「君を愛することはない」と言った夫と、夫を買ったつもりの妻の一夜

有沢楓

「君を愛することはない」と言った夫と、夫を買ったつもりの妻の一夜

「これは政略結婚だろう。君がそうであるなら、俺が君を愛することはない」


 そう言った青年の目がわずかに見開かれたのは、自分の口にした、きっぱりとした言葉が予想外に響いたためだろう。

 初夜の寝室は互いに交わす言葉もそれまでなく、静まり返っていたから。


 柔らかそうな金の髪に涼しい目鼻立ちに通った鼻梁。美形と呼べる顔立ちが緊張と驚きで訳の分からないことになっている。


「……意味が分からないのですけど、オリヴァー・ソロウ」


 妻のアリアは今日の昼間に夫に、自身の姓になったばかりの、もっと言えば一か月前に婚約者になったばかりのかつての同級生の顔をまじまじと見つめた。

 彼女もまたそれなりに美しくはあった。昼間はかっちり結い上げてある豊かな栗毛が湯上りの香りを放って肩にかかる様は、かっちりした寝間着を着ていてなお年相応の色気があったが、まるで無意味らしい。


 やはりこの普段の肌触り重視の寝間着にしておいて正解だったとアリアは思う。

 ある程度予想はついていた。侍女の選んだものであったらいたたまれなくなっていただろう。


 ――しかし、使用人たちによって部屋に送り込まれた政略結婚の夫婦としては、初めから仲が冷え切っているのも昨今珍しくはないようだが、それにしたって。


「……意味が分からない?」

「たとえ昨今流行の白い結婚、というにしても突然すぎます」


 眉を逆にひそめるオリヴァーに、そこにお座りになってください、とアリアは丸いテーブルを指さした。


「いや、今日は式でお互い疲れただろうしもう寝た方が……」

「だったらその話をよりによって何故今、しようと思ったのです。昨日でも一昨日でも、いくらでも話し合う機会はあったはず。いいから座ってください」


 アリアの有無を言わさぬ声の響きに、オリヴァーは仕方なく椅子に腰かける。

 アリアは雑に、黙ったままのマントルピースの上から紅茶缶をざざっとお湯の入ったポットに振り入れると、その口に金属製の「魔女の箒」を差してストレーナー代わりにして雑にお茶を入れる。


「ああ、済まない」

「どうぞ、サービスでカフェインたっぷりです。今夜は全部吐き出すまで、眠いとか言わせませんよ」


 にっこりと笑ったアリアはこげ茶色の瞳で夫が紅茶に口につけるのを見届けてから自身も唇を湿らせた。


「意味が分からないと言ったのは、まず政略結婚でこれをあなたが話すメリットがあるのかどうか、ということ。デメリットを考えられないほどの考えなしではないと思っていたのですが」

「……デメリット」

「商家のソロウが子爵家の名を借りて商売ができる、とはいえ、我が家の支援がなければそちらのお家は困窮していたのですから。私の機嫌を取っておいて損はないはず」

「ま、まあそうかもしれない」

「もうひとつは、ではどうしてそんな私と結婚することにしたのかということ。ソロウ家以外でもそちらのお家の爵位がメリットとなる商家はいくらでもあったはず」

「……他に釣り書きが来た家はどこも同じように見えて、選ぶなら知っている君がいいと……」

「では、自業自得ですよね」

「それで? 他には?」


 聞く気になったのかとアリアは眉根を寄せたオリヴァーの少し幼く見える顔に笑みを返す。


「愛すること『は』ない、なら、何ならしてくださいます?」

「……は?」

「その『は?』ではありません。愛することがないなら別の感情ならいいわけでしょう。友情とか、同志とか、飲み友達とか。あとほら、未来永劫愛することはないという意味でもない――確約できるわけでもありませんし?」


 オリヴァーはますます困惑したように首を傾げる。


「それこそ意味が分からないんだが」

「あなたのお仕事、占い師でしたっけ?」

「……何を言ってるんだか……」

「断言できるのは未来視ができる占い師くらいじゃないですか。自分の気持ちですら将来のことは断言などできません。あなたが学生時代に思いを寄せていたグレースさんだって、あなたから乗り換えて伯爵家に嫁がれたのですし」

