取材対象H ――淀む文字の海 前編

※ 一部、やや過激な文言が含まれています。ご了承ください。



 昭和三十三年(一九五八年)一月十二日。

 世間がまだ正月気分の余韻を味わっている時期だというのに、私は気分が悪かった。

 取材で嫌な気分になったからだった。仕事をごのみする立場ではないのだが、私はその現場に赴いたことを後悔するほどに。

 苛々いらいらしながら夜の街を当てもなくさまよっていると、見知らぬ高架下に迷い込んでしまった。

 そこは人間の醜い部分を煮詰めた地獄だった。

化野あだしの乱斗らんとの個人メモより)



 その日、私は久しぶりに取材の助手アシスタントをすることになった。

 仕事を手伝ってくれ、と依頼してきたのは、私と数年来の付き合いがある記者だった。その人は私が業界に入ったばかりの頃いろいろと世話になったので、私は親しみを込めて「先輩」と呼んでいる。

 で、その先輩が、とある文化人のインタビュウ記事を書くことになったのだが、その取材相手がなかなかの曲者くせものらしかった。

 先輩一人だけではてこずるかも……ということで、私に白羽の矢が立ったのだ。

 で、――いやもう、はっきり言おう。

 その文化人、いや「文化人の肩書を持つ者」は、私が久々に遭遇した下衆ゲスだったのだ。

 

 取材対象は中年男性だった。

 一応「作家」――らしいが、私はその名前を、筆名ペンネームも含めてまるで知らなかった。一応出版業界に携わる者として、そういった界隈の情報は広く浅くでも知るようにしているのだが。

 あとで先輩に訊いたところ、二、三年前にヒットした記録ノンフィクション小説の作者だという。

 著作はそれっきり。しかしそのヒット作はかなりの印税を作者にもたらし、ジャンルが「社会派」だったのも相まって、作者は晴れて「作家先生」に大出世、ということらしい。

 しかしこの「作家先生」だが、「先生」と呼ぶのをためらうような人物だった。

 待ち合わせが高級ホテルのカフェーだったのだが、先に来ていた取材対象(先生だなんて呼びたくない)は、そこの給仕ウェイトレスに横柄な態度をとっていた。

「おい、珈琲コーヒーに角砂糖がないぞ」

「角砂糖でしたら珈琲に添えられております」

「たった二個で足りるわけないだろう。わしが注文したら砂糖は四個だ、四個」

「申し訳ありません。ただ今お持ちします」

「貴様じゃ話にならん。別の奴をよこせ」

「申し訳ありません」

「使えない奴はすっこんでいたまえ」

 給仕ウェイトレスをまるで召使かのように顎で使っている。

 先輩はあからさまに眉をひそめて嫌な表情をしたが、ぐっとこらえて取材対象に挨拶をした。

「お待たせして申し訳ありません、先生」

「やっと来たか。遅刻だぞ」

 そう言われたがそんなはずはない。私は柱時計を見た。

 指定された時刻の五分前だ。

 「儂より遅れて来るなんて、社会人としての常識がないんじゃないかね?」

 取材対象は横柄な態度のまま、私と先輩に嫌味を言い、自分は金色の懐中時計を見せびらかした。

 これだけでわかる。まず典型的なだ。

 先輩は取材対象と向き合って座り、私はその隣に腰かけて、手帳を出した。

 「ではよろしくお願いします。先生の二年ぶりの新作である『まなぬま』の刊行に向けまして、制作中の閑話エピソードなどをお聞きしたく――」

 「ああ、あれはすさまじかった。学術機関にあるまじき腐敗が……」

 題材にされているのは近くにある国立大学だ。私はその大学を知っている。

の勤めていた大学だ)

