神父はサキュバスちゃんを殺人容疑から守りたい

七瀬雹

第1話、神父とサキュバスちゃん

『私はね、恋をするために、旅をしてまわっているんだよ』

『私ね、神父さまみたいな人、好きかも』


 最近知り合ったサキュバスの言葉だ。

 あからさまに好きと言われ、いつもつきまとってくる。なぜつきまとってくるのか最初は分からなかったが、今ではさすがにもう分かる。そして行動理由を理解した頃には遅かった。彼女が自分に熱っぽい視線を向けていることは今ならいくら鈍感なネイスでも分かったが、彼女のアプローチは執拗しつようだった。


 ネイスは神父だった。恋だの愛だのにかまけていい時間は一分たりとも無いのである。

 ああ、でも、あの大輪のひまわりのような笑顔。

 ネイス神父は自分がただの人間になってしまったような気がして、身震いをした。

 

 そして脳裏に焼き付いた彼女の笑顔を必死でふりはらいながら、奇声をあげるイヴィルダンゴムシなどの害虫をこまめに取り、すくすく育つ野菜用の肥料スプレーを地面にかけ、肥料になる丸くて白い薬の粒をきながら大切に育てている冬野菜たちを見た。野菜を見つめながら、……いままで時間をかけて作り上げてきたものを数え直しながら、まだ若い神父は心を落ち着かせようとした――。



●  ●  ●  ●  ●



「でも、今年も、もうこんな季節になりましたねぇ……」

 赤く紅葉した山、見事な黄色やだいだいに染まった山が、次第に枯れたような寂しい色になってから久しい。そろそろだ。山の一面がぴかぴかと白く輝く、厳しい冬がやってくる。


 そろそろ日めくりこよみ帳を買わねばならない。来年がやってくるからだ。今年もあっという間だった。成人を迎えてからというもの、一年が終わるのがあまりに早く感じる。


(このまま、あっという間にお爺さんになってしまうのですかね……)


 青年は、ほう……と淋しげに、でもどこかなんだか嬉しげにため息をついた。

 それを遠巻きに見守るとある娘の熱い視線には、まだ気づいていない。



「ア。……水道の蛇口、きちんと締めましたっけ……」


 ふと、菜園の野菜に水をやりながら青年がつぶやいた。たぶん締めていたと思うが、最悪の場合、かなり多額の水道代を請求されることになるかもしれない。そうなれば、水道出しっぱなし事件の犯人になるのはこれで3度目なのでお小言を貰うだけでは済まず、給料から水道代を差し引かれる可能性がでてくる。

 

 今どきは人権関係が厳しい。ありがたいことに師弟関係などでも(お互いが平民以上の身分であれば)人権が大切と叫ばれるようになった時代である。さすがに罰するために血が出るまで背中を鞭打たれたりはしないことを、ありがたく思うべきか。



「うーん」


 悲しいかな、神父といえど給料で生活することには変わりない。雇われ兵士みたいなものと同じである。そして『あまり、お金のかかることはしてはいけない』というのは、この教会で働く神父・神母のモットーのひとつだ。仕事も神に祈るだけで済むのなら良いのだが、そうは問屋がおろさない。

 

 北の大将軍と呼ばれる生ける伝説であり、国民が愛してやまないヒゲおじさんことビェーネフ国王陛下に支払う宗教法人団体税の支払いだとか、それとは別の戸籍人民税だとか、教会本部に請求する『村人にお説教のときに配るりんごを混ぜた小麦粉焼菓子を作る費用』だの、同じく『村人にお説教のときに配るりんご味の酒粕さけかすの飲み物代』の請求のために店で貰った請求書を取っておいてまとめたり、教会本部に送る報告書を書いたりだの、いろいろとややこしい。



 そして繰り返しになるが、この村にある唯一の天使崇拝教の教会にはあまり金銭面での余裕はない。

 金の関わることについてはどうしても現実的にならざるを得ない。

『まあいっか』で許してもらえるとは到底思えない。


 まだ若い神父は慌てて道を戻ると、教会の敷地内にある菜園用の水道を確認した。

 硬くしまっているようだ。確かめるために少し触ってみると、あまりにきつく、キュッとしまっていた。


(よかった……。天使様、感謝します)


