エピローグ・鐘の音
遠くで鐘が鳴る。高く低く軽やかに鳴り響くその音色は、子供の頃から慣れ親しんだ夕方のチャイムそのもので。
懐かしい夕餉の香り、近くを通る車のエンジン音、挨拶をかわす近所の人の声、そしてわずかな湿り気を含んだ日本独特の柔らかい空気。
私はビクッと肩を揺らしてボードの上に置いた自分の手を見つめた。なんの変哲もない見慣れた自分の手だ。さっきまでぼやけていた輪郭がはっきりとしている。
「ねえちゃん? どうしたの?」
目の前にはキョトンとした弟の懐かしい顔。私によく似た大人しそうな垂れ目がまん丸になっている。
「
「いや、ねーちゃんのターンだけど。さっきからボーッとしてどうしたの?」
「ターン?」
「ゲーム中だろ。次の手考えるの長くね?」
言われてよく見れば私の手はラグに置かれたボードと紙のカードの山札の上に乗っていて、そこに描かれた陣も神殿で見た虹色のものとは明らかに違う。
戻れた? 一拍遅れて驚きと喜びとそれを上回る悲しみと寂しさが襲ってきた。ああ、私戻ってきたんだ!
「うわぁあああ、蓮!!」
「ちょ、なに!? どうしたの!?」
「会いたかった! 会いたかったよおぉぉ!!」
「ぎゃー!! 何言ってんの毎日会ってんじゃん! おかあさーん! ねえちゃんがくるったー!!」
いきなり涙を流して抱きついた私に弟が悲鳴を上げた。その後私は騒ぎを聞きつけて二階の子供部屋にやってきた他の家族にも抱きついて同じことを繰り返し、頭と体調を大いに心配されたのだった。
本当のことを言ったとしても、ますます心配されるだけだと思って辛うじて異世界の話はしなかったけれど。
落ち着いてからママや弟に話を聞いたら、ここ一ヶ月くらいは普通に会話や生活はしていたものの、時々心ここにあらずで半分魂が抜けた状態みたいに見えることが多かったそうだ。
半分魂が抜けた状態……そして一ヶ月。召喚は失敗したって彼が言ってたから、私は半分だけあちら側に行っていたのだろう。どうやら向こうとこっちでは時間の流れが違うようで、その差は地球の一週間が異世界の一年として、三年で一ヶ月といったところだろうか。
弟の話によると、おおかた失恋でもしたのだろうと気晴らしにカードゲームに誘ってみたら、やけに食いついてきたとか。もしかしたら絡み合った魂のせいで彼の何かが反応していたのかもしれない。
無事に帰れたのは嬉しい。いつか夢に出てきたなんの変哲もない家族団らんにすら感動した。今ある日常は本当は当たり前じゃなくて、たくさんの奇跡が積み重なって出来ているんだと思うと、ママのご飯が自分の体に染みわたる気がする。
それでも自分の部屋に戻って一人になると、じわじわと寂しさが込み上げてくる。
彼……セオドア。もう二度と会えない彼の名前を思い描くだけで涙が出てきて、私はベッドに潜って一晩中泣き続けた。
◇◇◇
それから一年経った。私は高校二年生になり、毎日代り映えのしない日常を過ごしている。
もしかしたらあれは全部ただの夢だったんじゃないかと思うこともある。でも風邪などで苦い薬を飲む時にセオドアの作る不味い薬をふと思い出して、あんな変な薬自分では絶対思いつかないと思って笑ってしまうのだった。
もしもう一度会えたとしても、日本とあっちでは時間差があるから、彼はおじいちゃんになっているんだろうな。
「ねえちゃん、来週カードのイベントがあるんだけど一緒に行かない?」
ある日、弟に誘われ私は考え込んだ。あれから腕を磨いて私もそれなりに詳しくはなった。少しでも思い出の中の彼との接点が欲しいなんて、我ながら健気だな。
「うんいいよ。行く」
「前に薦めたあのマンガの原作者の人も来るんだよ。あの中に出てくる『半目隠れのプリンス』のモデルになった人も来るんだってさ。俺、カードにサイン貰う!」
興奮したように話す弟の顔をじっと見つめる。そういえばあれからあの話読んでないけど、そんな某魔法少年の物語のキャラパクリみたいな人いたっけ? セオドアは全目隠れだし、ルキウスの弟妹のうちの誰かかな。