 確かにあそこの大学はちょっと荒れていた。

 半年くらい前だったか、そこそこの地位の職員(教授とは無関係)が、入試問題を裏で売りさばいていたのが、大学の内部調査で発覚して騒がれたのだ。

 犯行はくだんの職員の単独だったらしく、そいつは早々に解雇されたあとに、背任罪だか偽計業務妨害罪だかで警察に捕まった。

 それを連日、新聞や週刊誌がこぞって記事にしていたのだ。

 あれは確かに醜聞スキャンダルには違いない。が、大学側の対応としては間違っていない印象を受けた。

 だがしかし、

「あそこはとんでもない。よくも学術機関をのうのうと名乗っているものだ」

 と、取材対象は大学の存在そのものを全否定するところから始めた。

 そこからは聞くに堪えないこじつけと偏見のオンパレードだった。

 私は反吐へどが出そうな心地でそれを書き留める。

と同じ種類の人間か)

 私をぶん殴って捕まった挙句に檻の中で死んだあいつと、この取材対象はとても似ている。理論ロジックからかけ離れ、狭い視野と決めつけと、相手をはめようという悪意だけが現れている。

 とにかくこの取材対象は、なぜか知らんが「学術機関」、むしろそこの「国立大学」というものに対して過度な憎しみを抱いている印象。

(この人は、インテリに親でも殺されたのか?)

 と思うほどの偏見と意味不明な理論だった。

 顔をしかめる私を見かねてなのか、先輩が話題を逸らした。

「あの、先生は若い頃に苦労されたと伺いましたが……」

 取材対象はそれに食いついた。

「そうなんだよ。儂は田舎から東京に来たんだがね、いやあ大変だった」

 一方的に始まった自伝によると、地元(どこなのか書き漏れた)から二十年ほど前に上京したのち、とある上流家庭に書生しょせいとして世話になったものの、諸事情でそこを出たのだという。

 ちなみに書生とは、地方から都会に出てきた高等学校生や大学生が、親戚や裕福な他者の家に住み込みで世話になり、そこの家事手伝いをしながら勉学に励む、というものだ。

「儂がいた家は非常におカタいお家柄でな、儂の自由な気風きっぷにはそぐわなかったのだ」

 その後はとある店の下働きや、炭鉱夫などを転々とした後、文筆業を始めたらしい。

(と、彼は言っていたが)

 取材対象は自分を正当化、あるいは美化しているが――。

 言葉の含みニュアンス、そして取材中の彼の態度や言葉遣いから察するに、「素行不良で追い出された」あと、「賭場とば丁稚でっちあるいは用心棒」として働くも「博打にハマって借金をこさえ、炭鉱に放り込まれて強制的に働かされた」ということが、ありありと透けて見える。

 まあ、そこから人生を立て直して「作家先生」に成り上がったことに関しては、素直に感心するが――どうにも想像がつかないことが一つ。

(この人がノンフィクション小説なんて書けるのか?)

 というか――失礼だが、この取材対象、とても高等教育を受けたような御仁ごじんには見えない。なんだろう、すごく違和感がある。

(チンピラがインテリぶって、ついでに成金、みたいな)

 私が好き勝手にそう思いながらインタビュウを筆記していると、取材対象がふと私を向いて、粘るような口調でこう言った。

「ああ、そこの

「私ですか?」

「ああ、新人だろチミ? 儂の語録をしっかり書いてくれたまえよ。まあ新人記者風情が書ききれるとは思えんがね」

「はあ。承知しました」

 ……ここまでくると一周回って、かえって清々すがすがしいというか。

 呆れて何も言い返さない私を見て、取材対象はご満悦したようだった。

 おそらく「若造が自分の言葉に感動しているのだ」とでも思っているのだろう、あの表情は。明らかに私(と先輩)を、というか自分以外のすべてを見下みくだしてかかっている。

 蛇足だが私はルポライターを名乗って五、六年経っているので、もう「新人」ではない。

「余さずに記録したまえよ。儂はあの大学の恥部を明るみにした、正義の使者なのだから」

 取材対象者はそう言って、ずずずと下品に音を立てて珈琲を啜った。

 正義の使者、とはまあ御大層な名乗りだ。

(ああ、オメデタイんだな。頭が)

