貴族のような海賊

 声も出なかった。驚きで喉がひゅっと締まって、それが少し痛かった。

 骨に直接伝わる冷たい体温と、あまりに強い力。ミシと骨の鳴る音がして、ヴィヌは顔を思い切り顰める。

 刺すような鋭い紫は変わらずにヴィヌを射抜いたままで、その後ろで白いローブの男たちが何かを察したように背を向けて歩き出すのが見えた。

 貴族らしき男と襤褸の街の住人。二つが揃った状態で、何が起こるかなど想像に容易い。よほどの悪趣味でなければ、その場に留まることはしないだろう。現に教会の人間だけでなく、襤褸の街の住人達は足早に雑草の中へ消えていった。

 

 「ッ離せ」

 「……」

 

 掴まれた手を振り払おうにも、ヴィヌの枯れた腕では動かすこともできなかった。どうせ殺されるならと、思い切り男を睨み上げる。

 反抗的な態度を取るヴィヌを男は黙って見下ろしている。蜂蜜のような甘い顔立ちは、どうしてか威圧的に見えた。 

 ヴィヌに手を振り払う程の力はなく、男もヴィヌの腕を突き放そうとも引き寄せようともせず、暫くの硬直状態が続いた。ヴィヌは伸びきった髪の奥から男を睨みつけ、対照的に男は値踏みするようにヴィヌを見ている。


 激しい沈黙を破ったのは、男の方だった。


 「安心しろ、オレはお前を殺しに来たんじゃねぇよ」 

 「じゃあ笑えよ。オマエみたいなやつは、みんな笑ってそう言うぞ」

 

 鋭い紫がまろやかに緩められる。人の心を溶かすような雰囲気を纏い、目の前の紳士は笑った。それは確かに、ヴィヌが思い描いていたような“安心させるような笑み”そのものだ。

 まさか気位の高そうに見えるこの男が、自分の要求を素直に飲み希望通り笑って見せるなど思ってもいなかった。優しい紳士の微笑みにぐっと息を飲んだヴィヌは、腕を掴まれている手に強い力が加わったことで意識を引き戻す。

 次の瞬間、気付けばヴィヌの目の前には、優しい暖かな微笑みがあった。

 鼻を掠める煙の香り。襤褸の街の人間が吸うような粗悪品ではない、上品さと軽い刺激が美しく同居した煙草の匂いに一瞬だけ力が抜ける。

 

 「んぐッ」

 

 腕を離されたかと思えば、次は思い切り蹴り飛ばされて壁に背中をぶつけた。ぱらぱらと古くなった外壁の塗料が頭に振って落ちてくる。

 痛みに気を取られていると、左耳を掴まれて男と同じ目線まで持ち上げられた。高貴な光を灯す紫の瞳が髪のカーテン越しに見える。そこに、微笑みはもうない。

 

 「オマエの望みを叶えたんだ、代価を払え。オレの笑顔は高いぞ、ヴィヌ・マーリン」

 「……なんで名前知ってんだよ」

 

 一息置いて、男が告げた言葉が自分の名前であると気付いた。名前など、記憶の中の置物だ。自分のようで自分ではない、ヴィヌの中ではもうただの単語にすぎない。襤褸の街で名前は必要ないし、半生を名を持たずに生きてきた。襤褸の街の民たちの一部では、名前という概念を知らずに死んでいくものもいる。

 ヴィヌにとって名前など、食い物にも金にもならないただの単語だ。襤褸の街でその名を口にしたことは、おそらくあまりない。

 だから目の前の男が、自分の名前を知っていることが不思議でならなかった。

 

 「さァな。オレはただ、ご主人サマの言う通りにオマエと取引しに来ただけだ」

 「ご主人様? お前、貴族じゃねぇのか」

 「オレをあんな貧乏人共と一緒にするなよガキ。オレは海賊だ」

 「は?」


 この世界は、ほとんどが海を占めている。昔、創造神である十柱の神が大きな海を十に割り、それぞれを司っていたらしい。それが神魔戦争や人々の争い、堕天事変などで国や地形が滅び破壊された。海には遺跡や神遺物などの価値のあるものが数多く眠っており、それを狙い海を狩るのが“海賊”である。

 海賊の名は国から隔絶された襤褸の街にもよく流れてきていた。神遺物を教会から奪い、破壊するロザリア・ロンデ。滅びた国の再建を目指す氷明ひょうみょう一族など、この世界で名を馳せる海賊団は少なくない。

 

 この屋敷の椅子にふんぞり返って、人を苛め抜くのが大好きなような男が海賊だなんてヴィヌには到底信じられなかった。

 海賊とは暴力で全てをねじ伏せ、金と女を求め、名誉の為ならば貴族だろうが王族であろうが殺す。そんなどうしようもない人間たちの寄せ集めだと思っていた。少なくとも襤褸の街に時折落ちている新聞にはそう書かれていた。

 

 「ルート・B・ピオニアだ。ルート様と呼べ、オマエなんてクソ失礼な呼び方をしたら、十字架に逆さにはりつけて海に沈めるぞ。あの姫君の代わりにな」

 「……お前は、アデル様が死ぬ日を知ってんのか」

 「ホントに生意気なガキだな」


 ルートは肩を竦めて呆れたような仕草をすると、左耳を放り投げるように離した。熱を持って痛む左耳をよそに、ヴィヌは答えを求めるような瞳でルートを見上げる。

 腕と背中の痛みは遠いもののように思えた。痛みよりも何よりも、あの美しい姫の方が大事だった。


 「この国の人間は荒唐無稽な噂話ゴシップよりも、皇女殿下の不幸を囁く方がお好みのようだからな。この街の外じゃ、その話で大盛り上がりだ。処刑日が書かれた新聞が、狂ったように降り注いでやがる」

 「それで、いつなんだ」

 

 舌打ちまじりに答えたルートを、変わらずに見上げ続けている。

 あまりにも遠回しな言葉に少し苛立ちを覚えながら、次の言葉を待った。

 

 「オマエ、アデル・A・アティアトラの為に、死ねるか?」


 やけに響くルートの声。思い出すのは、遠く離れた場所にあった、希望のようなサンフラワーの瞳。長い睫毛に縁取られたそれが瞬きをして、瞼の裏に隠れる時間が一瞬であるのにとても長く感じられた。

 時間とも呼べない一瞬でいい。あの瞳をもっと近くで見たいと思った。


 「なんで……んなこと、聞くんだよ」


 潮の混じった海風に、髪が揺れている。柔らかな風に乗って、耳に入ってきた言葉を頭の中で繰り返した。

 それと同時に再生される、石と泥の舞ったパレード。汚されたフロート車と滴り落ちる赤をヴィヌは今でもしっかりと記憶に残っている。

 ギリッと奥歯を噛んで、ルートの言葉に答えた。目の前の紫は、静かに見下ろしていた。

 

 「いいから答えろ、ヴィヌ・マーリン。オマエは、あの美しい悲哀の皇女の為に、死ねるのか?」

 

 

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海の花嫁 @yana_0213002

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