 ここは村だ。山の近くにある小さな村落である。金が無いのは教会だけではない。村全体が貧しい。よその村のように『魔物や襲い来る異民族をえんやこら! と退治してくれる勇者様の生まれの地』だのなんだのと、観光資源になりそうな物語や風景や伝統的ご飯もない。

 

 あるのは苦くてしぶくて都会人が嫌う山菜と、飼われている何の変哲もないにわとりとヤギ、まずくて不衛生なにごり酒に、つまらない昔話と昔からのしきたり、迷信、山と岩、冬の間は雪、あとは顔の似た村人たちだけである。


 もっとも、まだ若い神父はここでの”良く言えば清貧せいひん”かつ悪く言えばみすぼらしい暮らしを痛く気に入っていたのだが……。



 まあとにかく。

 自分の罪悪感をぬぐったり、自分の行った罪ある行為を無かったことにするためにと財産の一部を喜んで教会に喜捨きしゃ(※寄付)するような有り余った金を持つ裕福な人々は、都会にしか居ないのだ。この村の半分の人々はその日、晩ご飯にパンや肉や魚をお皿に乗せるだけでも、どちらかといえば苦労している。

 もっとも、このあたりは畑が多い。苦くてえぐい山菜のたぐいとネチャネチャした食感の冬野菜のたぐいなら、腐るほどあるのだが……。



 細身の青年が着ているのはまるでワンピースのような黒くて長い服。その下からは白いズボンが覗く。この国での聖職者……いわゆる神父の格好である。硬そうな革靴には泥が少しこびりついていた。

 

 ぴゅうう、と風が吹いた……。

 

 青年は、とても生真面目な性格だった。まるで時計のように規律正しく欲の少ない青年は、神父としても生真面目だった。

 


『ついこの間までは』というただし書きがつくが。


 

 漆黒の髪は特別丁寧に扱われている訳でもないのに、なぜかうっとりするほど艶めいている。そして瞳は夜の闇色だが、この村でよくありがちなはずの黒色なのに、それがなぜか――行き交う人々の目を釘付けにしてしまう、妙な魔力めいた力があった。

 

 まるで幽霊の女のように青白い顔。

 猫のような形のすこし吊り上がった大きな目はぱっちりとしている。

 唇がとても綺麗な形をしていた。

 細い眉毛は凛々しい形。鼻筋がまっすぐだ。


 なんとも言い難い魅力的な雰囲気だった。品行方正。すこしおっちょこちょいだが、みなが彼を愛していた。『静かで穏やかな思いやりのある子』と前の教会の院長はそう彼を評価した。

 きっと、悪魔ですらこの子のことは愛そうとするだろうと前の教会の年上の神母たちや修道女たちが言ったこともある。



――見てくれだけで言えばなんだかいっそのこと、悪魔にでもしたほうが良さそうな美青年だよと村の人々は言うのだが、そう言う村人の口元にはにこやかな笑みがたたえられ、素朴な顔つきの村人たちの目には、きらきらと彼への強い好意や一方通行な愛情が輝いた。



 彼を愛するのは、ただし、村人だけではない。



「神父さまっ!」

 娘が後ろから、ひょこっと現れた!


(……なっ……!)


 まだ若い神父は身構えた。思わず、服の布に包まれていても村の男と比べるといくぶんか華奢きゃしゃであることが一目見れば分かる腕をばってんに交差させて、身を守る仕草をしてしまう。娘は、首をかしげた。尻尾がゆらりと揺れた。


(私を付け回していましたね……この娘……)


 真横にいる、例の外国から来たというサキュバスの娘。



 酒飲みのホタや、放蕩ほうとう息子のミッエ、悪態つき少女のガリや、嘘つきのポンチャと同じだけ面倒な人間だ。彼女もまた、この村を代表する厄介者であった。



 今はまたすこし気温が温かくなっているが(より厳しい冬の前に、なぜか一度、中年男の口内のように人里が湿しめり生暖かくなるのが、毎年恒例の気温変化であった)、今年の特段厳しい寒さの夜に、胸元がきわどく露出された半裸に近い格好で、教会に押しかけてきたこの娘。

 

 魔族の娘……。体の中に、人がどれほど願っても使うことのできぬ”魔法の力”――諸外国の一部ではけがれと呼ばれるそれ――を宿す種族の娘。

 

