第2話 その名は九葉

 誰に言っても信じてはもらえぬ。両親が、巨大な狐に喰われて死んだことなんかは。狐は「これは復讐だ」と告げ、去っていったことを。あえて雄太郎と、妹は殺さなかった。

 生き地獄を味わせるつもりだったのだろうことは、怒りに染まる金色の目を見れば明らかだった。


×


 視界に光が差し込んできた。頭をぼんやりとした鈍痛が支配し、全身が痺れたように感ぜられ満足に動かせない。

 それでもなんとか指先に力を込めると、誰かに膝枕をされていることがわかった。膝枕なんて、いったいいつぶりだろう。そんなことをしてくれる人がいたことも、そしてこれからできることもないと思っていただけに、ここは死後の世界だと思う。

 だがそれとは関係なく意識レベルは徐々に回復していき、五感が返ってきた。

 腐った血と、吐瀉物の匂い。目を覚ますと、美しい女が膝枕をしていて、顔を覗き込んでいた。


「ようやく起きたか小僧。日が昇りよったわ。……気分は」

「悪くない……っ、あの、三人は」

「喰った。腹が減っておってのう。本当は貴様は楽に送ってやる気だったが、ちょいと厄介な事情があって殺せんかったのだ。許せ、死にたそうな顔をした小僧」


 雄太郎は女の言ったことを半分も理解できなかった。三人を喰った? どう言う意味だ? それに自分は確か、頭に強い衝撃を受けて視界が真っ暗になったはずだ。あれが俗にいう命の終わりであることは、明らかだったろう。

 はたと視線を巡らせれば朝日が差し込んではいるが、薄暗い路地裏であり、そこには自分を殴るのに使った金属バットや角材が転がり、そこには自分のものと思しき黒く乾いた血が付着している。

 周りには三人分の衣服と靴が転がり、それはあの若者が身につけていたもの——のように思う。


「あなたは?」

「自分から名乗るのが礼儀ではないか? まあよい、許す。儂は喰餓鬼という妖じゃ。人を喰い、殺す鬼じゃ」

「鬼……?」

「信じておらんな。どれ、見ておれ」


 女が髪の毛を自在に動かし、それを鰐の顎のようにしたり、剣のようにして振るってバットを切り裂き、雄太郎を撫でたりする。


「ヒトにかようなことができようか? できまいよ。で、お主は」

「磯崎雄太郎……喰餓鬼さんは……その、名前は? それは、種別の名称だろ」

「妖に名などない。好きに呼べばいい。人喰いでも、鬼でも、畜生でもな」

「それはあんまりじゃないか。……そうだな、九葉くようは?」

「九葉? まあよかろう。人の世で生きるには、そういう名もいるものな。……小僧、儂に欲情せんのか」

「別に……綺麗だなとは思うけど」


 喰餓鬼改め九葉は嘆息した。それから、乳首まで丸出しにしていた乳房を正す。


「端的に言うと、儂は自由になりたい。だが太古の陰陽師の呪いで、式神の身となり小僧の血で縛られておる。本当の意味で自由になるには、お主を懐柔して言いなりにせねばならん」

「俺を殺せば?」

「儂が消える可能性がある。それは困るのだ。それに、主人には術も効かねば危害を加えることもできん。術で操ることも殺すこともままならん。だから色仕掛けなりで落とそうと、胸を見せておるが、まるで無反応だな。ひょっとして女童めわらわか?」

「男だよ。そういうことに興味はなくはないけど、他人の人生に興味がないんだ」

「つまらん餓鬼だ。まあよい、して、貴様の巣はどこ——」


 そこに、足音が迫ってきた。

 やってきたのは警官が二人。青色の制服を着た、巡査だろうか。若い男と、少し年配の男。


「君たち、ここで何してるの……って、血まみれじゃないか! ここに不良が屯してるって言うけど、君、何があった!?」

「ひとまず、お家に連絡しようか。住所と電話ばんッ——」


 年配の警官の首が跳ね飛んだ。


「え、あ——ひゃっ、ぁ……」


 若い方が腰を抜かし、失禁する。やったのは他ならない九葉で、彼女は髪の剣を振るってそれで頭を包み込み、ついでのように首なし死体と若い警官を包み込み、圧縮する。モゴモゴと蠢く髪の塊が縦横無尽に跳ね回り、小さく小さく丸く圧縮された。

 雄太郎はそれを、特に何を思うでもなく見ていた。


「止めんのか。現代人はこういうのにうるさいんだろ」

「言っただろ。他人の人生に興味ないって」

「こりゃあ都合のいい主人だ。飯を喰う邪魔をせん男は、なかなかに良い。貴様も喰うか?」

「俺はいらない。人間が人間喰うと、病気になるんだ」

「酒呑童子殿を殺した頼光は女の腿の肉を喰ったそうだがな」

「鬼を騙すためだろ」

「酔わせて騙して首を奪るなど、愚かな。鬼に横道はないのだ。このように、堂々と殺して喰えばよい」


 圧縮し終わった球体を手元に持ってくると、九葉は赤黒いそれを丸呑みにした。

 衣服だけを髪からぺっと吐き出す。


「これはピストルとかいうおもちゃか? 面白い、もらっておくか」

「そんなのに頼らなくても充分だろ」

「面白いおもちゃだ、持っておきたい。射的に使えるやもしれんだろ、はは……ヒトを矢で射る遊びはなかなか愉快だったな」


 相当な人格破綻だ。今し方みた力も、そして性格も、人間ではないのは確かである。

 根本的に人間と価値観が違う。だから、人間基準の善悪などは、端から彼女を推し量る指標にすらなりはしない。


「で、貴様の巣は。あるんだろ、人間には」

「ある。……でも、この服で歩くのは」

「少し待て」


 髪が雄太郎を包み込む。ややあって、雄太郎の血まみれの服が吐き出され、黒い着流しに着替えさせられていた。


「今時の服はわからんでな、それでいいだろ。行くぞ。いつまでも外におると、足が棒になる」

「……ありがとう」

「礼を言われたのは初めてだ。なかなか悪くない、愉悦愉悦」


 かんらかんら笑う九葉を連れ、雄太郎は路地から出た。

 家を出る際に財布も携帯も置いてきたので、着の身着のままである。家の鍵も、持ってきていない。失うものなど何もないから、どうでも良かったのだ。

 そもそも夜の街を徘徊するのも、死に場所を探すつもりだったわけだし。


「面妖だ。ずうっとヒトの営みを見ていたが、実に面妖だ。鉄の猪に鉄の馬が走っておる。だが、人間がわんさかいる。喰うには困らんな」

「車と、バイクね。現代の知識があるのは、九葉は意識だけは自由だったってこと?」

「完全ではないがな。ある程度観察はしておったし、知識はあった。貴様が血を注がねば、どうなっていたか」

「あの祠か。祠を壊してどうこうみたいなのが去年流行ったけど、壊してたらどうなってた?」

「さあな。甦ったかどうかさえわからん。ひょっとした、そうやって消えた同胞もいたやもな」


 街は通勤ラッシュを過ぎていた。雄太郎は街頭モニターの時計で、今が午前十時過ぎだと知る。

 今日は金曜日。高校がある。だが、行くことは滅多にない。行けば、また無遠慮で不躾な目で見られ、奇妙な珍獣を見るような目で観察される。


「お主、その右目は?」


 雄太郎の右目には、爪で引っ掻いたような歪な傷が一本、走っていた。


「十歳の頃、潰された。デカい狐に。……ひょっとしてあれも、妖怪?」

「かもな。陰陽師どもが、一千年もすれば封印が解けるみたいなことを言っておったが、なるほどそういうわけか。……儂に先んじて目覚めたやつらもおるわけだ」


 二人はスクランブル交差点を抜ける。すれ違う人間を、九葉は「蛆のように湧きよるわ」と気色悪そうに吐き捨てた。

 やがて高架道路沿いのアパートにたどり着いた。鉄筋コンクリート製、四階建て。ワンフロア二部屋の築十年のそれ。


「ここの四〇二号室」

「親は? 餓鬼では一人で暮らせんだろ」

「十歳の時、その狐に喰い殺された。叔父さんが借りてる別宅で、普段叔父さんはあちこち飛び回ってるから、ここ五年会ってない」

金子きんすは」

「叔父さんが振り込んでくれてる。何してるか知らないけど、お金に困ったことはないってさ」

「融通の効く立場か。つくづくもって悪くない」

「おかげで俺も、悠々自適に過ごせるよ」


 そのせいでのっぺりした日々だけど。

 ただ、九葉という存在が、もうそれを許しそうもない。

 この女が、社会正義に照らし合わせれば極悪に尽きることは確かだ。五人の人間を殺し、喰ったのだ。日本の量刑相場では三人殺せば死刑は確実である。自分も、幇助した罪で逮捕され無期懲役か、その辺だろう。

