非現実製の扉

@shinanaide

プロローグ

0.プロローグ

 誰もいない個室、決まった時間以外に開くことのない横扉。わたしを縛り付ける忌々しいこの四十六号室には、今日も今日とて見舞いの一人も来なかった。外では何かが起こっているようだが、分厚い強化ガラスはサイレンの一つも通さない。もはやうるさく感じられるほど聞き飽きた空調の機械音と、微かな風になびく仕切りカーテン、ベッドが僅かに軋む音、布団と病院着の衣擦れの音だけが、わたしに時間を感じさせた。

 こんなつまらない空間にも起こる変化が二つある。一つは定期的にやってきてはつまらなそうな顔をして去っていく看護師で、もう一つは周囲の部屋に運び込まれる患者とその関係者の喧騒である。ただし、わたしはつまらないとは思うものの、この無音、無変化を嫌っているわけではない。むしろこの二つの変化のほうこそ、わたしからすればうざったいのである。

 しかし、今日この日の変化に関しては、2年という歳月をこの部屋で過ごし、多少のつまらない変化を経験してきたわたしからしても、驚かざるを得なかった。いや、実のところ何が起こっているのかは分からない。ただ、いつもなら1時間おきに来るはずの看護婦が現れないこと、数時間前にやたらと騒がしかった廊下が、不気味なほど静かになったこと、わたしの羸弱ルイジャクな視力でも分かるくらいには、外の様子がおかしいこと。具体的には、窓に血が伝っているように見えること。これらの条件が揃っていて、驚かない人間などいないだろう。今すぐにでも状況を確認すべきなのだが、わたしは重病患者。だからといってどうすることもできない。足は満足に動かないし、口もまともに開かない。寝返りを打つのだって一苦労な体では、外の様子を確認することなどできるわけがない。こんな状況では、普通の人は恐怖するのだろうか。不安に怯えるのだろうか。恐らくそれが正しいのだろうが、私の心は凪いでいた。というよりも、内心少しワクワクしていた。不謹慎だとは思う。血が流れている以上、いいことではないのだから。しかし、しかしだ、この不変そのもののような部屋にやってきてから、2年という歳月を過ごしてきて、初めての経験ができるかもしれないのだ。ついに訪れた変化なのだ。それも予想の範疇を超えた、何かが変わるかもしれない異常事態なのだ。勿論ただの思い違いかもしれない。平均的な一日を変に特別だと思ってしまっただけかもしれない。二年という年月がわたしを、そんな痛いやつにしてしまったのかもしれない。だけど、だけれども、期待せずにはいられなかった。この、何かが起こるかもしれないという予感を、信じたかったのだ。

 そうして彼女は立ち上がった。点滴にしがみつきながら、重い扉に手をかけ、全身で開けて、おぼろげな足取りで病室を出た。窓の外には微かに火が見えた。顔を近づけると悲鳴が聞こえた。階段の下には煙が見えたから、点滴を外して階段を上がった。屋上につながる重たい扉には鍵がかかっていなかった。普段ならかかっていると、隣の老人のお孫さんが言っていたはずだが、どうやら今日はその限りではないらしい。体重をかけると扉は音を立てて開いた…。

 空気が変わった。やけに美味しかった。茜色の空だというのに雨が降っていた。目がはっきりと見えていた。激しい豪雨の音がした。ここまで自分の足で来れていた。気づくと叫んでいた。このわたしが。もう二年以上口の利けなかったわたしが。なんとも表現できない叫び声を上げた。嬉しかったのか、悲しかったのか、それとも虚しかったのか。久々に声を出したから、か細い、騒がしい教室なら誰も気しないくらいの声量で。そんな声を聞きつけた誰かに、背中を押されて倒れてしまって、立ち上がることもできなくなって、わたしの意識は遠のいていった。痛いとか、苦しいとか、そんなことよりも、ただ悔しいという気持ちでいっぱいだった。もっと早く歩けばよかった。もっと早く叫べばよかった。もっと早く気付けばよかった。そしたらこんなにも長い時間、退屈しないで済んだのに。そう口にしたかしてないか、とにかくそんな事を考えながら、わたしの人生は幕を閉じた。とても短い十四年と、恐ろしく長い二年だった。

 

1.不謹慎な少女

 

