取材対象H ――淀む文字の海 後編
※ 一部、やや過激な文言が含まれています。ご了承ください。
振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
洒落た黒い
男はひょうひょうとした態度で私にこう言った。
「これはさ、欲求不満を解消するために書いているんだよ。あるいはイライラの発散とか、気に食わないことを吐き出して、それを誰かと共有したいの」
「共有?」
「ここはそういう場所なの。負の感情が淀む、掃きだめなの」
「……言っていることがわかりません」
「まあ、実感が湧かないよねえ」
男は怒るでもなく失望するでもなく言うと、つと右手を挙げて壁を指さした。
「ほら、見てごらんよ」
男が指差した先を見ると、暗がりの中に人影が見えた。
(すぐ近くにいたのに気づけなかった)
それは猫背の男だ。
「あの女許さねえ……俺の気持ち踏みにじりやがって」
とぶつぶつ呟きながら、手に木炭棒――デッサンで使うあれ――のようなものを持って、それで壁にごりごりと言葉を書きこんでいる。
■■■はサギ女 ウラギリモノ
男が書いたのは、先日結婚を発表した女優の名前だった。婚約者との間に子どもを授かったとかで、予定より結婚を速めた……とテレビで言っていた。
(何だこいつは?)
男の口から吐き出される言葉と状況から察するに、「自分だけの理想像からかけ離れた相手を、一方的に逆恨みで貶している」だけにしか見えない。明らかに認知が歪んでいる。
男は一心不乱に悪口を壁に書き続けている。まるで呪いの儀式か何かのように。
――ふと、私は恐ろしい考えを閃いてしまった。
(まさか……この壁に書かれている言葉、全部……?)
見える範囲にくまなくびっしりと、蟲の大群のように広がる黒い文字の海。
よく見ると文章は筆跡が全部違っている。
つまり多数の人間、それも下手したら百人単位の人間が、この壁に誰かしらへの悪口を書いているということだろう。
「そんなことって」
私は壁に近づいた。怖いもの見たさだったのかもしれない。
壁にへばりつく文字の大群は、蟲の群れのようなおぞましさを漂わせている。
――無秩序な文字の中で、一際読みにくい(つまり汚いともいえる)文字がでかでかと踊っていた。
■■だいがくはゴミ そんざいするな バカだいがく
「え? これって」
ついさっき聞いたような文言がそこに書かれている。
背後からまた、黒い
「よくわかったねえ。それはあの自称・作家先生が書いた言葉だよ」
この知性の欠片も感じられない悪口が? 罵詈雑言という表現すら似合わない、幼稚な言葉が?
「あの男はねえ、書生ですらなかったんだよ」
黒い
「あいつは二十年くらい前、裕福な家で下働きをしていたんだ。だけど素行が悪くてね。ある時、下宿していた書生の私物を盗んで売り払ったのがばれて、クビになったんだ」
あの男の言っていた内容と全然異なるではないか。
「その家の主人っていうのが、ここから一番近い国立大学の教授だった。そう、あの男が憎くてたまらないあの大学さ」
目の前の男の語るところによると、あの男はそれを逆恨みして、ことあるごとに「あの大学は最低だ」「あの大学はロクデナシの集まりだ」と
(坊主憎けりゃ袈裟まで憎い……ってやつだろうか)
黒い
「奴は吹っ切ることも改心することもなく、二十年もの間、逆恨みと嫉妬心を煮詰め続けていた。自分の
私は呆れて何も言えなかった。
目の前の男は私のそんな表情を見てか、ふ、と薄ら笑いを浮かべる。
「酔狂な奴だなあ、って表情しているな? ボクもそう思うよ。……とにかく、奴は無意味な嫉妬と逆恨みに二十年も意識を向け続けた。そして二年前に、奴は華々しく文壇デビュウをした。デビュウ作は『
「いいえ」
私は正直に答えた。男は気を悪くする様子もなく、話を続ける。
「正直でよろしい。あれはなかなか良くできていた。まあ気が向いたら読んでみるといいよ。とにかく奴はその作品によって巨額の印税を得た。結果があの特権意識さ」
あの男は確かに成金の様相だった。カフェーの給仕を見下してこき使っていた。
(実に見ていて不快だった)
私は顔をしかめた。それを見ながら――。
黒い
「でもさあ、あの男に、小説なんて凝ったものが書けると思うかい?」
「え?」
そう言って笑った男が告げたのは――。
私が思う以上に、突拍子もなく、あまりにもひどい内容だった。
「それって、どういう意味ですか」
私が問うと、黒い
「言葉通りの意味だよ。あの薄っぺらいプライドを振りかざす男に、ノンフィクション小説という文学作品が書けるのか? っていう話だ」
「え――」
その言い方は……まさか?
ふうむ、と男はまた笑みを浮かべた。
「もう一個教えてあげよう。あの男の書いた作品、全部盗作だよ」
「え!?」
うっすら予想できたとは言え……こうもはっきり言われるとは思わなかった。
というか――。
(彼はなぜ、それを知っている?)