週末、イベント会場のビルに着くと、既にたくさんの人が集まっていた。あのマンガ、こんなに人気あったんだ。こういうイベントが初めての私は、サイン会に向かう弟の後についてキョロキョロしながら歩いていた。
グッズ売り場やカードゲーム会場の他にコスプレコーナーもあるらしく、セオドアやルキウス、プリムローズに似た人物を見るとなんだかドキドキしてしまう。
サインを求める人たちの列の最後尾に着いて人波に押されるまま前に進んでいく。弟の興奮は最高潮で、『半目隠れのプリンス』とやらのカードを私にも見せてくれた。
ルキウスが式典の時に着ていた軍服のような紺の詰襟に飾緒や肩章のついた衣装を着て、少し癖のある紺色の髪で片目を隠し、もう片方を後ろに流したイケメンが描かれている。目の色だけは最後に見たセオドアに似ているけれど、私のモサ男はこんなにかっこよくない。
またセオドアのモサッとした風貌を思い出して、俯いてグズグズ鼻をすすっているうちに、私たちの順番が巡ってきたようだった。
「ツバキ!」
ああ、あの世界が恋しすぎて幻聴まで聞こえてきた。声がルキウスっぽいのがなんかムカつくけど。
「ツバキ! 久しいな!」
あれ? 幻聴じゃない? ぼんやり顔を上げると、そこには金髪碧眼の無駄に顔の良いキラキラした男が派手な赤いスーツを着て座っていた。別れた時と寸分違わぬ若い彼の姿に呆然となる。
「な、な、な……」
「な?」
「なんであんたがここにいるのよ!!」
わなわなと震えながら叫ぶ私に、ルキウスは大袈裟な身振りで肩を竦めた。あっ、暑苦しいの変わってなーい。
「なぜなら私が原作者の
原作者、そんな名前だったのか。なぜとかどうしてとか疑問が頭を巡りパンクしそうになっている私の横で弟の蓮が羨望の眼差しを向けてくる。
「ねえちゃん、先生と知り合いなの?」
「知り合いっていうかなんていうか何がどうなってるのか私にも何がなんだか」
「ははは! 早口言葉のようだな。
ルキウスは弟のカードにサラサラとサインをして、ついでに握手とハグをしながら高らかに告げた。
「は、はい! ボク、ゲーム会場に行ってます! ねえちゃん、あとで話聞かせてよ!」
憧れの先生にハグまでされてご満悦の蓮は、好奇心に目を輝かせながら私の背中を押してルキウスの前に突き出した。
頭の中をぐるぐるさせながらルキウスに着いて行くと、彼は控室の前で立ち止まった。軽いノックの後に中から返事が聞こえてくる。
「どうぞ」
穏やかに落ち着いた甘く柔らかな低い声。ああ、この声は。
足が震えて前に進めない私の背中を、ルキウスが励ますようにそっと押し出す。
「ツバキ様」
「セオドア……?」
中にいたのは弟のカードに描かれていた『半目隠れのプリンス』にそっくりな人物だった。こんな人は知らない。でも私を少し恥ずかしそうに『ツバキ様』と呼ぶのは、最後に聞いた本当の声で私を呼ぶのはセオドアしかいなくて。
気がつけば涙が滝のように溢れて頬を濡らしていた。
「セオドア」
「はい」
「セオドア、セッチャン、セ! モサ男!」
「はい」
これまで私がつけた数々の変なあだ名に律儀に返事をした男は、穏やかな青い瞳の奥に隠しきれない喜びと愛情を込めて両手を広げる。もう感情が追いつかなくて私は黙ってその腕の中に飛び込んだ。
いつのまにかそっとドアは閉じられ、二人きりになっている。ルキウスが珍しく気を利かせてくれたらしい。
セオドアに促され、テーブルを挟んで簡易なパイプ椅子に座る。向かいに座るセオドアは長い脚を持て余すように折りたたんでいて、なんだかシュールだな、なんて関係ないことを考えていた。
「どういうことか説明してくれる?」
「はい、なんでもお答えいたします」
少し落ち着いたけれど、まだ涙の残る目でセオドアをじっと見つめると、彼は申し訳なさそうに肩を丸めて上目遣いに私を見つめ返した。そうしていると昔のセオドアっぽい。
いや、やっぱり顔面が強すぎる。ルキウスと同じ目の色でところどころ似ている部分もあるけど、全体的に落ち着いた雰囲気で、派手な感じはしないが無駄に顔がいい。
「……ツバキ様が」
「もう聖女じゃないんだしツバキ様はやめて」
「なんとお呼びすれば?」
