1-36.ずっと、アーシェルティといっしょ

 俺がトティツ師匠との訓練を終え、上達に満ち足りた気分で帰ってくるとアーシェ邸に戻っていたララさんとフィエに襲われた。


 ララさんは「やったぜ、これで私も法掌だ。次はコバタくんの……」と興奮しながらキスをしてきて、フィエは「コバタを守る、渡さないために強くなるね」と言いながら俺の服を脱がした。風呂くらい入らせて。


 俺は彼女たち二人が何を興奮して俺を求めているのか分からなかったが、二人は問答無用の雰囲気であった。


 そして次の日になると「鍛錬しに行きます。しばらく戻りません」という書き置きを残して消えてしまった。なんなんだ、一体。フィエとララさんはなんで俺に何も言ってくれなかったんだろう。二人との擦れ違いを感じる。なんか寂しいし、二人が近くにいないのが不安なんだけど。


 今日はトティツ師匠には鍛錬を休むように言われている。頑張り過ぎだから一度休め、身体を壊すぞと。まだ体には余裕があるのだが、尊敬する先達の言うことには従おう。


 そして俺はやはりアーシェのことが気にかかっていた。ララさんやケリルトンさんから聞いた情報はアーシェの努力と研鑽の話であり、それが俺を苛んでいた。


 頑張ったのに報われない、そういう気持ちをアーシェは抱えているようだ。……そして、欲しいものを持って行ったのは俺。しかもアーシェはそれを『世の中の不条理』として、俺自体は許しているっぽいのが凄く悲しく思えた。


 『世の中の不条理』なんて形のないもの。どう対処していいか分からないものだ。いっそ俺を憎んで殴ってくれた方が、アーシェにとって良いのではないか。或いは俺に罵倒をぶつけてスッキリして貰った方がいいのでは?


 ……アーシェが可哀想に思えて仕方ない。だってフィエに嫌われてあんな態度取られるとか、俺だったら想像するだけでキツくて吐きそうになるのに。


 フィエには嫌がられているものの、せめてアーシェの気持ちを楽にできるように行動したい。そういえば前にフィエに言われていたな。『わたしの都合で動く人になんてならないで』って。……悪いことするわけじゃないんだし、ここは我を通そう。


 使用人さんから居場所を聞き、俺の足はアーシェのもとへ向かっていた。




 前に俺がララさんと話した東屋にアーシェは居た。朝食後に届いた報告書らしきものに目を通している。真剣な横顔。


 本来ならアーシェは執務用の部屋でそういったことをしているはずだが、今日は日が穏やかでやや涼しく感じる。そういう気分だったのだろう。


 報告書を読み終えたらしきアーシェは、ふぅとため息を漏らしてそれを仕舞った。東屋のテーブルに用意されていたお茶を飲み、遠景に目をやりながら小さく……何か詩を口遊んでいるようだ。


 思ったよりアーシェは俺に気付かない。気配をバリバリに感じ取るいつもの高性能さは鳴りを潜めていた。


 詩を口遊むほどに一人でのティータイムを楽しんでいる様子のアーシェ。俺は声をかけられずマゴマゴしていたのだが、やがてアーシェはピクリと反応し、こちらを見た。


「話をしたくて来ました。お邪魔して申し訳ありません」


「問題ありませんよ。何の話です」


「仲良くなりたい、の話です」


 アーシェはふっと自然に、ほころぶ様に笑った。今までで一番、俺に好意的な表情だった。今日は機嫌が良いようだ。


「……その話も良いですが、まずは私の話を聞いて」


「もちろん、どうしたんです」


「また、ジエルテ神らしきものが出ました。不吉の喧伝。


 ……今までの事例を見るに、まだ余裕のある段階。事態はまだ、急を要するところまではなっていないと、ほっとしていました」


 『ほっとした』という言葉とは裏腹に、アーシェは少し追い詰められた表情だ。俺もツラい気持ちになる。頑張ってる人が追い詰められているのは良くない。


「俺がそれまでに強くなって助力します。まだ訓練中ですがいい感じなんです。


 俺はきっとまだ弱い、でも必ずあなたに力添えします」


 アーシェの気が少しでも楽になるようにダメもとで言った言葉だった。俺如きの助力なんて、アーシェにとってはちっぽけなもののはずだ。


 だが、アーシェはまた笑顔をくれる。なんだろう、今日は俺の言葉が良い方向に作用している。本来のアーシェは、こんな風に優しい人なのか。


「じゃあ必ず、お願いね。


 ……ライラトゥリアから何か聞いたの?