私の疑問なぞ完全に無視して、黒い
「二年前に出版された著作『闇の商い』。あれはとある製薬会社と政治家との贈収賄事件を描いたものだ」
その事件は知っている。かなり大きなニュースになった。――あの事件を題材にした小説があった、というのは知らなかったが……。
「だけどあれは、まったく別の人物が書いたものなんだ。その人物は事件を書籍という形で世に出して、汚職企業と政治家を追い詰めようとしていたんだ。だけど作品は、あの成金男の著作として出版された」
「……だから、盗作だと」
「そういうこと。しかもあいつのタチ悪いのはね、自分で原稿を書いてすらいないところだよ」
「え?」
「他者の原稿をそのまま自分のものだ、と
「そんなことしたら、本当の作者が訴え出るのでは」
「出なかったんだ。だって相手は死んでいたのだから」
男は朗々と続ける。
「奴はね、ある夜に安酒で悪酔いして、偶然出会った相手に喧嘩を吹っ掛け、勢いで相手を殺してしまったんだ。それで持ち物を奪い取った」
それは――完全に強盗殺人ではないか。
「その殺された相手というのが、経済事件を追っていたフリーランスの記者だった。荷物の中に
「それって――」
「まあ、成りすましというか。むしろ戸籍乗っ取りっていえるかな?」
私は愕然とした。暴かれたあいつの本性よりも何よりも、男の語る一連の顛末があまりにもひどかったからだ。
「『闇の商い』が出版される一ヶ月前に、荒川の傍で見つかった変死体が、その記者だよ。奴にとって幸運だったのは、その記者は人間嫌いで、知り合いがほとんどいなかったことだった」
だから成りすましても、素性がばれる危険が無かったのだろう、と男は言った。
なんということだ。その哀れな被害者は、原稿だけでなく名前も存在も、未来も奪われたというのか。
「奴は小遣い稼ぎになればいいな、とでも思ったんだろうが、『闇の商い』は思わぬヒットを飛ばし、奴に多額の印税をもたらした。――つつましい生活をしていた人物が急にそんな状況に陥ったら、どうなるかはわかるだろ?」
「それが、あの成金……」
「ご名答。でもあいつは大金を使い慣れていないからね、湯水のように金を使った。高級クラブに札束を振りまき、高級店では棚の端から端まで服を買い、それをとっかえひっかえ着ては捨てる。……そんな無茶な散財をしていたら、莫大な印税もあっという間に底をつくのは明白だ」
ちっとも羨ましくないのは、なぜだろうか。
「金が底をついても、贅沢三昧がやめられない。浪費を覚えた奴は、また一攫千金を当てたかった。でも小説を書く能力なんて持っていない。――だから、また同じことをしたのさ」
「それって――」
「そうだよ」
びゅう、と高架下を風が駆け抜け、男の着ている黒い
男は淡々とした声で言い放った。
「奴はね、また記者を殺したのさ。今度ははっきりと、そういう人間を狙ってね」
「――」
私は今度こそ何かに打ちのめされ、何も言えなくなった。
「偶然か運命か、奪い取った二作目は、様々な学校に渦巻く闇の部分を書いた意欲作だった。そしてその一つに、奴の永遠の逆恨み相手であるあの大学が記載されていた」
「それで、あいつはあんなに」
「そういうこと。奴は渡りに船と思ったのか、
「そんなことって……!!」
私は再び腹が立ってきた。それもどうしようもなく。
何かを恨むのは勝手だが、他人の作品を奪ってその誹謗中傷の道具にするだけに飽き足らず、その作品自体も穢しているということではないか。
「そう、つまりキミが今日取材に行ったあの作家先生は、キミが最も嫌う種類の人間なのさ。しかも他人の命と作品を奪うとんでもない奴だ」
私が今日取材に行ったことを、なぜ知っているのか――という疑問に気づく余裕は、なかった。
男は口の端に愉快そうな笑みを貼りつけて、私に言う。
「なあ、キミ、すごくイラついているだろう。どうだ、ここに愚痴をちょっと書いてみないか?」
「えっ、でも」
こんな屋外の壁に? 絶対に自分しか読まない
「こんな高架下の落書き、誰も見ちゃいないさ。
ほらそこに炭もある、と、黒い外套の男は、私の足元を指さした。
足元を見下ろす――今気づいた――と、焚火の痕のように焦げた地面と、棒状の炭が幾本も転がっていた。
「ほら、書いちまえよ。さあ」
男の言葉は甘美な誘いに聞こえた。
「……」
私は炭の棒を一本拾い上げると、ゆらりと壁に歩み寄った。
(そうだ。こんな落書きなんか誰も読まない)
この寂れた掃きだめにひしめく文字の海に、私の愚痴が紛れたところで、誰も困らないはずだ。
(被害なんか出ない)
私は熱に浮かされたように、汚れた灰色の壁に炭の一端を当て、あいつの名前の頭文字をくっきりと書いた。
だが――二文字目を書く寸前だった。
私の手元で、たった今書きこんだ一文字目が、ぞろりと蠢いたのだ。
