そのとき、私はちらりとお屋敷の二階に目をやりました。やはりそこには黒い影が見えました。その部屋は、私たちがいつも使っている書庫でした。実験があるたびに、お屋敷の窓にあの影が現れることには気づいていました。初めてお屋敷にやってきたときに影を見たのは三階の窓ですが、今回は二階に現れました。影はお屋敷の中を自由に移動しているようでした。ミカルもあの影の存在には気づいています。実験があるたびにチラチラとお屋敷の窓を見て、影の存在を確認していたからです。

 ミカルは立ち上がると、荷物持ちに芋虫男の死体を片付けるよう指示しました。また自分の部屋に戻るつもりなのです。これからが本番なのに、と思いましたが、私一人だけが残るわけにもいきません。後ろ髪を引かれる思いで、私はミカルと一緒にお屋敷の中へと戻りました。

 自分の部屋へ戻った途端、ミカルは部屋に隣接する化粧室へと駆け込み、嘔吐しました。苦しそうに胃液を吐き出していました。ミカルはこうなることが自分でもわかっているようで、実験の直前には食事を摂らないのです。便器に顔を近づけ小刻みに震えるミカルの背中を撫でながら、私は心配そうに声をかけるのですが、頭にあるのは別のことでした。

 やはり、これがミカルの真実の姿なのだ、と考えるようになっていました。実験台となる人間たちの前では、冷酷非道で残虐の限りを尽くす、悪魔のような姿を見せていますが、それは偽りの姿なのです。もしも人間の醜さを心底見たくて実験をしているのであれば、毎回、実験の冒頭だけ見て、あとは報告を聞いてすませるなどということをするはずがありません。

 これから面白くなるのに。もしもミカルの許しを得られれば、私は全速力で前庭に戻ったでしょう。

 だけどわからなかったのは、実験のないときは、一日中書庫にこもり、まるで何かに追い立てられるように、新しい実験のアイデアを考え続けていたことです。いったいあの情熱はどこからくるのでしょうか。ほとんど使用人からの報告で終わらせる実験なのに、数日にわたって必死に考えるのです。

 今回の実験も数日後、使用人から報告がありました。

 結局、一人が裏切ったことにより、友情は崩壊。自分に投票するというルールは崩れ、あの翌日、翌々日にも連続して処刑者が出たみたいでした。ただ残り二人になったとき、お互いが相手に投票したため、同数となり、その日は処刑が行われませんでした。残った二人は男女だったのですが、結局、男が女を殴り殺したのだそうです。そうして生き残った男ですが、投票によって生き残ったわけではないのでルール違反となり、処刑した、とのことでした。

 ミカルはその報告を、もはやどうでもよいことのように、あきらかにうわの空で聞いていました。実験を行うことそれ自体が目的なのかもしれない、と私は思いました。

 ですが、ミカルにその真意を確認することなどできませんでした。

 ミカルは、私には変わらず優しく接してくれました、他の誰にも見せない姿も、私だけには見せてくれました。ただそれは、私のことを信用しているというよりも、私が毒にも薬にもならない存在だから見せてくれるのだ、と感じられてなりませんでした。偶然見つけた今は亡き妹とそっくりの私を自らの大切な所有物として、可愛いペットのように扱っているように思えたのです。私が実験の提案をしてきたのは、ミカルに取り入るためです。それ以外はミカルの指示どおりにしてきました。自分の意思などありません。ですから、私はミカルにどれだけ優しい言葉をかけられても、それを信用する気にはなれなかったのです。

 実験のたびに現れる黒い影も日に日に不穏な空気を強めているように感じていました。

 そして結果的に、わたしの予感は当たっていたのです。

 そのときは唐突に訪れました。

 その日、一緒に寝ていたミカルが、真夜中に部屋を出ていったきり、なかなか戻ってきませんでした。トイレであれば部屋に備え付けられていますから、廊下に出る必要はないのです。私を起こさないように、こっそりとベッドから抜け出し、忍び足で歩き、ゆっくりドアを開け閉めするのがわかりました。