 彼女は「お金は払うから泊めて」と言って、異国の女王の凛々しい横顔が描かれたお金をあの日青年に押し付けようとした。きらきらしているとまではいかないが、夜の闇を照らすろうそくの光が当たるとなんだか心をぼうっとさせるような、妖しい光を宿すツヤツヤしたよく磨かれた硬貨数枚。どれも銅貨のような赤茶色っぽいコインだった。

 

 いかほどの価値があるものなのかはさて不明だが、彼女があまりにも執拗しつようだったので、うっかりと一枚だけ受け取ってしまったそれ。いっぽう院長は自分と違いそれを受け取ることもせず彼女をこころよく神の家へ迎え入れた。



 サキュバス。

 この国には存在自体が縁もゆかりも無いが、異国では『堕落を司る』とされている。いわば小悪魔を神の家に迎えるなど! と青年は一生懸命に院長へ反対したのだが。

 

 院長は「おまえは心惑わされるのか? この図体だけは成人女性だが、ちいさな子供のように純粋そうな娘に」と若い神父にだけ聞こえそうな声で言った。しかしめざとく茶髪の同僚の男が、院長の言葉を聞いてにやりと薄く笑った。



 まさか。あり得ません――!

 思わず大きな声が出た。自分の声の大きさに、青年はすこし顔を青白くした(まあ、もともと青白い顔ではあったのだが)。院長はやさしく目元だけで笑った。院長は何事にも動じない。しかしどこか生あたたかい目であった。

 

 茶髪の同僚の男はますます笑みを大きくして、くっくっく……と神父が出すにしてはいささか邪悪な声をあげた。「お坊ちゃまにも恋のシーズンが来たんだねぇ……」と茶髪のまだ若い神父は、楽しそうであった。それを院長がたしなめた。それが彼女との出会いである。



 異教徒のサキュバス。この国にはサキュバスを迫害する習慣も、異種族を迫害する習慣もないが、村人たちは彼女の前だと強く緊張してなるべく目を合わせないようにする。尻尾と物珍しい髪の色のせいである。彼女に声をかけられると村人たちはほとんどの場合において、なるべく素早く彼女との用事を終わらせようとしているし嫌そうな顔をしていた。


 サキュバスである証拠に彼女の尻があるあたりには、ウネウネとうごめく謎の尻尾が生えている。淡い桃色と淡い水色の混ざった可愛らしい尻尾だとまだ若い神父は思った。



(私は反対したのですが、院長は……彼女を泊めました。無償で。今思えばあれが、全ての悩みの始まりだったように思います……)


 いつまでも教会で世話になっても良いと(あわよくば彼女を改宗させようとしている)院長は言ったが、彼女は『さすがにそれは申し訳ないので』と至極まともな事を言って今は村の安い宿屋に泊まっているようだ。



 半分露出狂めいた格好で(秋の寒空の下で水着としか思えない服の上に前を開けた分厚いコートを着ている)、ニコニコとあふれる笑みを抑えることもせず嬉しそうに自分を見ている彼女を見て、ああ、本当に……面倒くさいな……と青年は思った。


「考え事ですかぁー?」

 彼女は笑ってそう言う。キャッキャッとはしゃいでいる。やっぱりとても嬉しそうだ。

 年が16歳から18歳くらいに見える娘の頭には、羊のツノが生えている。


「いえ、貴女はサキュバス、なのですよね……?」

「うんっそうだよ」

「サキュバスなのに羊のツノがあるというのは、不思議な感じがしますね」

「私のお父さんは悪魔だからね。お母さんが淫魔なの」

「ほう。それはいけませんね。この教会を堕落させられる前に、はやめに貴女を追い出さなくては」

「遊びに来ただけだもん。破壊活動とかしないし。旅行先でそんなのしても、なんの得にもなんないじゃんか」


(ううむ……)

 まだ若い神父は彼女の髪の色が気になって仕方なかった。染めている訳ではないらしい。彼女の髪の毛は桃色と紫が混じっていて、なんだか見ていると不思議な感じがする。見惚みとれている、に近いのかもしれないと青年は感じる。


(物珍しいものを愛でる気持ちなので……まあ、問題ないでしょう)


 村人は「忌まわしい」とか「おぞましい」とか「不気味」という桃色髪。毛先は紫。だがまだ若い神父は王国の都心部に住んでいたことがあり、そこには色々な部族の人が住んでいた。人々のなかには部族の習慣で髪を鮮血のように赤く染めたり、空や海よりも青く染める者たちが居た。なので不思議な髪色は見慣れている。

 

 少なくとも、ちょっと可愛いな……くらいにしか思っていない。



(しかし……これはいただけません。ここはあくまで教会の敷地内です……!)