「!?」
私は弾かれたように壁から飛びのいた。
文字は
「何だこれは」
私は思わずつぶやく。
刹那、一面にびっしりとひしめく文字が、どれもこれも、
そして、落書きをしている猫背の男――まだそこにいた――の周辺に集まると、昔海で見た
「……!!」
私はあまりのおぞましさに、手に持った炭を投げ捨てた。
背後から黒い
「ああ、見えたのか」
「あれは何ですか!?」
「何だろうねえ。文字とか言葉のチカラってやつなんだろうねえ」
「何らかの強い感情を込めた言葉はね、それを書いた人間が思っている以上に、強いチカラを持ってしまうんだ。何気ない一言が相手を傷つけしまうってのはそれだ。それが不可抗力ならまだしも、明らかに嫉妬や恨みを載せていると――それはもう、立派な呪いで、毒だ」
「毒……」
「そう。それも致死性の毒だ。だって対象を傷つけるためだけの言葉から生まれるのだから。人を死に追いやる効力を持つのは当然だろう」
「その……攻撃された相手は、どうなるのですか」
「さあねぇ? 自分で悪意を跳ねのける者もいるだろうが。でも一つ一つは小さな呪いでも、それが大勢から向けられると、さすがの相手も負けてしまうと思うよ」
「負ける……」
「攻撃を受けないように表舞台から姿を消す。ひたすら傷つきながら耐える。……でも、中には自ら命を絶つ、という方法ですべてから逃げようとする者もいるだろうねえ」
私は息を呑んだ。
――あの俳優はまさにそうだったではないか。あることないこと捏造記事で
男はさらに続ける。
「この毒の恐ろしいのはね、恨む相手だけではなく、書き手をも侵してしまうってところだ。一度それに魅了されたら逃れられない。貶す相手を何度でも、永遠に攻め続けるのさ。その行為は、最高に気持ちのいい娯楽になってしまうから」
私は壁を見た。
すっかり日が落ちた暗闇の中で、闇よりも黒い文字がのたうっているのが、とても恐ろしい。
(もし、あの壁に、何か書いていたら)
私も、呪いの言葉に囚われて、二度と元に戻れなくなっていた――?
私は
「おや、どこに行くの?」
「帰ります! こんなところにいられません!」
「いいの? 憂さ晴らしするいい機会かもしれないよ?」
「冗談じゃない!」
私は半ば沸騰した頭で、吼えるように男に言った。
「私はルポライターだ! 誰かを傷つける言葉を書くほど、堕ちちゃいない!!」
そう叫び、私は全力疾走で高架下から離れた。
「ふうん」
黒い
「偉いエライ。それでこそ、ボクが選んだキミだ。こんな無意味な娯楽に
男は闇に蠢く呪いの言葉を見て、呆れたような、嘲るような笑みを浮かべた。
「それにしても、人間の
さてと、と男は軽い足取りで歩きだす。
「ボクの可愛いあの子をあれだけ苛立たせたからね、あいつには報いを受けてもらおうかな」
ボクの気まぐれも困ったものだなあ、と男は楽しそうに笑い、闇の中に姿を消した。
話題の社会派作家、強盗殺人容疑で逮捕
一月十五日、警視庁は小説家の■■■■容疑者を、強盗殺人容疑で逮捕した。
■■容疑者は先日、新作の『学び舎の沼』を出版したばかりだが、それは第三者が書いた原稿を奪い取ったものと発覚。そして原稿を奪うため、真の作者を殺害した容疑がかかっている。
さらに■■容疑者は、昭和三十一年に出版された社会派作品『闇の商い』で文壇デビュウを飾った経歴を持つが、その『闇の商い』も、著者を殺害して原稿を強奪し、自らが書いたと偽って出版社に持ち込んでいた疑いが浮上している。
警察は■■容疑者に、更なる余罪がないか慎重に調べており――。
(昭和三十三年一月十六日 大手新聞社発行の朝刊より)
あの成金の「作家先生」――否、強盗殺人犯が逮捕された。
先輩からちらりと聞いた情報によると、警察に何者かのタレコミがあって、そこで指示された現場から、何らかの証拠が出たらしい。
嫌悪感しか抱かない奴だったが、思っていた以上にとんでもない奴だった。
取材を一緒にやった先輩も、あまりの展開に面食らっていたが、まあ、奴のあの態度なら納得だよと呆れた笑いを浮かべていた。
私の書いた取材メモを、どう使おうか悩んでいるらしい。
一言も誉め言葉を書いていないから、ちょうどいいじゃないですか、そのまま記事にしましょうと進言してみる。
私は怪奇ルポライターだから、ゴシップじみた記事は書けないし書かない。そういうのは先輩に任せる。
あいつの悪事はあまりにもひどすぎるので、とことん糾弾されるべきだ。
これが正義だとは思わない。
でも――。
そうしないと、あいつに殺された被害者が浮かばれないと思ったのだ。
あと、これは余談だが。
あの高架下、あの夜以来、二度と辿り着けない。
(化野乱斗の個人メモより)
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