「俺と彼女のことは関係な――」

「ないのでしたら、どうして急に結婚する気になったのですか。……さっきからあなたはやけを起こしているだけです」


 アリアにも、意地悪な言い方だったという自覚はある。

 なので、マントルピースの上の缶から、オリヴァーが好きな店のトフィーを山盛り取り出して、置いてあげた。


「……アリア・ソロウ。大人しい同級生だった君がゴシップ好きだとは思わなかったな」

「ゴシップではありません。たまたま、目に入っただけです」

「じゃあどうしてそこまで『知って』、釣り書きを送ってきたんだ。ご両親に話せばうちに送ったりしなかっただろう」

「あなたの……顔がずっと好きだったからです」


 虚を突かれたように、オリヴァーは呆けたような顔をする。


「か……顔?」

「美しい娘を欲しがる男性がいるなら、美しい青年を欲しがる女性がいても不自然ではないでしょう」

「……あのさ……俺は別に特段美形でも何でも」

「美形ですけど。そうでなくとも人の好みはそれぞれと言うでしょう。私は好きですよ、あなたの顔」


 じっと見つめれば、徐々に赤みが差していく。

 ――素直なのだ、この人は。昔から。


「じゃあ何、顔が好きだから家の援助ごと俺を婿入りさせたってこと?」

「あと、計算が早くて帳簿の付け方が上手でしたし、細かいところに割と気が付いて人のサポートに回れますし、身分で人を差別するような言動もしませんし、それから――グレースさんの告白を後押ししていました」

「……どこまで見てるんだよ」


 学生時代の顔に戻ったオリヴァーに、


「やけで、ろくに顔合わせもせずに――たった二度でしたね――結婚するものではありません。ましてや愛することはないとか言ってしまうような相手と」

「説教するために結婚したのかよ……アリアも顔合わせ中にずっとしかめっ面だったじゃないか」

「感情が出にくいだけです。ずっと泣き出しそうな顔をしていたのはオリヴァーでしょう」

「そんなこと……」

「あなたの同級生だったらみんな分かりますよ」


 アリアは、あなたは分かりやすすぎるんです、と続けた。


「鉄面皮のアリアが人の表情を読むのに『敏い』なんて初めて知ったな」

「その呼び名は久しぶりに聞きましたね。……まあだから、……今日は紅茶とトフィー漬けにしてあげます。最初からそのつもりだったのに」


 アリアは知っている。

 学生時代のオリヴァーがずっと、可愛らしい女学生を親切に手助けしていたことも、オリヴァーに好意を示しているように同級生の誰の目にも見えた彼女が、そうではなかったことも。

 その後片想いをしている相手に告白しようか迷っている時に後押しをしてあげたことも。

 学校帰りに寄り道してトフィーを大量に買い込んでいたことも。

 全部、彼を眼で追っていたらたまたま目に入ってしまっただけだ。


「それただの慈善行為だろ。……お人好しだな」

「別に、親切でも施しでもありません。……あなたがグレースさんに一途だったのは5年ほどでしたから」

「……え、何? 裏があるの?」

「結婚って、離婚しなければずっと続くんですよ」


 そんなこと知っている、とオリヴァーはトフィーを口に放り込みながら言ったが、本当に分かっているのかは疑わしいとアリアは思った。

 それからもくもくとトフィーの山を空にして、ベッドにごろんと寝転んで、ついに眠ってしまったオリヴァーの髪を撫でながら呟く。


「続きがあったのに。……その間にもしかしたら、好きになってくれるかもしれないでしょう、って。

 こんなことじゃ、私のことなんて全く覚えてないのでしょうね」


 顔が好きだと確かに言った。

 嘘ではない。

 グレースを見つめている顔が素敵だなと思ったのが初めてだった。ころころ変わる表情も、感情が顔になかなか出ないらしい自分と違って羨ましかった。

 それから、同級生の貴族に混じって商家だからということもあって、ちょっとした行き違いで仲間外れにされかかってしまったときに、間に入って公平にものごとを見てくれて、取り持ってくれたことも。