 問題は彼女のその服装だ。それを見ていると胸が甘くうずく。心が慌てる。背中がざわざわする。見たくないという強烈な忌避きひ感と、もっと見ていたいという美を賛美する気持ち、そして醜い気がする感情。自分には無かったはずの隠すにはあまりに強い下心を感じる。

 

 隠さねば。隠さねば。隠さねば。

 十代の多感な少年でもないのに心をサキュバスごときの低級魔族に惑わされている。魔法を使われてすらないはずなのに、確実に惑わされている。二十五になる自分が、こんな感情を抱いている。そんな落ちぶれた神父が居るとしれれば醜聞しゅうぶんである。

 

 そんな感情が露見されれば自分は教会から破門にされ職を失い生きがいも失うだけではなく、村人からも軽蔑の目で見られる。せっかく築き上げた教会内での円滑な人間関係が終わる。村人達と楽しくゆったり過ごす日々や、たわいもない愛おしい日々、ささやかな幸せをひろって暮らす日々が全てぶち壊しになる。

 

 何よりもそんな感情を抱く自分自身を自分が許せない。



(いけない、これはいけません……!)


「神父さまー?」


 青年は天使崇拝教の神父であり、法律上は独身男性だが教会に言わせれば魂はすでに女神シュタルティアの配偶者であり、女神の声を伝える天使たちの声をこの世界に、地上に、届ける係なのである。



 このまだ若い神父は、9歳の時に父と母を見限った。

 

 

 ルダン王国で冬の大将軍ことビェーネフ国王のもとに仕える大物政治家である父親と、その妻である母親。まだ若い神父の父親は、当時の子供だったこの神父の目から見ても控えめに言って外道だった。

 

 東方の紙芝居かみしばいにでてくるとうわさ悪代官アクダイカンのようなゲスさのある強面こわもての父親だったが、彼ほど見た目に中身がピッタリな人間もまた珍しい。まだ若い神父は苦々しい気持ちになる。

 

 弱者をいたぶり、強者を騙して背後から刺し、中くらいの者には酒を飲ませた上で棍棒でボコボコにして従わせ、従わないならドブに突き飛ばして殺し、絶対的強者には徹底して媚び売る男だった。

 

 まるで持ち手部分だけがキャンディでできた、刃物のついた鞭が人になったような苛烈かれつな男だった。自分には優しかったが、いつも話の締めくくりには『父さんはいかに偉大な人物か』、そして『その偉大な人物の血をひく実の息子であるお前はいかに素晴らしい存在か』という話に終始した。

 

『ネイスの父親であるイワノコフィ・ウィーザー宰相さいしょうは大将軍のケツと靴をベロベロ舐めて今の地位を手に入れた』という子供たちやその親たちの陰口は、この神父の子供時代の心を深くえぐった。

 しかし噂を否定できないような素行の父親。父が踏み台にしてきた父の旧友。政治でのし上がるために社会的に、もしくは肉体的に一体父親は何人を葬ってきたことだろう、とまだ若い神父は思う。



 父親の腐敗ぶりに負けず劣らず、まだ若い神父の母親も酷かった。

 

 美をつかさどる魔女というあだ名がつくほど美貌の母親の徹底した堕落ぶりは……凄まじいものだった。

 清らかで慈愛のカタマリであるはずの天使も軽蔑し、口から大量の吐瀉物としゃぶつを吐き散らしたくなるような生活。絢爛豪華けんらんごうか淫蕩いんとうな日常生活。

 

 ギラギラした装飾品だらけの実家。

 つねに父以外の若い男ものの整髪料ポマードと、母以外の若い女たちや踊り子たちのつけるキツイ匂いの香水がした実家。休みの日は父親は若い女と、母親は若い男と、日中から浴びるように酒を飲み、まぐわっていた。”声”が聞こえないように、当時子供だった若い神父は耳を耳栓で塞いだが、無駄だった。


 決め手となったのは両親の使用人への酷すぎる態度だった。

金が有り余っているくせにとうもろこしがゆしか食わせない。スープに肉をほとんど入れない。よく召使いに杖で暴力を振るう。室内便器を投げつける。グラスを投げる。怒鳴る。給料が目を剥くほど安い。


 あり得ないほど嫌気が差していた。子供に渡すにはあまりに多額だったお小遣いの全額を持って、唯一気心知れた仲だった13歳の茶髪の奴隷身分の召使いと共謀で家を出た。



 まだ若い神父は思った。

 教会の人間に”ゴリ押しして”わざわざ自分は大きな街で『本来は穏やかな浅い森のようにたおやかな美女だが、怒ると豹の姿になり手足が九本余分に生えてくる戦争と平和をつかさどる、愛と裁きの女神シュタルティア』の配偶者になるという宣誓をしているのだ。

 

 いくらみずから望んだこの辺境の地での布教活動と、院長の教会の仕事を手伝うというささやかな仕事しかしていないとはいえ、自分は! 曲がりなりにも神父だ――! と青年は目をかたくつむった。


 神父が小娘相手に欲情していたのでは、世もすえである。


 あり得ないが仮に彼女の姿を見てなにかやましい感情がこれ以上生まれている事が女神にバレれば、厳罰がくだるだろう。そこら辺をうろついている灰色の汚いネズミ達や、黒くて不吉なカラス達が天使へ告げ口するかもしれない。


「ねぇねぇ、神父さまぁ。この冬キャベツでロールキャベツシチュー作ったらきっと美味しいでしょうねぇ。この村にはあんまりお肉が無いですけど、私の生まれ故郷はね、お肉がいっぱいありましたよぉ。牛肉、羊肉、豚肉とか……お魚さんもよく食べましたぁ。魚肉ソーセージってご存知ですかぁ?」

「いえ、知りません」

「美味しいんですよぉ~」

「ほう」


 胸、へそ、股が強調された、最も隠れるべき所しか隠れていない水着。


 彼女の服は、とにかく目のやり場に困る。いや、確かに可愛いが、そんな格好でこの辺りをうろつけば、劣情を催した何者かの毒牙にかかり餌食になるということも考えられる……と、神父の青年は真面目くさった顔で考えた。


「神父さま? どこを見てるんですか。やだーえっち……」

「寒くないのかなと思いまして」

「ファッションのためなら寒さなんてへっちゃらです」

「そうですか。風邪を引かないと良いですね」

「知ってます? ばかと魔族は風邪を引かないんです」

「迷信ですね」

「迷信が服着て髪の毛整えて嬉しそうに歩いてるのが神父さまって存在じゃないですかぁ」

「ふふ……困りましたねこれは」


(…………。この娘は淫魔です。異国伝聞いこくでんぶん記によれば堕落した存在で、周囲をも堕落させるそうですが……。…………。……いや、しかし……)


 もし彼女が自分以外の人間に微笑みかける所が頭に浮かんだ。夕暮れよりもくらい気持ちになった。

 もし彼女が仮に自分以外の人間と付き合って、まぐわっていたら?


……ちょっと待て。前提の質問が、おかしい。なんだ、なんなんだ。

 自分以外の人間とまぐわったら、とは? 私は神父だ。ああ、天使様、お救い下さい。私と私の将来と今後の生活をどうか、お守り下さい。

 

 彼女の魔力に当てられ半分頭がおかしくなりかけているのかもしれないと若い神父は思い、慌てて女神にも祈ろうとしたが、女神に祈る時になんと言えば良いのだろう? 『神の夫となるべき存在の私は不覚にも異種族のサキュバス娘に心奪われてしまいましたこの浮気心を許して下さい』とでも祈れば良いのだろうか? と思い、そんな訳はないと固まった。



「どうされたのですか? 神父さまっ」

「いえ、体が冷えてきたのでそろそろ戻ろうかと」

「あっ神父さま」

「何ですか。またキスをしようとしたら警吏けいりに突き出しますよ」

 おとといの出来事を思い出して言う。


「ええーだって。神父さまが楽しいことをしたいって言うから」

 甘くねだるような声で、子供っぽくサキュバスの娘が言った。


「どうしてキスが楽しいことになるのか理解不能です」

「少なくとも私は楽しい気分になりますっ」

「…………。……犯罪者の言い分ですね?」

「そっそんな事ないもん!! 酷いです! 体が寒いから温めてくれって言われたので、言われた通りにしようとしただけですよ……!?」

「魔法で温めてくれるのかと思ったのです」

 ほら、私は魔法が使えませんから、とまだ若い神父は言った。


「私が魔法で温めたら神父さま黒焦げですよ今頃……! かりかりのベーコンとかかまで焼きすぎたピザみたいになるのがオチです……!」

「おや。それはそれは。……ふふ」

「え。冗談じゃないんですけど」

 ほら私って結構強いじゃないですかぁ、とサキュバスが言う。「魔術学校は行ってないですけどぉ……でも私ってぇナチュラルに大天才っていうかぁー」などとニヤニヤしながら自慢げにふふん! と言い、嬉しそうに続けている。


「では、私は野菜の世話も終わりましたので失礼します」

「やだぁぁぁ! せっかく神父さまに会うためだけになんの意味もなく教会にやってきたのに~! 構って下さい! 私を構って下さいよ……!」

「他に用事がおありでしょう? 私に構ってくださらなくても良いんですよ」


「貴方が用事です! 貴方の存在が私にとっての予定で用事なんですっ!」

「どうして私につきまとっているのですか?」

「愛……ですかね」

 フッ……と顔の可愛い年下にしか見えない女の子が、ややうっとうしさのある表情でなにか言っている。まだ若い神父は無視することにした。全身全霊で、少しうざったいはじけんばかりの可愛さを無視して流すことに決めた。


