1-10.考え事が多い夜、結婚と財産、婚約
その夜はふくらはぎも腿も腰も、あんま使った記憶のない腕や背中も暑かった。
ちゃんと汗を流したから肌自体はつるつるになっている。普段より多くの汗をかいたためか、俺は少しゲッソリしていた。
温泉でほとんど汚れが落ちたとはいえ、今日の散策で爪の間に土が残っていたのが気になったので、切った上で洗った。……これって、こちらでは潔癖の範囲に入るんだろうか。
疲れてるから眠れるはずなのに、筋肉が気になって眠れない。なにか他愛もないことを考えて、ビシビシと痛む筋肉から気を逸らすしかない。
フィエのことを考えようとしたが、今日の自分の情けなさや生じた邪念に思考が満たされてしまいそうでやめた。寝付きが悪くなる。
結局、狩人としてこの村で役立つにしても、まだまだ先のことになりそうだ。
俺がなんとか村での役割を得ようとしているのは、最初は生存のためだった。この村から追い出されないために役に立つという打算。それが今は意味合いが変わってきている。実はもう、この村から出て行く気なんて欠片もなくなっていた。
浦島太郎が竜宮城に行って、帰る気がなくなるのは当たり前だ。そこに素敵なものがあるのだから。浦島太郎と違い、俺には帰りたい理由すらない。
元の世界にも素敵なものはあったが、自分には手の届かないものばかりだった。手に入らないものを見せつけられる世界だった。ここには楽しく話せるフィエがいるから。日々の生活が楽しいから。村の役に立てるようになるという目標があるから。俺にとって欲しいものはもう足りているんだ。
だけど今、俺は自分より一回り年下の女の子に、とても守られてしまっている。フィエにこの村での居場所を作って貰えている。……そうだ、もしフィエに何らかの形で拒絶されたら、俺にはこの世界で生きていく方法がない。命を握られているのと変わらない。俺は親切に甘えられなくなったら死んでしまう。
つまり、フィエに対してうかつなことをしたら、死ぬ。
……でも結局、今日ビビってヘタレたことの言い訳が欲しいだけなんじゃなかろうか。村長だって、他の村人だって優しいんだしさ。
脳味噌が役に立たない問答を繰り返している。俺はこうやって無意味に考えこんで、結局なんにもならないことが多い。
……なんというか、俺は感情に身を任せるのが下手だ。怒ろうとしても、泣こうとしても気持ちに完全には入っていけない。頭の中にしっかりと冷めた思考が残ってしまうから、泣こうが怒ろうが下手な演技をしているような気持ちになる。
酒を飲んでもそうだ、アルコールが利いているのは分かるのだが酔っ払っても感情が表に出て行かない。内側に抑えられたまま。酒は飲めるけど好きではない一番の理由は、周囲に比べて楽しめているように思えないことだった。……そもそも飲み会とか面倒だし、酔っぱらいも好きじゃなかったしな。
考えるうちにネガティブになってしまう。今日は嬉しいこともたくさんあったのに。楽しかったのになんで俺は落ち込んでるんだ。……心残りがあるからだ。
あの時だって、あの時だって。俺が感情に任せた方がフィエにとって嬉しい反応だったんじゃないか。……いや俺なんかがそんな、自意識過剰か。俺がフィエの優しさを勘違いしているだけなんだ。どう考えても俺なんかでは釣り合わない。あの娘は価値が高い。俺では手が届かない存在だ。
そもそも今、異世界にいる俺は特別な力を持っていない。知識を披露しようにも勉学が疎かでうろ覚えだ。学生時代もテスト期間が終わった後には内容を忘れていた。こんなものどこで使うんだ、忘れていいと思った。
今、この生活の中で使えたらいいのにと思う知識がたくさんあるのに何一つ形を成さない。俺はこの異世界に来てから、何も出来ていない。
俺は楽しく過ごしている。でも、この村に負担をかけているだけの役立たずだ。
眠れずにいると部屋の外に人の気配がした。静かに扉が開いて、灯りもなく軽い足音が近寄ってくる。ベッドにうつぶせに寝た俺の二の腕に、小さな手が置かれる。
「起きてる?」
さっきまで考えていたことが全部吹き飛んだ。フィエはおそらく身をかがめて、俺の耳元に囁いた。どう反応していいのか動けない。
こちらが黙っていると、そのままするりと隣に滑り込んできた。いやいやいやいやちょっと待て。何事だ。これは止めた方がいいのか。いや、でも……。
「……フィエ?」
ベッドの中でフィエと向かい合うように体勢を変える。
「起きてた? 起こしちゃった?」
囁き声が俺の胸のあたりから聞こえた。俺だけに聞こえるようにした声。
「起きてたよ。温泉入ったとはいえ、ちょっと筋肉が痛くて」
言ってから失言だったような気がした。……これって拒否のサインぽくないか? いやいや何を考えてるんだ俺は。……でも普通、夜中に、男が寝てるベッドに潜り込んでくるってことはその、そういう事なのでは。
フィエは小さく、おかしそうに笑って言った。
「山、歩き慣れてなかったもんね」
フィエは喋り終わると小さく、くすくす笑う。寝間着越しに俺の胸板をフィエの細い指でなぞられる。
「ほら、脚だけじゃなくて、この辺りも疲れてそう」
俺の痛む筋肉を指で突いて、フィエは含むように笑う。……さすがにこの、なんというか挑発的すぎやしないだろうか。
普段のフィエは素直で優しくて、こちらに色々気遣いしてくれる娘だ。でも今日一日のことや、この悪戯っぽい仕草はなんなんだ。そう思うと緊張した気持ちが少し薄れて、ちょっとムッとした。……フィエ、こっちがヘタレとはいえ、さすがにやりたい放題しすぎだろ、これは。
何かやり返そう、フィエがこんな悪ふざけをしてくるなら、こっちだって……。俺はフィエが悪戯する手を抑えるよう、抱き寄せてみた。
抱き締めた俺の腕にフィエの小さな驚きを感じる。でも、抵抗している感じがない。少しの間がある。
「……歩き疲れてるでしょ。ほら、疲れてるよ」
言葉に合わせてフィエは俺の太ももを触ってくる。俺の疲れた腿に這うフィエの指が心地良い。……ちょっと待て。フィエが止まらない。止まる様子がない。
「まだまだコバタは狩人には遠いかもね。もっと歩けるようにならなきゃ」
だから、その小さく含むような、くすくす笑いやめてほしい。次の行動を要求されてる気がしてしまう。珍しく勢いに任せたものの、なんだ……困る。
どう答えていいか分からなくて、なんだか間が持たない。パッと思い付いたことを言ってしまう。
「俺は、この村でお荷物になってないか……?」
今の場面で言うべきじゃない言葉、変な言葉が出てしまった。さっきまで考えていたことが、間違って口をついて出てしまった。こんなこと言ってもきっとフィエを困らせるだけ。でも……そうだ、村の役立たずの俺がフィエと……そんな風になるのは、おかしい。
「コバタはそんなこと思っていたんだ。……もしかして今も、なの?