「ツバキでいいわよ」
「畏れ多い……」
「いいから説明!」
「はい!」
少し強めに言うとセオドアはピンと背筋を伸ばして慌てて返事をした。いかん、つい短気が出てしまった。でも昔に戻ったみたいで楽しい。
そうして語られた話は信じられない内容の連続だった。私が帰還した後、抜け殻のようになっていたセオドアに、ルキウスが「そんなに会いたいのならこちらから会いに行けばよかろう」と発破をかけたのだとか。
それから執念で一年かけて異世界に渡る方法を探し出し、時間軸の調整を繰り返しながら徐々に現在の私に近づいて、今日この日を迎えた、と。
「何度か過去に戻ってしまい、幼い貴女も遠くから見ていました。可愛かったなあ」
「……」
「何度目かの転移で私と兄はこの世界にカードゲームを流行らせることにしたのです」
「ほーん、なんかすごい」
「アゼスカに渡る前の貴女に危うく話しかけるところでした」
「それは困るね」
私が転移する為にはあのマンガを読まねばならず、その前に出会ってしまったらたしかに色々都合が悪い。いろいろキモチワルイことを言っていたがそこはまるっと無視した。
「あれは兄上、ルキウス殿下が描かれたのです」
「それも信じられないんだけど」
「兄上は昔から芸術が好きで絵も上手かったのですよ。しかし私が幾分誇張して描かれているようでお恥ずかしい」
セオドアは照れて下を向いたが、私にしてみれば不思議でもなんでもない。あのブラコンのやりそうなことだ。兄上って呼ぶようになったんだね~と生温かい視線を送る。
そしてあの世界はどこかに存在していて、ルキウスが意外な才能を発揮してマンガを描いたという訳か。ねえ、王族って忙しいはずだよね。
私の疑問にセオドアが一つずつ丁寧に答えてくれる。
「あちらでは旅立った時間に戻れるので問題ありません」
「言葉とかどうやって覚えたの」
「それは何度もこちらに来ているうちに」
「お金とか戸籍は?」
「貴金属の価値はこちらでも同じですよね。僕らは王族ですから金銭的に困ることはありませんでした。それにお金さえあれば戸籍などどうにでもなると裏社会で学びました」
「民の血税使って何やってんだおまえらぁ!」
「……ただ貴女に会いたい一心だったのです」
半分あらわになった青い瞳に真摯に見つめられ、一瞬の憤りがスーッと消えてしまう。ああ、チョロいところ変わってないな、私。
私は立ち上がってセオドアに一歩近づいた。
「……体はもう大丈夫なの?」
「ええ。片目も元通りです。兄上が『いめーじせんりゃく』だと言うのでこうしています」
前髪を掻き上げて見せてくれた顔は両目がきちんと揃っている。改めて見ると本当に綺麗。
「ほんもののセオドアなのね」
「はい」
思わず両手を伸ばしてその頬を包んだ。滑らかな白い肌と濃紺の髪。でもやっぱり私のモサ男には程遠い。座っているセオドアの前髪をわざとモシャモシャに乱して、両腕でぎゅうぎゅう抱きしめた。
「これだ~! これぞセオドア!」
「ツ、ツバキ様、ム、ムネが当たってます」
相変わらず純情で耳まで真っ赤になっている。私は笑いながらその赤く染まった耳元に唇を寄せ、小さな声で囁いた。
「私もお慕いしております、魔術師様」
「ツバキさま……」
私を見上げたセオドアの唇が私の名前を惚けたように紡ぎ、二人の吐息が混じり合いそうなくらい近づいたその時。
控室のドアがバーンと勢いよく開いてルキウスが派手に登場した。
「セオドア! 問題発生だぞ!」
「ちょ、空気読んでくれない!?」
「ど、どうしました、兄上」
「時空が閉じて帰れなくなった!!」
「なにー!?」
声を揃えて叫び顔を見合わせたセオドアと私の前で、ルキウスはただ楽しそうに笑うだけだった。
こうして私が異世界に渡った物語は幕を閉じた。チキュウに取り残された兄弟が元の世界に帰る方法を探すのはまた別の話。
異世界転移して聖女になったら陰気な魔術師が隙あらば毒殺しようとしてくる 鳥尾巻 @toriokan
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