 多分、ちょっと前ならそこまでは言ってくれなかったわ」


「聞きました。別に変わったことは聞いていません。


 ……でも、あなたが努力してきた人で、俺が欲しいものを奪ってしまった、と。そこをはっきり自覚したんです。


 俺は努力した人は報われてほしいです。俺が奪ったならなんとか償いたい」


 アーシェは無表情になった。何か考え込んでいる。珍しく長考したあとにアーシェはこちらを見て、はっきりと言った。


「償いをしたいと言うのなら……ねぇ、高く付くって分かってる?


 言葉を撤回するなら今、ここで最後の回答をちょうだい」


 アーシェは救いを求めている。<この娘を救わなくてはならない>。


 ……少なくとも相手は、俺に償いが出来ると思っている。


「償います、言ってください」


 アーシェが『最後の回答』というのなら、関係改善を図りたい、彼女の力になりたい俺にとっては即答すべき内容だ。


「じゃあ、私についてきなさい」


 アーシェは俺の手を取った。フィエの手とは違う、少し冷たい手。




 アーシェ邸2階の端。アーシェの私室。初めて通された。やや簡素な気もするが細かい意匠が施された上等な部屋。細かく見れば女性的な感じの装飾もある。


 窓際にティーテーブルと椅子。赤い花が咲いた鉢植。部屋の隅には化粧品や宝石箱が置かれたドレッサーテーブル。屑籠。ペン立てとカンテラが載った書き物机。部屋の奥には天蓋付きベッド。背の高い燭台。ベッドサイドテーブル。全身姿見。ティーセットが入った戸棚。湯沸かし用と思われる長火鉢。


 白に薄く桃色がかった壁紙に、磨かれたフローリングの床には少しくすんで落ち着いた水色の絨毯。梁から垂れるカンテラ吊るしの細鎖。……クローゼットが大きいな。いろいろ着飾る必要があるのだろう。


 立場的にあまり派手に飾りづらいんだろうか、どこか地味な印象だ。あんまり可愛い部屋とか色合いがゴテゴテした部屋だと地位に合わないもんな。どことなく抑制された部屋。


 アーシェの要求は簡潔だった。


「愚痴を聞いて。他言無用」


 分かりましたと言って、少し気になった。


 愚痴を聞くと言ったって、それはそこまで重い事なのだろうか。重要なことではありそうなんだけれど、聞くだけ、といえばそれだけだ。


 俺がかすかに考え込んだのを、アーシェは察したようだった。


「一度許すと言っておいてなんだけど、実はあなたをまだ許せていない。


 だから償わせる。


 あなたに愚痴を言いたいのは、その機会を貰ったのと……ふふ。


 ……バラそうものなら殺していい相手だから、かしらね。


 そのつもりで聞いて」


 内容は物騒だが、冗談めかしている。そして俺に微笑む。


「バラしませんよ。他言無用を破ったら、抵抗しませんから殺してください」


 アーシェは冗談めかしていたが、俺は冗談とは受け取らない。覚悟しよう。


「じゃあ、保証を貰うわ。あなたがバラさない為の保証」


「保証? 契約書とか宣誓とか?」


「そこに、私と寝転がって話を聞くの。


 あなたにも、バラされたくない秘密を持ってもらう」


 アーシェは大きな天蓋付きベッドを指差す。……え、ウソやろ。


「ちょ、ちょっと待って下さい。寝転がる必要あります?」


「その反応が一番証明しているじゃない。


 あなたは『私の愚痴を聞くこと自体』は後ろめたくは思ってはいないでしょう?


 このまま椅子に座って話したとしても、あなたの心にストップがかからないのよ。うっかりポロっと口に出したり、あなたの中の勝手な理屈で他人にバラす。


 どこで、どんな状態で私の愚痴を聞いたか。それが頭の中をよぎれば、あなたは無暗には話せない。だって、あなたはあまり器用ではない。この状況の部分をうまく誤魔化して話したりなんて出来ないでしょう?