 私は苛々いらいらしながら手帳に万年筆を走らせる。もう少しでペン先を潰してしまうところだった。



「……いやあ、悪かったな化野。あんなすげえ奴だとは俺も知らなかったよ」

 取材を終え、先輩はこう労ってくれたが、私は気分が悪くなっていた。

 さすがに愚痴を吐き出さずにはいられない。

「なんですあの人? 言うこと言うこと自慢と悪口だけじゃないですか」

 本当にあれでノンフィクション小説を書けるんですか? と問うと、先輩もそこは首を傾げた。

「確かになあ。あんな緻密ちみつでいて迫力ある文章を書けるような人には見えなかった」

 先輩の言う文章とは、今度発売される『学び舎の沼』だろう。取材をするにあたって、先輩はゲラを一部もらって読んだらしい。

「あの作品には確かに、あそこの入試漏洩問題についても書かれていたんだけど、それがメインというよりは、学校という組織で渦巻く派閥争いとか、一部の関係者が犯罪に走るまでの背景とかに焦点を当てているんだ。特定の学校それだけをというより、どこの学校でも起こりえることを何校か例に挙げている、という印象だった」

「え? でも今の取材だと……」

「ああ、あの国立大学だけを責めていたよな」

 というか完全に、恨んで目の敵にしていた。

「でもどうして? まさかあそこを落とされて逆恨みしている、なんて子供っぽい理由じゃないですよね?」

「そこまでは知らんが。でもそう思っちゃうくらい、異様によな」

「書き留めるのが苦痛でした。愛用の万年筆がへし折れるかと何度思ったことか」

「悪かったな。報酬代わりに、今度何かおごるよ」

 先ほどの取材メモを渡した後、先輩と別れた。



 私は久々に苛立いらだっていた。

 取材を終えた去り際、あの男が言った言葉がとどめだった。

 ――「チミらはこそこそ他人の秘密を嗅ぎまわって、安い記事を書いているんだろう? どうせなら儂のように巨悪を暴くようなものを書いてみてはどうだね? ま、二流の記者風情には無理か。わはははは」。

 他人の逸話エピソードを記事にして金を稼いでいる、という点では反論できないのだが、自分もノンフィクション作家を名乗っていてどの口が言うのだろうか?

(あいつの態度はだったな)

 それにしても今回の取材は本当に気分が悪い。

 あの取材対象の口から出た言葉は、本当に、一言一句すべてが悪意と恨みと差別意識だった。

 苛立つことや、気に食わないことに対して悪口を言うのは、まあわかる。そうやって吐き出さないとやっていられない時もある。

 だけどそれは例えば自分の家の中とか、ごく内輪だけの与太話よたばなしだけで済ませるべきことであって、無関係の他人に話したり、ましてやそれを大衆の目に触れるようにするのは違うと思う。

(ああ、本当に苛々する)

 それはともかく、今日の私は本当に虫の居所が悪かった。かつて私にちょっかいをかけ続けていたを思い出したせいもあるだろう。

(どうにかして解消できないものか)

 私は悶々としながら夕暮れの街を歩いて、いつもは曲がらない角を曲がった。

 理由はない。何となく思いつきだ。

 狭い裏路地を道なりに通ると、急に開けた場所に出た。

 そこは河川敷だった。

(こんな場所があったのか)

 川には電車が通る橋が架かっており、その高架下に何となく近づく。

 そこは異様な場所だった。

「……!?」

 そこの壁――混凝土コンクリートの橋桁の足――には、びっしりと黒い文字、否、無数の文章が書かれていた。

 見た瞬間では気づけなかったのだが……。

 そこは呪いの言葉の掃きだめだった。


「何だここは」

 夕闇の中、私は眼前に広がる空間を、愕然と見つめた。

 それは混凝土コンクリートの壁を埋め尽くした文字、文字、文字――端から端までびっしりと墨で書かれた文章で埋め尽くされている。

「何だこれは?」

 壁に近づいてみると、不規則な配置で書かれた、短い文章の集合体だとわかった。


 ■■の役人フザケンナ!