 わたしは常にミカルの動向に気をつかっていました。普段から眠りは浅く、小さな物音でも目が覚めてしまうほどでした。ですが私はミカルに余計な気をつかわせまいと寝ているフリをしていたのです。

 真夜中のお屋敷はひっそり静まり返っていました。その夜は実験が行われておらず、実験台となった人間の悲鳴も聞こえてきませんでした。新たな検体を収容している離れの畜舎は完全防音です。彼らの声が部屋まで届くこともありません。

 にもかかわらず、そのとき、どこからか、かすかにですが、人の声が聞こえたのです。

 私はベッドから出て、部屋のドアをほんの少し開けました。隙間から、薄ぼんやりとした灯りに照らし出された廊下が見えました。誰の姿もありません。私はあたりの様子をうかがいながら廊下に出ました。足音を立てぬようゆっくりと歩を進めました。心臓が早鐘のように打ち鳴らされているのがわかりました。見つかったら私は殺されるかもしれないのです。それでも私は見えない力に引っ張られるように、その仄かに聞こえる声に向かって進みました。それは話し声でした。近づくにつれてその声は大きくなっていきます。一人ではありませんでした。二人の人間が声を抑えて話をしていたのです。

 廊下はその先で右に折れていました。私は壁に隠れるようにして、折れた先の廊下に視線を向けました。

 そこで信じられないものを見たのです。

 奥に長く続く廊下を遮るようにして横を向いたミカルの姿がありました。しかしおかしなことに、そこにはミカル一人しかいませんでした。ミカルは誰もいない空間を前にして、まるで誰かがそこにいるかのように話かけていたのです。

 私は今一度、その空間を凝視しました。はっ、として咄嗟に両手で口を押えました。叫び声をあげそうになってしまったからです。照明が暗く、何もないと思っていたその空間にぼんやりと浮き上がるようにして、それは姿を見せました。

 あの黒い影でした。

 いえ──それは影ではなかったのです。異形の存在がそこにはありました──。

 丸い頭があり、首があり、腕があり、胴体があり、両足があります。それはまるで影絵の等身大の人形のように見えました。体全体が黒く塗りつぶされている、まさしく異形の存在です。

 ミカルはその黒い影人間に、声をひそめながらも身振り手振りを交えながら、何かを必死に話している様子でした。悲壮な面持ちでした。どこか、その影人間に問い詰められているような雰囲気すらありました。私は息をひそめ、耳をそばだてました。すると、かなり聞き取りづらくはありましたが、その会話が断片的に聞こえてきたのです。

『もう……待てない……時間……ない……準備……』

『待って……もう少し……まだ……』

『だめ……こんな……はやく……責任……準備……始末……』

『……わかった……準備……』

 恐るべき内容でした。端々しか聞こえない会話でも、意図を理解するには十分でした。

 影人間はミカルに「何者かを始末するための準備をしろ」と、要するに、殺せ、と言っているのです。

 そして、何者かとは誰か──それはおそらく私です──。

 やはりそうなのです。いくら私がミカルに取り入ろうと、結局、ここは殺人ゲームを容認する人間しかいない、狂気の館なのです。外から連れてこられた私に、安住の地などなかったのです。

 圧倒的な恐怖と絶望に晒され、手は震えだし、大声で叫びだしたい衝動にかられました。それを、私は必死に抑え込みます。ここで見つかるわけにはいかないのです。

 しかし、どうすればよいのか──ミカルは影人間の要求を受諾したのです──このままでは他の検体と同じように、私も殺されてしまいます。

 殺される──殺されてしまう──私は、あの正体不明の黒いモノに──ミカルに──殺されてしまう──殺される前に殺さなければ──でもどうやって──。

 実験のない日、使用人や荷物持ちたちは、日が暮れると離れにある使用人用の住まいに移動します。夜ならこのお屋敷に人の目はありません。夜中、部屋を抜け出し、どこからか凶器を見つけてきて、ミカルが寝ている隙に殺してしまえば──。

 考えをめぐらせているうちに、少しずつ冷静になっていく自分がいました。とにかく部屋に戻らなければなりません。ここでもたもたして見つかりでもしたら、いますぐに殺されてしまうかもしれないのですから。