 何にせよ、あなたが後ろめたく思わなくては、保証は成立しない」


 アーシェは明らかに本気だ。微笑んで、声には笑みを含んでいるが、本気だ。


「……一度は『最後の回答』と言った手前、今更聞かないとは言いません。


 確認します、そこに寝転がるだけですね」


 アーシェは窓際に行き、カーテンを閉める。そこそこに厚いカーテンのようで部屋の中が薄暗くなる。


「庭があるとはいえ、外から見えたらまずいし閉めちゃうわね。


 ……思ったより薄暗くなっちゃったから、眠くなったりしそう……。あ、眠っちゃうのはなしね。最後まで聞いてくれないと」


「……わかりました。どんな感じで」


「恥ずかしい愚痴だから私の顔を見ない感じで、うしろ向いて」


 アーシェは既にベッドに腰かけ、俺の寝転がる位置をポンポン叩いている。


「確かに、これは誰にも言えませんね。もともと言う気なんてないですけど」


 俺がベッドに乗りながらそうこぼすと、アーシェは親し気な口調になり笑って言った。


「今更そんなこと呟くの? 真剣さが足りてない、もう一度約束して。


 『今日この場のことは、誰にも言わない』


 ハイ、言って」


 アーシェはベッドに寝転がった俺の背中を、軽くバンバンと叩く。


「今日この場のことは、誰にも言いません。約束します」


「じゃあ、黙って聞いてね。茶々を入れられると、愚痴を言った気分になれないかも知れないから。


 相槌も要らない。寝てないかどうかは、たまに背中とか首とか触って確認する。


 ……いびきをかいて寝てたら、そのまま天国。異論はないでしょ?


 じゃあ、ちゃんときいてね」




「下らない愚痴なの。分かって貰えないと思っている。


 あなたから見えている私の姿、そこから想像が付かないような内容。


 私が感じている、世の中の不条理のお話よ。言ったわよね? 『欲しいものほど手に入らない』って、それについての愚痴を言いたいの。




 ……私は恵まれていると思う。いろいろな証拠がある。人だって私を羨む。


 でも私には、違う気がしてならないの。


 お父様、お母様はちゃんと私を想っているはず。証拠がある、たくさん。


 でも違う気がしてならないの。


 両親は私に対して、生きるのに役立つこと、良いことは教えてくれた。でも私の望むようになかなかして貰えない。片手で数えられるほどしか。


 何度も自分の意見をぶつけてみたわ。でもなしのつぶてよ。まだ子供の、私の歪んだワガママなんか、大して気に留めて貰えなかった。


 あまりにも両親の反応が鈍いし、自分が不利になるだけ。諦めたわ。……だから私は家が嫌いだった。恵まれているはずなのに。


 厳しさもあったけど、私を楽しませようとする気遣いや催しもあったわ。そう、私を楽しませようとはしてくれていたの。お父様もお母様も。でも私には、嬉しくなかった。そんなもの気づまりなだけだった。


 もしかして私は、心を見透かされてイジワルされてるんじゃないかって思った。私には自分が、年老いた両親に都合の良いペットのように思えた。私が喜ぶことじゃなくて、両親が喜ぶことだけさせられる愛玩動物。


 ……これは、誰にも言えなかった。


 あんなに恵まれていてそんなことを言うなんて、って言われたら言い返せない。


 ……光教団に入って遠くに徒弟に出たのも、家から逃げるため。その選択を尊重してくれた両親は、やはり私を愛してくれていたのかもね。ええ、きっとそう。みんながそう言うんだもの。


 この屋敷だって、用意されたものなの。恵まれてると言われるし羨まれる。でも私には、散歩用に首輪をつけられた気分。……ひねくれ者なのかしら。


 息苦しかったから逃げだしたのに、今もまだ息苦しいの。




 私は光教団で頑張った。


 家に戻りたくなかったから、ここに居場所をしっかりと作っておきたかった。自分はただ一人で生きていける生き物だ。愛玩動物じゃないんだ、って。


 私に寄ってくる人は多かった。家名に興味を示す人、私個人に興味を示す人、いろいろ。でも、寄って来て欲しくなかった。


 だって、好きになられる理由、どっちも嫌いなものだったから。


 家が嫌い、さっき言った通りよ。わかるわよね?


 家が嫌いと思ってしまう自分が嫌い、これはわかる?


 だって、あそこを幸せな場所と思えれば何の問題もなかったんだから。違和感を覚えないまま、幸せなペットでいれば恵まれた存在なんだから。


 うまく生きられない。だから自分が嫌いになっていた。




 だけど、『嫌いな私』は好かれたわ。……困ってしまった、本当に。


 寄って来て欲しくない人たちではあったけど、恨みがあるわけでもないの。そんな人たちを追い払えなかった。


 実はね、今だってそうなの。今になっても解決できていないの。ずっと困ってきたわ。でも、その人たちを無碍にもできないでしょ。その人たちは悪いことをしているわけでも、私への悪意もないんだから。