 どうしてこんなにも世界はつまらないのだろう、と考えたのは、今年に入って九十八回目になる。なぜ覚えているのかって、毎日そう思っているからである。すなわち、今日が四月の八日だから、今日で九十八日目なのだ。新学期が始まって、何か面白いことでもないものかと思ったのだが、そりゃあまあ、そう簡単には面白いことなんか起きない。十六年間そうだったのだ。きっと十七年目もそうなのだろう。理性はそう言うのだけど、感情はいつも何かを期待する。そんな厨二心と裏腹に、今日も今日とて、平和で凡百な日常だ。新学期始まってまだ二日だというのに、教育体系の変化がどうとかで、普通にガッツリ授業が始まったもんだから、クラスメイトたちは皆死んだような目で数学教師の唱える呪文を聞き流している。いや、前半の条件は不要だったか。別に新学期始まってすぐでなくとも、数学の授業というのはよくわからないしつまらないのだから。そしてそんな不真面目なクラスの中で、ひときわ死んだ目をしているのが私である。正直、授業なんて教科書に書いてあることを先生が読み聞かせているだけだし、直前に多少詰め込めば赤点は取らないだろう。はっきり言って無駄だ。窓の外でハンドボールをしている体操服の集団も無駄。結論学校なんて行く意味ない。楽しくない。けれど、私の頭はそんな反骨心とは裏腹に、合理的なつくりをしている。だから学校にはちゃんと行くし、宿題は忘れないし、

「…みさん」

「ふみさん、ここ解ける?」

「…はい。」

教師の言うことには従って生きている。

 終業のチャイムが鳴ると、私は真っ先に学校を出る。当然部活動になど入っていない。せっかく自由になれたというのに、帰らないなんて意味がわからない。学校という社会の檻から解き放たれてようやく、私の一日は幕を開ける。つまり悲しいことに、私の一日は16時にようやく始まるということだ。

 かくして四月八日が始まったわけだが、学校を出て真っ先に行くのは自宅ではない。多くの学生が部活動に勤しんでいる中、制服姿のまま街に飛び出し、気の向くままに散歩する、というのが、私の最も愛する時間だ。だから私は学校を出ると、真っ直ぐ最寄りの大きい駅に向かい、私の知っている中で一番ひとけの少ない化粧室に入る。制服姿のままと言ったが、ただの制服姿ではない。そのまま出歩いてしまうと、スカートは長いし、髪型はダサいし、アクセサリーも付けられないし、それじゃあ制服の意味がない。その上、知り合いに会ってしまうと、実にめんどくさいことになる。せっかく可愛い制服なのだし、同級生からの身バレ防止のためにも、スカートは思いっきり上げて、髪はしっかりセットして、持ってきた小物でバッチリキメてこそ、女子高生として健全というものだろう。荷物は重いため近くのロッカーに預けておき、最小限の荷物だけ持ってとりあえず大きな街に移動する。散歩とは言ったが、ずっと歩くわけではなく、電車も利用する。そうでないと、毎日毎日同じような道、景色だけでは、つまらないにもほどがある。そんな感じで私は今日も、東京の街を歩いている。

 すると、ふと、見慣れぬビルが目に止まった。今日は特段いつもと違う道を選んだわけでもないから、この辺には見覚えがあるはずなのだが、こんなビルは見たことがない。こんなに大きな建物、見落とすはずがないのだが、どうにも記憶にない。それどころか、変な違和感を感じていた。見知った街を歩いていて、見慣れぬ建物があったとき、大抵の人は、「こんな建物あったっけ、いつできたんだろう」と思うだけ思って、すぐにその場を立ち去るだろう。私もそうだ。私もそうする。いつもなら、そうしただろう。ただ、どういうわけか、今日の私はこのビルの前を離れることができない。どうしても、この違和感を無視することができない。霊的なことを言っているのではない。金縛りとかそういうものではなく、一言で表現するならば、私はこのビルに運命を感じている。何かが変わる気がする。このつまらない世界が、面白くなる何かを感じる。気がつくと私は扉を開けて、無人のビルに入っていた。

 灯りはついていた。ひとけはないが、埃っぽかったりはせず、十分に手入れされている。内装は至って普通のオフィスビルという感じで、奥の方にエレベーター、左側には受付があり、白い壁には何も貼られていない。至って普通の建物だ。異様な感覚を除いては。

 どういうわけか、私の記憶は、私がこの建物を知っていることを示唆していた。多分、私は昔、ここに来たことがある。それも、この無人の状態で。何もかも見覚えがある。単なるデジャビュではなく、鮮明な記憶としてある。外観は見たことがなかったのに、内装は見たことがあるなんて、おかしな話である。私は、もはや懐かしさすら感じ始めていた。そして、私は記憶に誘われるように、四階へと足を運ぶ。エレベーターの扉が開くと、これまた見覚えのある廊下が待っていた。それを二部屋分歩くと、私の記憶に最も鮮明に残っている部屋の前にたどり着く。四十六号室と書かれたその扉から、何かが変わる音がした。

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