 格好良かったなぁと思ってしまったから。


「本当に昔から単純なひと――政略結婚と恋愛が同時に成立しないと、誰が言いました? 両想いならともかく、片想いなんて簡単でしょうに」


 昔の同級生から話が回ってきたのは偶然だった。

 あのオリヴァーが急に結婚相手を探しているだなんて聞いてすぐに分かった。

 だから、予定が入っていたお見合いを全部白紙に戻して、あちらのご両親に先に話を通してから、自分の釣り書きを書く紙を何日もかけて選んだ。

 高級で見目も良く、手触りが良い紙にしておけば何となく釣り書きが手に触れる回数が多くなるはず。

 人間は接触回数の多くなるものに親しみを感じると聞いて必死になって。

 顔合わせの服だって化粧だって、その時ばかりは好みの色にしてみた。


 これでいいや、でいいから、やけの相手に自分を選んで欲しかった。

 もしかしたら好きになってくれるかも、でなくても、告白できるかもしれないから。

 たとえすぐに離婚されたとしても。


「……私もたいがい、大馬鹿よね。思い出を大金出して買うなんて」


 呟いて、オリヴァーお気に入りの店のトフィーを自分も口に入れれば、甘い。甘すぎる。こんなもの皿いっぱい食べる人の気が知れない。

 やっぱり分の悪い賭けだった、とアリアはソファーに横たわって、毛布にくるまった。

 そして翌朝、アリアはオリヴァーに別居を申し出ようと思った。彼が離婚しやすいように。





 ――と、思っていたのだが。


「アリア……起きなよ」

「う、うぅん……?」


 揺さぶられてアリアが目を覚ましたのはベッドの上だった。

 もう朝かと思えば、まだ周囲は暗く、ランプの灯りがひとつついているだけだ。

 

「……何で私がベッドで寝てるの?」

「運んだんだよ。入り婿が花嫁を結婚初日からソファに寝かせてどうするんだよ……だいたい俺のせいだけど。先に寝て悪かった」


 目をぱちりと開ければ、項垂れているオリヴァーの頭が目に入る。


「それはご親切に……?」

「アリア、君、勘違いしてるだろう」

「勘違い?」

「やけを起こしてた理由」


 そんなもの決まってる、と口を開きかけた時だった。


「グレースは親戚なんだよ。昔よく遊んでたから妹みたいなものでさ。あいつが先輩を好きだって言い出した時に妹が嫁に行くような気がしただけで」

「親戚だって結婚はできるのでは?」


 なんて情けない顔をしているんだ、とアリアは思う。


「とにかくそういう関係じゃないんだよ。やけを起こしてたのは、君に縁談が持ち込まれてるらしいって友人もグレースも話してたから。あと、君がそれが嫌になってやけになって同級生だった俺と結婚しようとしてるんだと」

「……は? あなたこそ似たような釣り書きから適当に、同級生のよしみで選んだんじゃないんですか」


 オリヴァーはまじまじと見つめるアリアの視線からふいに目を逸らし、言いにくそうに、口を開く。


「貴族と平民のごたごたがあった時。君が他の子たちの盾になって数人に立ち向かっただろう。あの時すごく格好良く見えた。

 ……あれから何度か話しかけようかと思ったんだけど、グレースがいたし何となく避けられてるような気がして」

「ああ」

「君がいたから。君にしようと思った。ちょっとは脈があるかもなんて馬鹿な期待もした。

 なのに君は政略結婚ですなんて態度でずっといてさ、悲しくて。

 ……いいか、結婚したら離婚するまで夫婦なんだろう。とにかく俺を金で買ったとか思うなよ。援助費用以上、俺が稼ぐから。好きになってもらえるように頑張るから。だからその時には――」


 本当の妻になって欲しい、と。聞き取れないほどの声で言うものだから。


 アリアは起き上がって、手を伸ばすとオリヴァーの顔を上げさせ、自分の馬鹿な勘違いについてつらつら話し。

 夜はまだ明けてないし、多分私にもトフィーの香りが残っているんですけど、などと恥ずかしげにもごもごと言えば。

 別にどんな香りでも、と優しく抱きしめられるのだった。

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