 そのとき、ふと背後に人の気配を感じました。私が驚き振り返ろうとしたその瞬間、後頭部に強い衝撃が走りました。途端、目の前が真っ暗になり、意識が途絶えたのです。

                

 頭の痛みで目を覚ましました。

 そこは、ミカルの部屋、ベッドの上でした。カーテンの隙間から陽が射し込んでいました。 いつもどおり、ミカルがかたわらにいました。

 しかし、変わり果てた姿でした。

 ミカルは全身血塗れでした。顔も胸も腹も足も、刃物でメッタ刺しにされていました。苦しそうに顔を歪め、目を見開いたまま微動だにせず、純白のベッドシーツを赤黒い血で染めていました。

 私は悲鳴をあげて、そのまま助けを求めに部屋を飛び出しました。しかし、私がいくら叫び声をあげても、誰も姿を現しませんでした。もう陽が昇っています。使用人たちは早朝からお屋敷にいるはずなのです。

 あきらかな異変を感じました。廊下に並ぶドアを片っ端から開けましたが、どこにも人の姿はありません。

 私は階段を転げ落ちるようにして一階へ降りました。一階でも同じように泣き叫んで助けを求めましたが、やはり誰の姿もありませんでした。

 私は知らぬ間に、一階の廊下の一番奥、ミカルの母親の部屋の前に立っていました。

 ドンドン、とドアを叩きました。お母様、ミカルが、ミカルが、大変なことに、と大声をあげました。ですが、中からは何の反応もありませんでした。

 ひどく嫌な予感がしました。ドアを開けると、ミカルの母ははじめて会ったときと同じように、ベッドの上に座っていました。しかし、近づいてすぐにわかりました。その薄い胸はおびただしい血に塗れていたのです。皺に埋もれたその顔は、ひどく悲しげな表情を見せていました。頬に一筋、涙の痕もありました。

 お屋敷は死んだような静けさに包まれていました。今、このお屋敷の中で生きているのは私だけなのかもしれません──。いえ、違いました。あの影人間が生きているはずなのです──。

 昨夜の記憶がよみがえりました。私は廊下で背後から何者かに襲われ気絶したのです。その直前まで廊下で対峙するミカルと影人間の姿を見ていました。ですから私を襲ったのは、あの二人ではありません──。

 つまり、もう一人いるのです。

 ミカルとミカルの母親を殺した犯人は、おそらく影人間か、もしくは私を襲った何者か、だと考えられます。ですが、そうすると疑問がわいてくるのです。

 なぜ、私を殺さなかったのでしょうか──。

 お屋敷にいた使用人たちは一夜にしてどこへ消えてしまったのか──。

 本当にこれは現実の出来事なのでしょうか──。

 影人間など私は本当に見たのでしょうか──。

 何かの見間違いだったのかもしれません──。

 自分自身の記憶に自信が持てなくなりました。

 私はミカルのことを常に恐れていました。ある日突然、あの優しい笑顔が崩れ、能面の様な無慈悲な表情で、処刑ゲームに参加することを命令される。そんな現実がいつか訪れるかもしれないと、毎日、ビクビクと怯えて過ごしました。その圧倒的な恐怖が影人間などという幻影をつくり出したのかもしれません。

 だとしたら、ミカルと、ミカルの母親を殺した張本人は、私なのではないでしょうか──。

 私は夢遊病者なのかもしれません。そして無意識に、どこからか凶器を手に入れて、二人を殺したのです。

 よくよく見てみると、私の肌着は血で赤黒く染まっていました。腕から手のひらにかけても、血がべったりとついていました。私はどこからも出血していないので、きっと返り血でしょう。

 やはり私がミカルを殺したのかもしれません──。

 背後で、何かの動く気配がしました。

 背中にぞくりと怖気を感じます。

 耳元で声がしました。

 ──おまえが殺したんだ──。

 それは不気味にくぐもった声でした。

 すぐにわかりました。影人間です。影人間がすぐ背後にいるのです。恐ろしさで振り返ることなどできません。

 ──わたしが殺した──。

 私は知らず、影人間の声を反芻していました。

 途端、何かが体の中で途切れ、私の意識は、また闇に閉ざされたのでした。

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