 スナック●●のホステス金かえせ

 

 どうやら落書き――というよりは、一般人の誰かに対する鬱憤うっぷんらしいが……。

(面と向かって本人に言えないことを、ここに書いているのか?)


 ■■のヤロウ 消えればいいのに


「え?」

 最初に認識したその一文、書かれている名前に見覚えがあった。

(確か……醜聞スキャンダルが書かれた俳優だった)

 思い出した。

 にヒロポン使用と賭博疑惑の記事を書かれてしまった、銀幕スタアの名前だ。彼はあの記事のせいで、主演映画が公開中止になった挙句に事務所から解雇され、自ら命を絶ってしまった。

 文の周辺にはその俳優を罵倒する言葉がひしめいている。


 あいつ逃げやがった あやまってからシネよ

 ツミのイシキに耐えかねたのか

 やっぱりヒロポンやってたんだな

 一回会ったことある やなやつだった ダイキライ


(あれは誤報だったはずなのに)

 そうなのだ。

 くだんの俳優の「ヒロポン使用疑惑」は、逆恨みと嫉妬心をこじらせたあいつ――あのゴシップ捏造記者――が書きたてた、でっち上げだったはずだ。

 しかし――混凝土コンクリートにひしめく文章にはそういった情報はない。

(何だこれは)

 目を逸らした先にある別の文章が目に入った。

 不規則な文章は、まるで互いに会話するかのようにつながっている。


 ■が酒場でエイギョウしてた 落ちぶれたな

 女房コドモ捨てた男 ざまあみろ

 紅白歌手がブザマだな


(これはだ)

 ひょんなことから私と知り合いになった、紅白歌手の彼だ。

 彼と私はおでん屋台で偶然知り合ったのだが、あれからもたまに行く機会が重なると、一緒に一杯引っ掛けるのだ。

(酒場で営業? ……ひょっとして、あの話か?)

 つい先週も彼と巡り会って、こんな話を聞いた。

 ――「こないだね、飲み屋で弾き語りをやったんですよ。の歌手みたいに。いやあ新鮮でした」。

 営業ですか? と私が訪ねると、彼は首を振った。

 ――「そうじゃなくて、世話になった人がやっている飲み屋でね、ある種の手伝いというか臨時雇いアルバイトというか。開店十周年記念でそういう催しをしたんですよ」。

 よく考えれば、紅白に出場するような歌手である彼が、今さらのような営業はしないだろう。

 しかし彼は初めてそういう場で歌ったことが楽しかったようで、

 ――「またやってみたいな」。

 と言っていた。

 しかし……この壁に書かれている文章は明らかに間違った認識だ。

(そもそも妻子を捨てた、ってのも違う)

 本当は、彼は姉の家を訪れ、出先で借りた少額の金を返したという経緯だ。子供が泣いていたというのも、彼の幼い姪っ子がぐずって泣いたのだ。

 なぜ私がこれを知っているかというと、彼本人から直接聞いたからだ。

 でも――と私は思い返す――不運なことに彼もあいつに目を付けられ、妻子を捨てて慰謝料だけよこしている薄情な男だ……というでっち上げ記事を広められてしまった。

 だが彼の所属する芸能事務所が、公式に訂正文を出したはずだ。

 ……なのに、目の前の墨色の文章は、それらの事実に微塵も触れていない。

(いや、違う)

 これは――。

 のだ。

 彼に良い印象を持っていない、あるいは彼を嫌っている人間が、わざと悪口を連綿と書き連ねている。

 これは……。

「――何のために? って思っているかな?」

 背後からの声に私は飛び上がった。


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