 簡単に応えられる期待を、してあげないなんてイジワルは出来ない。いちいち嫌いになっていたら生き辛過ぎて困るから、嫌わないようにした。


 ただ、『私が嫌っている私の一面』を褒めそやすのはウンザリしたの。


 私は逃げてここまで来たの、死ぬまで居る場所のために頑張ったの。あなた達に喜ばれるためじゃない、そんな立派なものじゃないの。放っておいてほしかった」




 アーシェは俺の背中に、手のひらを当てた。服越しに感触だけが伝わってくる。……恵まれていたのに、それはアーシェの望むものではなかった、か。


 確かにアーシェは人を惹き付ける要素を持っている。本人にその気がなくとも勝手に人は集まってしまうのかも知れない。


 俺にはそんな経験がないから直感的に分からない部分ではある。でも、思ったよりアーシェ自身は内向的で、人が近くに来るのを疎ましく思っているようだった。


 そして、アーシェは疎ましい相手にすら無礼な振る舞いは出来なかったようだ。




「ライラトゥリアの傍はすごく居心地が良かった。私を一人の人間として扱ってくれているように思えた。私がウンザリしているのを救ってくれた。


 ……何が楽しいのか分からないけれど、その頃には私を見物に来る人達がいた。


 綺麗な少年みたいだから見ていたいんだって。やめてほしかった、私だって年頃だったのに。男の子みたいなんて言われるのはイヤ。そう言う人たちがわたしを見る目もイヤ。……また愛玩動物の様に、都合よく扱われるのは心底御免だった。


 ライラトゥリアは、稽古の邪魔だってそいつら全部追い払ってくれた。痛快。本当に居心地が良かった、彼女といっしょにいた時は。彼女は『私の本音を代行してくれた』んだから。


 ライラトゥリアは稽古で私に強く当てても、私が同情を誘うふりをしても変わらずに『すぐに立って打ち返せ』って言ってくれた。今までの人はしてくれなかった。私の欲しい扱いだった。


 だって、私は強く当てられても本当はあまり堪えていないし、同情を誘う振りなんて、周囲の目を気にしてやっていただけだった。


 私が普通に頑張ってると、周囲から痛々しく見えちゃうみたいなのね。すると訓練相手が、私の取り巻きからぎゃんぎゃんと責められちゃうのよ。


 相手のために、分かりやすい態度で私がストップをかけていただけなの。『あなたに迷惑かけてしまうかもしれないですよ』ってね。


 ライラトゥリアは、そんなの全く気にしない人だった。


 ……ライラトゥリアは別に私を分かっていたわけではないかも知れない。単に彼女の気性が、偶然私に合っただけかもしれない。でも、初めての欲しい存在だった。自分の意志で自由に生きている彼女に憧れた。


 近くにいてほしかった。




 ライラトゥリアはいつまでもは居なかった。彼女の目標を諦めて、教団から、街から、私の近くから去った。


 私が実績を積み上げるのを見ていて、彼女は諦めたみたいだった。


 もっと居てほしいと、いろいろ試したけど私は下手クソだった。何でこういう時はうまくいかないの、要らないことはうまく出来るのに。


 私はまた、いつもの日々に戻った。ひとつだけ、楽しいことが減っただけ。楽しいことが何にもない日々に戻っただけだった」




 ララさんはアーシェにとっての問題を、一時的にとはいえ解決していたようだ。確かにそんな人が近くにいてくれたらと思うだろう。


 ……ララさんが俺の近くにいるというのは、アーシェにとっては自分の一番近くにはいてくれないことを示す。それを見せ付けられるのは確かに嫌だろう。アーシェが俺を嫌悪した理由も分かる。


 そういえば村長が言っていた。周囲に見せびらかして不興を買うのは愚かだと。図らずも俺はそれをやってしまっていたわけか……。




「フィエエルタ、彼女の議題はキィエルタイザラから持ち込まれた。ちょうど戦地から帰還した折に、不条理な状況にあることを知ったのね。


 その時すでに彼女は両親を亡くしていた。その後も続く秩序無き求婚は彼女を怯えさせていた。


 フィエエルタの両親は大馬鹿。こんな親の都合で、子供を政治の駒として使っちゃならないなんてこと、なぜ分からなかったの。そんなの、傷付くだけだってなんで気付かなかったの。何とかしてあげたかった。


 でもその会議において、私はまだ成人前だったから付き添いでしかなかった。まだ見習の段階では、何の発言権も実行力もなかった。


 