わたしがここにいるのに?」
「……フィエにも、無理をさせてるんじゃないかって」
「……もぅ、信じられないこと言うんだね、コバタ。
じゃあこれで、信じてくれる?」
フィエは、俺の胸板に顔を押し付け、ぎゅっと抱き返してくれた。……俺にはよく分からないが、俺には価値があるらしい。
(略す)
「フィエ、結婚しよう」
俺としては、これは終わった後ではなく先に言いたかった言葉だった。婚前交渉を否定するつもりはないが、少なくともフィエはこちらの慣習上、成人に達している。責任は取る。……むしろ結婚したい、責任を取りたい。取らせてほしい。
だが、フィエから帰ってきた言葉は意外なものだった。
「うん、できたらいいね」
「…………?!」
頭が真っ白になる。……えっ、どういうこと。俺のプロポーズの言葉が……拒否されたのかこれ。え? え?
「……気が早いよコバタは」
フィエの言葉に更に信じられない気持ちになる。……どういうことだ、どういうことだ、どういうことだ……。
フィエは絶句している俺を見て、何かに気付いたようだった。
「あれ……? もしかして……コバタの世界とは『結婚』の意味合いが違ったりしない? 単語じゃなくて、内容を話してみて。
前にもあったじゃない、言葉の中身が違うことって」
……そうだ、確かにあった。幾つかの単語の意味合いが違ったこと。ここは異世界だから文化が違うんだ。
「ええと、俺の世界では愛し合った二人が『法的な機関に行って入籍の手続きをする』……そういうことになるのかな」
「んー、それって子供が出来ていなくても出来る事なの? だとすると、こちらだと『婚約』にあたるのかな。教団とかの宗教施設でする。個人間の約束でも有効ではあるけれど。
正式な『結婚契約』は子供を授かってからになるんだ」
「え、そんな感じなの……?」
出来ちゃった婚ならぬ『出来てから婚』なのか、こちらの文化って。
「ええと……物事の成り立ちって説明が難しいね。
……よく、子供が産まれないことがあるの。
単に男女の体どちらかに不調があって上手くいかないこともある。地の毒が、河に混じって起こることって推察されている。
他にも『どういうわけか相性が悪くて』子供が産まれないこともあるんだ。本当に不思議なこと。他の人と結ばれると、男女ともに問題が起こらないケース。これは『地母神様の怒りを買った』みたいに言われたりするよ。
結婚って財産が関わってくる関係上、正式に『結婚契約』を取り行って認められたら不可逆のものだから、慎重にもなるんだよ」
フィエの説明は、文化の違いをハッキリと示していた。……かなり……何と言うか、実務的というか財産分与を主眼に置いた制度に思える。俺としては結婚って『愛し合っていればOK』のはずなんだが。
「……ってことは、今の段階だと『婚約』止まりなの?」
「そうなるね。……結構、コバタの世界とは違うこと、多いんだよ。
わたしやおじいちゃんが、コバタの世界のこと、あまり聞かない理由も話すね。
……前に来たって言い伝えられている『迷い人』は、そういった内容の差をどうしても受け入れられなかったらしいんだ。
つまり、身体はこちらにいるのに、心は決して『こちらには来なかった』
その原因は『昔、この村の人があれこれと迷い人にあちらの世界のことを聞いてしまった』からだってされてる。そんな風にしたことが、向こうの世界を思い出させ過ぎてしまったからだって。
おじいちゃんはコバタに『昔の迷い人は、流行り病で死んだ』って言ったんでしょ? ……違うの。もっと別の、割り切れない心が、そうさせたの」
フィエが話した内容は、俺にとっていろいろと衝撃的だった。……価値観を受け入れられないで、心を病んでしまったということなのだろうか。
「……俺は大丈夫。受け入れる。
言葉の違い、段取りを一つ多く踏むだけ、って思えばいい。
じゃあ、フィエ。改めて言う。
俺と婚約しよう」
「……うん、婚約します。
じゃあ、わたしからも言うね。
コバタ、わたしはコバタと婚約したい。
返事を、貰えますか」
「ああ。俺はフィエと、婚約する」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます