獄門妖怪戦域 — デッドスウィート・ナヰトメア —
夢咲蕾花
第1話 喰餓鬼の目覚め
——よもや、儂がヒト如きに遅れをとるとはな。耄碌しようたか。
——
——ヒトなど、儂に何をもたらす? 貧弱で群れることしか知らぬ貴様らに、儂を満たす方法があるとするならば、供物となり喰われることだけだ!
陰陽師は術を強めた。霊力で形成した巨大な刃が、首に擬せられる。
——千年もすれば、貴様はまた甦るだろう。その時こそ、知らねばならんのだ。
——何をだ。儂に知らぬことなどない!
——愛を。愛を、知らねばならん。お前たち妖怪は、愛に飢えればこそ、人を襲う。
——くだらん! そんなもので、腹が膨れるか!
陰陽師は最期の時を見届けんと、目を開いたまま刀印を振った。
刃が落ちる。喰餓鬼の首が転がり落ち、その顔には、最期まで人間を嘲った笑みが浮かんでいた。
×
コンビニで万引きと間違われたことがあったし、拾った猫が飛び出して逃げた先で車に轢かれ、動物園ではゴリラに糞を投げつけられた。
そして幼くして両親と死別した。
ついでに言えば、サメだかなんかにも襲われかけたことがあるらしい。
けれど何よりも雄太郎に牙を剥いたのは、無理解な他人の、無遠慮な視線だった。
とにかく、恥の多い人生だったように思う。モルヒネ中毒だった大庭葉蔵ほどではないにしろ、十六年という決して無駄にすべきではなかった時間を、馬鹿なことに割いた。
いや、馬鹿なことかどうかさえ、定かではない。ただ、虚無だった。生きていると言うより死んでいないだけの、のっぺりとした灰色の日々。白でも黒でもない、どちらも選べないから、幸せとも不幸とも言えない人生。
選べない人生は、楽しくもなければつまらなくもない。ひたすらに無意味で、虚空をうろつくような、前に進んでいるのか後退しているのか、上っているのか下りているのかさえわからない。
言うなればそれは気色を失った視界だ。失血しすぎて色を失った視界がずっと続くあの感じ。色がないというのは白黒という意味ではない。白と黒すらないのだ。ただただ古い焼けついたフィルムを、品質の悪い映像機器で再生してひたすらに画質の悪いモニターで見ているような人生。
子供の頃の写真は、今も家の押し入れに入っている……と思う。もうずっと見ていないから確かではない。けれど中学生の頃、入学したてのときに見た三歳の頃の自分の顔は弾けるような笑みを浮かべ、犬のぬいぐるみを抱きしめていた。見る者を幸せにするような笑顔――と自分で言うのも口幅ったい話だが、そのように感じた。
あの頃は幸せの総量に限界があることを知らなかった。幸せというのはどこかから際限なく湧いてくるものだと思っていて、誰でも幸せになれるというその無謬性を信じて疑わなかった。
実際には幸せの量は決まっていて、それは、地球の人間が我先に奪い合っている。他人からも奪う。醜く、愚かに。
どうして争いはなくならないの? 幸せには決められた総量があるからだよ。みんな不幸でも幸せでもない人生が嫌だから、どっちかに浸るために争うんだよ。自分は、そう答える。
自分の幸せは、十歳の時に奪われた。
小学校の卒業写真は、打って変わって無表情だった。卒業式の集合写真では一人離れた場所でぽつねんと佇み、世間を倦んだような顔でカメラを睨んでいた。
中学生の頃の卒業文集は白紙で出した。気取っていたとか反骨精神とかじゃない。楽しいことも悲しいこともなく、書くべき内容が何一つ浮かんでこなかったからだ。先生に何か言われていた気がするが、何も言い返さず何も書こうとしなかった自分に折れたのは結局先生の方だった。
高校に入って、学生証のための写真を撮ったとき、これは死相だと思った。自分は死に引かれ、死に愛されている。
無、ですらない。終わり、の顔。
不気味なその顔を見た先生は、はっきりと顔を青くしていた。そのようにして、
路地裏で、ガラの悪い若者が一人の少年を——他ならぬ雄太郎を殴り飛ばして、転がった彼の髪を掴んで立ち上がらせた。
雄太郎は殴られている、と思い出した。記憶がわずかに飛んでいた。視界はグラグラに歪んで、口の中には血と吐瀉物の味。嗅覚は、鉄のにおいに満たされている。耳鳴りが止まない。
なんでこうなったんだっけか……ああ、そうだ、女の子が路地に連れていかれそうになっていたから、それを止めたら、こうなった。なんであんな馬鹿なことをしたんだろう。無意識に、漂ってくる死の匂いに惹かれたのだろうか。
若者は明らかに酔っており、行動に制動が効いていない。本当に殺される、と思った。思っただけで特に抵抗するでもなく、雄太郎はぐったりと手足をぶら下げる。
雄太郎は他人事のように自分の死を俯瞰し、ぼんやり、死とはなんだろうと考える。
生命の終わり。物理現象のように、電気的刺激が途切れただけの機械のようにプッツリと終わるのか。電源が途切れたモーターが止まるように、命は終わる。ではこの意識は、魂というものはどこへ消えていくのだろう。よもや、永久に虚無に囚われることはないだろうが、自分のように適当に生きてきた人間は、地獄行きだと思った。
死にたくないなあ……と、ぽつりと思って、それが、やけに不思議だった。
この世界で生きる意味など、あると思ってもいない俺が……なぜ。死んでいないだけじゃなかったのか? なら、死んだところでなにも――。どうして、死にたくないんだ?
「おらっ、死ねやカスが!」
雄太郎は投げ飛ばされ、路地の先にあった奇妙な祠の前に投げ出された。
祠は、その存在を不気味に主張していた。石灯籠のようなもので、別に扉もお札もない。何を祀っているのか、いつからそこにあるのかわからない。何やら石のくぼみがあって、そこに何かを捧げるようだが、何を捧げるのかはさっぱりだ。
次の瞬間、若者が振るった金属バットが雄太郎の頭をぶち抜いた。
ごちゃ、っと嫌な音。頭蓋が砕け、陥没したのだろう。側頭部が歪み、祠に頽れた雄太郎の耳と鼻と口から、どろどろした黒ずんだ血が溢れる。
「お、おい……やべえんじゃねえの」
「おっ――お前らがこのガキ連れ込んだんだろ! 殴ったの、俺じゃねえし!」
「し、死んでねえよな……?」
三人の若者はそれぞれ手にしていたバットや角材を取り落とし、狼狽はじめた。
そのとき、雄太郎の新鮮で濃い血が、祠のくぼみに満たされた。
――嗚呼、幾歳月ぶりか……血じゃ、新鮮で、美味い血じゃ。かように美味い血は、いつぶりじゃ。
「……? お前、なんか言ったか?」
「いや……」
「よ、酔ってんだって。このガキも、酔って見てる夢だろ、はは……」
――若いオスが三匹。供物には、ちょうどいい。
祠から伸びた真っ黒な影が、若者をまとめて飲み込んだ。
悲鳴が一秒にも満たぬうちに包み込まれ、影がもごもごと蠢く。影は、大量の髪の毛だった。髪が縦に、横に伸び縮みする。その都度肉が潰れ、骨が砕け、塗れて壊れる音が響き渡る。やがて影は小さな五センチほどの丸い塊になり、解けた。
そこにあったのは、赤黒い真四角の球体。肉と血と骨が圧縮されたものだった。
祠から全裸の髪の長い何者かが歩み出て、その球体を拾い上げると大口を開けて、べろりと舌を出して味わうように丸呑みにした。
艶やかな黒い髪、血のような赤い目。髪の内側は、真紅に染まっている。対してゾッとするほどに青白い肌と、肉感的な肢体。全裸だが髪の毛を操って黒と赤の着物を形成すると、自分が眠っていた祠を睨んだ。
「ほほ……死肉? いや、半分生きておるか。この若造の血で封が解けたわけか。……礼だ、今楽に送ってやる。喜べ」
女が雄太郎に、剣に変えた髪を振り下ろした。しかし、次の瞬間それは青白い閃光に阻まれる。
「これは……。なるほどな、糞陰陽師め……この儂を式神の身に落としよったか!」
すなわち――さっきまでタコ殴りにされていた虚弱な少年が、女の主人なのだ。
平安の世を暴れ回り、千の人間を喰らった喰餓鬼たるこの儂が……こんな糞餓鬼の式神だと?
首を落とされ、晒され、魂を抑留されさらにはこの仕打ちか……!
「起きろ、餓鬼。まずは貴様を懐柔するところからはじめねばならんようだ。どれ、命くらいは救ってやらねばな。貴様に死なれては儂の自由がフイじゃ」
女はそう言って人差し指を噛み、皮膚を破るとその血を雄太郎に垂らした。
見ているものは誰もいない。ただ、金色の満月だけが、じっとその様子を見下ろしている。
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