 けれど雄太郎には、九葉が「悪」に思えない。

 そもそもの価値観が違うのだ。人間と妖怪なのだ。当然である。人の方が獣に適用されないように、人の正義が妖に通じるはずがない。


 ドアを開ける。空き巣の気配はない。九葉は足に覆っていた黒い足袋を解いた。あれも髪の毛なのだ。


「九葉って、ひょっとして元は髪鬼?」

「よくわかったな。そう呼ばれていたこともあった。誰の怨念が儂を生んだかは知らん。怨念の集合かもしれんしな」


 九葉は赤と黒の着物も解いた。一糸纏わぬ姿。赤ん坊の頭くらいはありそうなたわわな乳房が、きたての餅のようにたわみ、少しくすんだ桃色の乳首が形よく上を向く。乳輪は大きく、股は陰毛隠れ見えない。


「湯殿はどこだ。儂はゆあみがしたいぞ」

「風呂ならそこ。使い方わかる?」

「わからんふりをして貴様を誘惑してもいいぞ」

「わかるんなら勝手に使ってくれ」

「女が誘っておるのに、つまらん男だ」


 雄太郎はリビングに向かった。キッチンに入り、冷蔵庫から惣菜パンを取り出すと、袋を破いて齧る。安いチョリソーサンドだ。美味くも不味くもない。味覚というものが麻痺して何年経つだろう。甘い、辛い、塩っぱい、苦い、とは認識しても、それが美味いのか不味いのかわからない。なんでも美味いと思う馬鹿舌とも違う気がする。

 紙のパック牛乳を直に口をつけて飲み干し、雄太郎はふっと解けて消えた着流しをちょっと惜しく思いながら、九葉が風呂を出るのを待った。


 風呂から上がった九葉は着物姿で、髪もすでに乾いている。


「なんだちんぽ丸出しで。口淫でもしてほしいか」

「違う。俺が風呂に入るの」

「してほしければ命じるがよい。儂は逆らえんからな」


 ニタニタ笑いながら九葉がリビングに消えた。

 雄太郎は着替えを抱え、ため息をつきつつ風呂に入るのだった。

 風呂に入っている間九葉が何しているか気になったが、現代の知識があるならインターネットと繋いだモニターでネット配信でも見ているだろう。この家にはテレビなんてないから、公共の電波は受信できないが、ネット配信サービスのネットモフリックスと定額契約を結んでいるから、映画やドラマ作品を見放題だ。


 体を改めると、傷がなかった。

 打ち身や、切り傷なんてのもあったが今はない。バットで殴られた左の側頭部を撫でるが、凹んでもいなければ痛みもない。

 妖怪の力で治されたのだ。

 あのまま死んでいればどうなっただろうか。雄太郎はそう思って、少し残念に思った。


 ——死にたくない。

 あの時そう思ったのは、なぜなんだろう。この世への未練? 肉体や意識が終わることへの恐怖? 生命としての個体維持本能?

 いずれもが正解のようで、いずれもが外れている気がする。

 生きる意味があると、そう思っているのだろうか。自分なんかに。だとしたら、それは……人喰いの妖怪が、大勢を殺す手助けをすること? 大した理由だ、大量虐殺の加担者として歴史に名を残すことになるのだ、自分は。

 もっとも、に何を思うでも、ないが。


 風呂から上がってバスタオルで水気を拭って、夏物のパーカーとストレッチ素材のジーンズに着替える。

 鏡に映る顔は相変わらず死人のそれ。生者が持つべき活力というか、生命力というものが欠如している。顔にハリがなく目が死んでいて、疲れて倦んだ表情が滲んでいる。

 雄太郎はそんな自分を直視することが馬鹿らしくなり、洗面所を出た。


「おい、観光案内しろ」


 風呂場から出るなり、九葉が廊下に仁王立ちしてそう言ってきた。


「勝手に一人で行けばいいだろ」

「貴様から離れすぎると力が弱まる。それに土地勘がない。狩場の事は知っておかねばな。行くぞ、連れて行け」

「……わかったよ」


 傲岸不遜な九葉に急かされ、雄太郎は誰からも連絡が来ないスマホを充電器から外しポケットに突っ込み、財布と、家の鍵を持って家を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

獄門妖怪戦域 — デッドスウィート・ナヰトメア — 夢咲蕾花 @ineine726454

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画