「都会ではつきまとい行為全般のことを、どうやら『ストーキング』と呼び、貴女のような人のことを『ストーカー』と呼ぶそうなのですが」

「いい響き! 愛の戦士って意味ですかね!?」

「もう少し落ち着きを持ったほうが良いですよ」

「せめて名前を教えて下さい……ッ!」

 サキュバスが言う。


「え」

 神父が固まった。


「まさか名前も知らない相手のことを好きだ好きだと言っているのですか?」

「はいっ! ぜひ教えて下さい」

「この教会の表門に、在籍する神父と神母の名前が書いてあると思いますが」

「神母ってなんですか? えっまさか女性も居るんですか? 神父」

「…………? はい。貴女の国では違うのですか?」

「異文化カルチャーショックですぅ……」

 娘が言う。

「可愛い女の子ですか? 神母さん」

 娘が続ける。


「可愛らしい方ですよ。御年おんとし84歳です」

「……へへ」

「…………。……何か」

「神父さま、お名前をっ! 教えて! 下さい!」

「私の名前は門のところに書いてあります。ネから始まる名前ですよ」


 長い無言が続いた。

 サキュバスの娘がキッとまだ若い神父を見上げる。

 なにか言いたげで、でもどこか迷っているような顔だ。



●  ●  ●  ●  ●



「……神父さま。私、文字が読めません」

「……えっ」

「識字率が低い国の出身だし、そもそも、外国だし。話し言葉は一緒だけど」

 ごにょごにょとつぶやいている。

 どこか気恥ずかしそうな顔だ。


「ネイス・ウィーザーです」

「ネイス・ウィーザー……。なんか、悪逆非道のイワノコフィ・ウィーザーさんとお名前が似てますね」

「はい。まぁ、父親ですからね」

「エッ……!? あの悪徳腐敗の伝説級クズ政治家さん(現役)の、息子さんでいらっしゃる……!?」

「実家とは9歳の時に絶縁しました。今は神父なので正式にはただのネイスですが。貴女のお名前は……」

「私は、ピピ・ウィノだよ。神父さま」

 にこっと影のある笑みをサキュバスが浮かべた。



「そうですか」

「ピピちゃんって呼んでね」

「ピピさん」

「……ネイスさんって呼んで良い?」

「まあ、ご自由にどうぞ」

「やったー! 仲良くなれたね! 私達!」

 なぜかサキュバスは嬉しそうにした。


「そうでしょうか。特段仲良くなった気はしないのですが」

「なにをいうか! 悪魔族や小悪魔族、淫魔族にとって名前を教え合うっていうのは、もう、私達親友だよね~ッ♡ ウルトラドチャクソ大親友! って感じだよ」

「ほう」

「大切な人にしか名前は教えないんだよ」

「それは異文化ですね」

「それでねー」

 楽しそうにサキュバスが話すのを、苦笑いしながらネイス神父は聞いた。



 ネイス神父は、胸が熱くなり、鼓動が早まるのを感じた。それは、あまりにも「生きている」という感覚で、こそばゆく、むず痒い。

 子供っぽい喋り方であまり賢くなさそうな、顔以外の目立つ取り柄もあまり無い気がする魔法が使えるだけの異種族の娘に、なぜここまで心惹かれるのか、理解不能だった。

 しかしまあ、恋とはそういうものなのかもしれない。


(まあ、しいていうなら、明るくて可愛くて陽気でふわふわした感じとか幼い純粋さとか天真爛漫なところとか知らない事をすぐに知らないと言えるまっすぐさとかですかね。あと髪の毛の色が絵本で見たことのあるモモの花という植物に似て可愛らしいのと、声が愛くるしいのと、あとは思っていることが全て顔に出てしまう所でしょうか。あとぴょんぴょん跳ねたりする所がなんだか、18歳というすでに成人女性の見た目でやられると、こう、不道徳なエクスタシーを感じます……。あとは、異種族だからでしょうか。私は昔から異種族に憧れていますし、外国の文化や外国も好きですから)


……彼女もいずれ、外国へ戻るだろう。

……その時までの辛抱しんぼうだ。


 少しぐらいはこの明るく陽気な娘のお喋りにつきあっても、良いのかもしれない。

 ネイス神父はそう思って、なんだか疲れたような嬉しいような、微妙な笑みを薄ーく浮かべた。



 しかし幸せとは天使崇拝教の教典にもあるように、砂の城のごとくはかなきものである。村で家禽かきんが何者かに惨殺される事件が起き、酒飲みのホタが謎のいにしえの悪魔に取り憑かれた影響でおかしくなり人を殺したのはその翌日であった。



●  ●  ●  ●  ●



 翌日の朝。まだ夜が明けたばかりの、朝。


「ネイスおにいちゃんーッ!」

 少年が教会に走ってきた。村人の……確か、村で唯一の新聞屋の少年だ。

 若い神父は「何事ですか?」と真面目な顔で言った。少年の様子がおかしい。顔にぷつぷつと脂汗が浮かんでいて、目は真っ赤になっている。涙目だ。


「大変だよぉっ! 大酒飲みのホタが、人を、人を、うわあああああん!」


 ひとを、ころしたかもしれない。

 しかも、おかしな異教にハマっている形跡が家にあった。


 新聞屋の少年は、泣きながらそう言った。


「このままじゃホタさんが、王国領および植民地刑法にもとづいて殺人罪で即席裁判されて、明日には縛り首になっちゃうって、ばばさまが言うんだよぉ……! ネイスのおにいちゃん……っ! どうにかしてよぉ……!!」


 涙目で少年が言う。

「……それは、それは……!」


 この茶髪と黒目の小さな少年はその『酒飲みのホタ』に可愛がられていて、よくキャッチボールという異国のボール遊びをして貰っていた。少年もまた、ホタのことを慕っているようだった。少年は父親の愚痴などをホタに聞かせては、ホタも「まあ、父親っつーのはそういうもんよ。少年~。分かり合えるだけが家族じゃねえや。ぶつかんのだって、家族だわな」や、「おまえのお父ちゃんだってな、人間なんだから。人間っつーのは、不完全なもんさ。お父ちゃんも、悪気がある訳じゃないだろうよ。許してやんなよ、ボウズ。おめぇさんももうだいぶ、大きくなったんだからよォ……」などと優しい声で言ってやり、頭をグシャグシャと撫でてやっていたのを、ネイス神父は見かけたことがある。



 殺人現場にかけつけたその時。鶏の血。むしられた羽がいたる所に落ちている。

 大酒飲みのホタはやや褐色がかった肌を土気色にしている。その血色の悪い顔で一心不乱に、何事かをつぶやいていた。

 

 魔法陣が描かれていた。

 

 その声はこう確かに言っていた。


「大悪魔、みたび、この世に現れり!」と。

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