たてがみ

多田いづみ

たてがみ

 はじめて彼女と夜を過ごしておどろいたのは、彼女の背中にたてがみが生えていたことだった。といっても、馬みたいに長くて立派なやつではなく、細く柔らかいうぶ毛が、首の付け根から腰のあたりまで、背骨を覆うようにうっすら生えている程度ではあったが、彼女の肌はとても白かったからよく目立ったし、例えるならば、やはりそれはたてがみとしか言いようのないものだった。


「わたしのこと嫌いになった?」と不安げなかおで彼女が訊いてくるので、ぼくは「いや、そんなことはないよ」と即座に否定したものの、正直なところ、いいとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか、そうした判断がくだせるほど落ちついてはいられなかった。それよりも、おどろきのほうがはるかに勝っていた。


 彼女の話によると、たてがみが生えはじめたのは思春期のころだったらしい。

「わたしって、子どもの頃はけっこう期待された水泳選手だったのよ。ブレスト(平泳ぎ)のね。毎月のようにタイムを更新して、それが世代別の新記録だったり、もうとにかくすごかったの。それから背が伸びて、たてがみが生えるようになって、でも毎日泳ぐのに必死だったから、そんなことで悩んでるひまはなかった。ただのムダ毛だと思って、母に切ってもらってたわ。自分じゃ手が届かなかったから。切ってしまえばどうってことない、ぜんぜん大したことじゃなかった。けれど、それからタイムが伸びなくなって、競技にもまったく勝てなくなったの」

「ふうん、どうしてだろうね」

「さあ、どうしてかしら。肉体的な問題だったのかもしれないし、精神的な問題だったのかもしれない。でもあとになっていろいろ調べたら、ほら競走馬っているでしょう? サラブレッドっていうのかな、けいば場で走らされるかわいそうなお馬さん。あれって、ぜったいにたてがみを切っちゃいけないらしいの。いちどでも切ってしまうと、もう勝てなくなるんだって。つまり、呪いみたいなものよ。わたしはたてがみを切ってしまったから、それで勝てなくなったのかもしれない」

「そりゃただのジンクスだよ。だいいち君は競走馬じゃない」

「そうね。たしかにわたしは競走馬じゃない。けれど、似たようなものだった」

 彼女は遠くを見るような目つきで、しんみりといった。


 ぼくは彼女の気持ちを察して、慎重に訊ねた。

「もしかして嫌いだった? 泳ぐの」

「嫌いじゃなかったわ。つらくて苦しいこともあったけど、がんばればそのぶん結果が出たし、いいタイムが出たときはうれしかった。得意だったのよ、泳ぐことが。わたし、イルカみたいに速かった――」

 そう言って、彼女はベッドの上で長くてかたちのよい脚を天井に向けて伸ばし、前後にうごかしてみせた。その動きは、たしかに水族館で見たイルカの泳ぎみたいになめらかで、力強く、美しかった。そして、はたと脚の動きを止めると、

「――でもそれからはもう、ずっとだめ。いくらがんばっても勝てなかった。それできっぱりと泳ぐのをやめた」


「いまは泳いでないの?」

「泳いでないわ。ぜったい泳ぎたくないってわけじゃないけれど、いろいろとめんどうだから。泳ぐんなら、まずは背中のこれをどうにかしないとね。いま、母はとおくに住んでるから頼めないし」

「じゃあぼくが切ってあげるから、夏になったら海に行こうか」

「ほんとう? うれしいわ」

 彼女は思いのほか、ぼくの提案を喜んだ。泳ぐのがひどいトラウマになっているのかと思ったら、そうでもないらしかった。


 ぼくは、思いつきで海に行こうだなんて言ったことを後悔した。本気で言ったわけじゃなく、ただ彼女を元気づけようとしただけなのに、たいへんなことになってしまったと思った。

 というのも、ぼくは泳ぎが壊滅的に下手だったからだ。まったくの金づちというわけじゃない。ちょっとは泳げる。でもいくら手足をバタバタやっても、なかなか前に進まないのだ。水泳の授業では、泳いでいるのか溺れているのか分からないと言われた。もしも泳ぎの得意な彼女に深いところまで連れていかれたら、ほんとうに溺れてしまうかもしれない。


 ぼくはなんとか約束をなかったことにできないかと考え、ちょっとした脅し文句を語った。

「でもたてがみを切ったら、また呪いにかかっちゃうかもしれないね」

「だいじょうぶよ。呪いは一度かかったら解けないし、もうこれ以上かかりようがないんだから。それに呪いにかかってるといっても、たぶん、あなたよりずっと速く泳げると思うわ」

「それはまちがいないな。ぼくの泳ぎは、とにかく悲惨だから。きみが競走馬なら、ぼくはさしずめロバってところだ」

「そんなにひどいの?」

「うん、かなりね。ひとによると、ぼくの泳ぎは溺れてるように見えるらしい」

「じゃあ、わたしがイルカだとしたら、あなたは何かしら」

「なんだろう――マンボウかな」

 ぼくはちょっと考えていった。

「まんぼう?」

「畳みたいに大きくて平べったい魚だよ。からだが固くて尾びれがないから、まっすぐにしか泳げない。だから水族館とか水槽とか狭いところで飼ってると、壁にぶつかってよく死ぬ」

「ふうん、おかしな魚ね」

「不器用で、生命力が低くて、ちょっとしたことですぐ死んじゃうんだ。ぼくも不器用で生命力が低いから、きみが泳いでるあいだ、砂の城でも作りながら浜で待ってたほうがいいかもしれない」

「つまんないわ、そんなの。心配だったら、浮き輪を使ったらいいでしょう。なんだったら、わたしが引っ張ってあげてもいいし――」


 ぼくは、自分が浮き輪につかまり、彼女に引っ張られながら泳ぐところを想像してみた。大の男が浮き輪を使うのは、さすがにみっともないような気がする。

 しかしいっぽうで、ぼくはなんにもなしで泳いだら、溺れているようにしか見えない男である。みっともなさで言えば、どっちもどっちかもしれない。


 その夜の睦言は、なんとなく、そこで途絶えた。

 海に行く約束は、けっきょく撤回できずじまいだった。彼女はぼくに背を向け、しずかに寝息を立てはじめた。


 ぼくもゆっくりと夢のなかへ落ちてゆき、いつの間にか、ぼくと彼女は海で泳いでいた。日差しはやさしく、波はおだやかだった。夢のなかのぼくの泳ぎは、そんなに悪くなかった。なめらかに水をかいて、すいすいと泳いだ。

 ぼくはマンボウになったりロバになったり、彼女はイルカになったり競走馬になったりしながら、藍色のあたたかな海の底に、深くもぐり込んでいった。

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たてがみ 多田いづみ @tadaidumi

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