 ……最初に、私は両親に複雑な気持ちがあるって、言ったわよね。


 全然違うって言われたらそうだけど、フィエエルタは私に似ている気がしたの。


 『両親は愛して、してくれたことはずなのに、それが悪く作用した子供』


 フィエエルタは楽しい劇やお芝居、歌が好きなだけだったのに、周囲の勝手な都合で、間違ったやり方で欲しくもないプレゼントを渡される子。そしてそれに押し潰されて楽しいことを失ってしまった子。


 ……結局、キィエルタイザラが解決したわ。羨ましかったわよ。いろいろとね。


 問題を解決したアイツが羨ましかった。私は、あの子の問題を解決して自分も救われた振りをしたかった。


 問題を解決して貰ったあの子も羨ましかった。私も、あの子みたいに想われて誰かに問題を解決してほしかった。


 でも、私にはどっちもなかった。


 ……欲しいものほど手に入らない。得られないまま。




 でも、フィエエルタの問題は続いた。ケルティエンズがキィエルタイザラの対抗として残ったからね。


 チャンスだと思った。次は私があの子を救えるかもしれないって。私があの子を救ったら、私の歪んだ気持ちのどこかが解れて、楽になるかも。自分を好きになれるかも……って。


 でも、他人の不幸を『チャンス』だなんて思っちゃう時点でイカれてるわよね。私はもう、息苦しくて狂っていたのかも知れない。




 そして、フィエエルタを救おうとしている最中にあなたが来たわ。あなたは彼女を手に入れた。あなたはライラトゥリアも手に入れた。


 フィエエルタは私を息苦しい存在、ペット扱いしてくる人間だと言った。……私はゾッとしたわ。両親の嫌いなところが、薄皮一枚剥いだら自分の中に潜んでいたんだから。……そしてあなたは彼女をかばって、私と戦おうとした。


 ふざけんな。


 欲しいものが私に対して背を向ける。嫌いなものが私の身に染み付いている。


 ……イカれた女の逆恨みが始まったの、分かって貰える? もう狂っているから、噛み付いてでも何とかするしかないのよ。


 なんでかよく分からないけど、欲しいものが手に入らないの。


 ……起きているわよね? 質問。


 フィエエルタは、あなたの欲しい存在だった?」


「欲しかった。今も一番大切だ」


 アーシェの気持ちは理解できたかというと、すべては無理だった。アーシェは、自分とはまったく違う人生を歩んでいて、違う価値観だった。


 言っている意味はしっかりと分かった。でも共感しきれない。それで本当に理解したなんて言えない。……ただ、上手くいかない人生に苦しんでいるのは分かった。なら俺は分からないなりに、彼女が苦しんでいるのを何とかするしかない。


「そう、欲しいものが手に入ったのね。羨ましい。……質問。


 最初に事情はあったみたいだけど今、ライラトゥリアといて楽しい? 幸せ?」


「ララさんが好きだから、そうだ」


 実際、ララさんといて楽しい。幸せでもある。俺という二股男をフィエが認めてくれているからという部分もあるけど。


「…………ここからが愚痴の本番ね。


 …………。


 ふざけてんじゃないわよ。なんでこうなるわけ。


 私はずっと、得ていないのに。


 私の欲しいものたちは満たされているってどういうことよ。


 私は、仲間外れよ。……三人は手を取り合って、幸せそうね。


 なんで、そういう風になるの。なんで、私はうまく出来ないの。


 ……ッ。……あんたなんか、嫌いよ」


「……それは。……分かるかもしれない。


 正直に言う。全ては分からない。生きてきた人生が違う。でも、自分が欲しいものに手が届かないのに、周りが満たされているのが見えて苦しいっていうのは、前の世界の俺だ。


 何とかする方法があったはずなんだけど、俺は自分に合ったやり方が分からず、怖がって結局やろうとしなかった。


 アーシェは俺と比べるのが失礼なほど、よく頑張っている。でもアーシェの場合は、何とかしようと頑張っているけど多分やり方が間違っている」


「……あなたは、その言葉で私が楽になると思っている?


 まさかね。あなたと私は違うもの。それはあなた、あなたのための私への答え。


 私が欲しい答えじゃない」


 そういえばアーシェは両親に『欲しいものが分かって貰えない』のが嫌だと言っていた。……でも、ただでさえ鈍感な俺に分かるかそんなもん。


「……散々、愚痴吐いて今更言えないこともないだろ。アーシェはもう答えを見つけている。俺に償わせる算段があるんだから。


 『欲しい答え』を見付けてあるなら、そっちから言ってくれ」


「私の答え、ね。……私は臆病者なの。


 ワガママを押し通して自由に生きる勇気がない、他人からどう見えるかが気になって自分のしたいように出来ない。頑張ってやろうとしてみても下手なの。満たされないし上手くいかない。


 そして私は両親から与えられた色々や教え込まれた社交の仮面を、嫌いながらも使い続けてしまったの。だって、悔しいけれどその方が上手くいくんだから。


 そうしているうちに、こんな風になってしまった。


 嫌いなもので守られた、臆病で歪んだロクでもない自分。


 この臆病は直せない、そこを壊したら私はもういない。別人。仮面だけ。


 生まれ変われる気なんてしないの、きっとこれからも臆病なまま。でも欲しいものは得たい。息苦しい、救いが欲しい。鬱憤を晴らしたい」


 アーシェが起き上がる気配がする。俺は躊躇った。もう振り返ってもいいのだろうか? 愚痴の間は振り返らないように、言われていたはずだ。ここまで聞いてご破算にしてしまっていいのだろうか。……俺はまだ、動けない。


「迷い人、コバタ、あなた、お前……どう呼ばれるのがいい?」


「じゃあ、コバタで。今まで呼ばれた記憶がない」


「コバタ。憶えてる? ベッドに寝転がる前、コバタは言ったわよね。


 『確認します、そこに寝転がるだけですね』って言った。


 今、答えるわ。『それだけなわけないでしょ』」


 衣擦れの音がして、俺は振り返った。さすがにもう迷っている時ではない。


「どうしたいんだ。わからない。


 アーシェがわからない」


「服を脱いだのに気付いて起き上がったのに、何が分からないって言うの」


 逆光で見え辛いが、既にアーシェは上半身の服をはだけている。俺はそこから目を逸らした。


「何でそうするのか。あと、それでアーシェは幸せに思えるのか」


「……その答えはもう言ってる。


 歪んで行き詰まった私が、この息苦しさを忘れるために。


 愛玩のため躾けられた貞潔を汚して、自由になるために。


 私に背を向けた二人に仕返しして、鬱憤を晴らすために。


 ここで、したいことをするの。私のしたいようにするの。


 コバタにもワルイコトをさせて、私は臆病を誤魔化すの。


 こっそりと、知られない所で。……ここ、この部屋でね」


 俺は起き上がろうとしたが、アーシェに身体を押し付けるように押し返された。アーシェはそのまま俺を押し倒した。


「……」


「私に復讐させて。自由にさせて。そしてあなたを、コバタを得させて。


 全部くれなんて言わない。誰もいれないこの部屋の中でだけでいいの。


 私は気付かれたくない。内緒がいい。臆病だから、こっそりがいいの」


 アーシェは追い詰められたままの顔をしている。俺を押さえつけながら、なおも追い詰められたままだ。解放されていない。


 俺が拒否すれば、アーシェはもうどうにもならないような気がした。


「ひとつ聞く。アーシェ、俺にとって重要な言葉が聞けていない。重要だ。


 俺のことは、好きなのか。


 好きでもないなら、これは俺とすべきことじゃない。終わりにしてくれ」


 これだけは確認したかった。アーシェは本当に俺に救われたがっているのか。せめて俺の分かる言葉で、これだけは知っておきたかった。


「……きらい。


 私に、私に、あなたを、コバタを得させてくれないなら、きらいなの。


 まだ得られていない、まだ私を受け入れてくれてない。だからきらい。


 私は臆病だから言えないの。私からの言葉が届かないなんてもうイヤ。


 コバタにその言葉が、受け入れて貰えないんじゃないかって、怖いの」


「……アーシェは。


 さっきも言ったが、やり方が悪いだけだ。


 けど、もう自分では直せないんだな。


 ……俺は好きだ、アーシェ。だからアーシェも俺を好きになってくれ。


 俺はアーシェが好きだ」


 その言葉を聞くとアーシェはぐったりと脱力して、俺の胸板に顔を埋めた。大きな胸が俺の腹の辺りに押しあたる。アーシェがもたれかかったまま動かないので、優しく抱き締めておく。


 さすがにどんな表情をしているか分からないときに、いきなり積極的な行為を始める気にはなれない。アーシェが泣いていたりしたら……。彼女の用意を待とう。


 しばらく抱き締めたままでいると、アーシェが俺の身体を手のひらで探るように、腕や、脇、胸板と触ってくる。アーシェの顔が小刻みに動く。最初は涙でも拭っているのかと思ったが……俺を嗅いでいる。……めっちゃ嗅いでくる。


 しばらくそのままにさせておく。というかこのレベルでめっちゃ嗅いでくるのは俺は初体験だ。わからない、アーシェが分からない。


 困惑していると、アーシェは俺の上着をめくりあげる。身体、腹から胸板にキスされる。なんか、キスするたびに呟いている。


「……すき……すき…………すき……すき」


 アーシェは俺のどこが好きなのか、まだよく分かっていない。でもまぁ好きなんだろうなぁって言うのは分かった。


「アーシェ、こっち。俺はこっちにキスして欲しい」


 アーシェの頭に優しく手を当て、誘導する。




(省略)




 寝入ったアーシェをゆるく抱きしめながら、目覚めを待つ。


 起きた時に俺がいなかったら、なんかアーシェの信頼を失いそうな気がしたので慎重策を取った。きっと寂しがり屋だ。


 まぁ今はアーシェのことが好きだから苦にはならないな。でもだいぶ疲れた。


 …………。


 どうしよう、俺も寝てもいいかな。もしアーシェが顔を合わせるのを恥ずかしがって狸寝入りしているなら、今の俺は無駄な努力をしているのかも。


 …………。


 少し寝てた。アーシェは起きていない。……ちゃんと息はあるな、ヨシ。なんでまだ起きないんだ。


 …………。


 アーシェそろそろ起きて。今朝いた使用人さん、アーシェが帰しているのが分かっちゃった。午後のこのくらいの時間にやってるはずの庭掃除の音が聞こえない。


 しんと静まり返った、俺とアーシェの他に誰もいない邸宅。


 考えたら、フィエとララさんが修行に出たタイミングを見計らってるよな。策士だったか、計画的か。……よく考えるとアーシェ自身、忙しい身の上のはず。今日は予定を入れていない。もしくはキャンセルしたってことなのだろうか。


 ……さっきのアーシェの様子が感情的だったので、アーシェは冷静ではないと思っていたが、今の状況からして考えて計画して俺をハメてるよな。


 …………夕の気配が迫りつつある。さすがにもういいだろ。


「アーシェ。もう起きていたりしない?」


「起きたら、行っちゃわない?」


 即答。狸寝入りしてやがった。しかも何か可愛いこと言ってる。


「行かないよ。アーシェはしばらくこうしていたい?」


 アーシェは、枕にうつぶせて顔を隠しながら言った。


「……忘れないうちに言っておきます。今日のことは、秘密です。全てに」


「ああ。言わない」


 これを、誰に、どう言えというのか。言えるわけがない。


「フィエエルタ、ライラトゥリアを裏切ってるって分かってる?


 良心の呵責はある?」


「……まぁ、そうですね。あります。なんでそういうこと言うの」


「私たちだけの秘密が出来たことの確認。


 ……あなたは裏切って、それを黙ったまま。…………ふふ。


 ね、約束ね。


 あの娘たちは、きっと気付けない。あなたが黙っていれば。


 私は顔に出しはしないもの。確信できないはず。


 内緒、こっそり、秘密のまま。……あなたが私のために、裏切ってくれた。


 これは私の初めての宝物。やっと……ここにある、手に入れてる。


 私と、コバタの秘密」


 ふたたびアーシェは枕に顔を伏せた。喉から湧き出るような押し殺した笑い。


「……そうだね」


 アーシェ……人はそれぞれだとは言うけど、これは歪んでいるのでは。


「あなたが好き。手の届くところに欲しいものがある。幸せ。


 私の匂いを染み付けただけじゃまだ息苦しかった部屋。


 今はあなたの匂いもするの。だから、息苦しく感じない。


 あなたがそうしてくれた」


 ……アーシェはこれがほしかったの? これってきっと刹那的な幸せであって、最終的にハッピーになれるものじゃなくない?


 アーシェに腕を掴まれる。アーシェは顔を伏せるのをやめ、こっちを見ている。


「ね、何度でも私のために裏切ってくれる? そう、私のためだけに。


 バレない範囲で、今もうひとたび、ふたたびと。こっそり、内緒で。


 この部屋がそういうので満たされなくなったら、私は死んでしまう。


 あなたも連れてく。私がいない世界にあなたを置いて行きたくない」


 期待を込めた言い方。怖い言葉も混じっているが、なんか可愛らしく聞こえる。……好きになったら負けって言う。もう好きだし従おう。俺による説得とか改善とか、アーシェは全く望んじゃいないっぽいし。


「わかった。……さっきは、俺がアーシェの動きを指示してばかりだった。


 アーシェは今、なにがしたい?」


「コバタに命令されたい。あなたが私を求めているのが分かるように」


 どういうオーダーだよ。さっきと変わらない。気に入ったのか?


 俺が答えを迷っていると、アーシェは呟いた。


「ずっと一緒。秘密がある限り。


 ずっと一緒に、こっそり、こうしていようね。


 私は大切なものは、ここに、隠しておきたい。


 秘密にしておけば、誰にも奪えないもの。


 見せびらかしたって面白くない。これは二人だけのもの。


 ここ、この部屋にあればいいの」


 どーしよう。好きな娘なのに、なんか……、なんかよく分からん。わからないなら聞いてみる。そうするしかない。


「じゃあ命令。アーシェは、俺のどこが好きなのか答えて。


 好きになったのはわかったから、その前の、裏切らせたいと思った理由の方ね。俺はその、そういうところ鈍感で良く分からない」


「言葉じゃなきゃわからないの?」


「たぶん」


 アーシェは黙ったまま起き上がり、俺の胸板に残った跡に指で触れた。


 特に強く吸われた場所は濃い跡となっていてヒリヒリする。


「この跡、付けたところは好きって分かる?」


「ん……まぁ分かるよ。いや、でもそういうんじゃなくて……」


 次は、俺の目をじっと見つめてくる。……おねだりの目だこれ。何がしたいんだ、アーシェは。


「えーと、アーシェは何かしたいの?」


「ほら、ちゃんとわかってる」


 なにを分かっていると言うのか、なんかそう察しただけだぞ。謎かけか、俺には分からん。もっと材料が欲しい。


「……じゃあ、アーシェの好きなようにしてみて」


 アーシェは目を見つめたまま、俺の二の腕に触れる。それから視線を胸板、腹、下腹部へと落とす。……あー、それするのかぁ。さっきも熱心だったなぁ。


 そこでアーシェは一度視線を戻して俺の目を見つめた。


「ちゃんとわかるじゃない」


 と言ってから行動を始めた。……だよね、反応したしね。




(省略)




「……これでも、わからない?」


「……わかった。好きなんだね、俺のこと」


 ちくしょうこいつ、誤魔化したまま押し切りやがった。結局、アーシェは俺を好きになった理由を具体的には言ってない。……恥ずかしがりか、言語化ができるようなものじゃないのか。非言語コミュニケーションで俺に『好きだ』と再確認させただけ。


 不器用な子……器用な子、どっちでもある子なんだなぁ。


 いつまでもこちらだけ気持ちよくなっているわけにはいかない。俺はアーシェが気持ちよくなっているところを見たい。俺にとってはそれがメインだ。




 次の日、修練場に行ったがトティツ師匠に午前しばらくで返された。


「コバタよ、今日は集中が足りんようだぞ。これでは伸びぬ。


 ……何か心残りや、引っかかっていることはないか。


 すぐ解決できるようであれば、終わらせてから来なさい」


 確かに、師匠の言う通りだった。……なんだろう。俺はアーシェがあれで満足したようには思えなかったからだろうか。俺は物凄く頑張って、限界を超えた。アーシェは強敵だった。


 とはいえ、長い鬱憤があれで晴れたように思えない。あの体力お化けで努力と才能の人が、俺が限界まで頑張ったところで簡単に倒せていいのか。


 いったん帰宅し、使用人さんにアーシェの居場所を尋ねる。アーシェは今日は外出していて午後には帰るそうだ。俺は、何の権限があるわけでもないが、使用人さんに帰ってもらうようお願いした。アーシェに秘密の話がある、と理由付けた。


 なんと、使用人さんは帰った。『アーシェルティ様にはちゃんと、コバタ様の指示で帰るよう言われたから帰った』と伝えてくれと強く念を押されたが。


 意外と緩いのか? それともこれもアーシェの仕組んだ罠か。だが罠であるなら、掛かってやらねばならないし、そうでなければやるしかない。




 風呂に入り準備を整える内に午後になった。俺はアーシェを玄関内で待ち構えた。居間から椅子を持ってきて、背もたれを前に座る。


 少ししてアーシェが帰宅し、ちょっと不思議そうな顔で俺を見た。


「どうしましたコバタ」


 アーシェの声が既に期待で上ずっているのを感じた。俺は立ち上がりながら答える。


「使用人さんは帰した。アーシェは誰か連れて居たりしないか」


「いません。……教えて、コバタ。


 なんでそんなこと、したの?」


 俺は無言で手を差し伸べた。アーシェはニヤ付きを抑えてちょっと変な顔になっている。……アーシェお前、意外と表情に出るじゃねーか。

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