海の花嫁

第一章 運命のリューココリーネ

襤褸の街

 長い睫毛に砂埃が纏わりついて、ヴィヌの視界は常に煤けている。時たま目に入って痛いけれど、擦っても擦っても気付けば世界は薄くぼやけて、埃が溜まったように見えてしまう。

 縮れた糸のような声でりんごを売る老婆。道の端っこで互いの呼吸を分け与えるように生きる兄弟に、すり潰した花を口紅をして男にしな垂れる美しい女。それを左手と右足が欠けた、男なのか女なのか分からないヤツが恨めし気に見ていた。

 

 この街に綺麗なものなど、一つもない。

 無計画に建て増しされた建物が雑草のように生えている。その隙間から零れる青空はヴィヌの枯れた両手に収まるほどに小さく、雲も太陽もこの街から目を逸らした。

 雑草と雑草の隙間で、汚れた街を睨みつけながら泥の味がする紙を貪る。

 最後にまともな食事を取ったのはいつだったか。多分、酷い雨が降った日に露天の爺から奪ったよく分からないパンだ。ざらざらした炭の味のパン。あまりに硬いから雨でふやかしながら食べた。


 生まれてからずっと、ヴィヌはこの街で一人で居る。

 底冷えするような凍の季節は、自分の体を強く抱きしめてただ耐えた。寄り添うようにしていた兄妹の死体の間に挟まって、暖を取ったこともあった。時折やってくる奴隷商人に捕まらない様に逃げ回って、鶏の死体が詰め込まれた樽に体を押し込んだのは貴族が気まぐれに起こす貧民狩りのせいだった。

 路地裏に捨てられた女から耳飾りを片方奪って、それを売って飯を買った。

 生きるために、ヴィヌは必死だった。この街の誰よりも、生きることにしがみついていた。

 

 いつかこの街を出て、あの美しい少女の鮮明なイエローをもう一度見るために。


 ヴィヌは味のしなくなった紙を吐き捨て、顔を伏せる。

 ため息と共に目を瞑り、塵交じりの空気を吸って瞳を開ける。


 「処刑が決まったそうだ」

 

 滑らかな低い男の声が聞こえた。声のする方にちらりと視線を向けると、そこには二人の男がいた。リーシュン教会の人間だ。真っ白なローブを身に纏い、顔を隠すようにフードを被っている。

 教会は襤褸の街にもいくつか拠点を置いている。時折こうして教会の人間が襤褸の街を歩くが、食べ物を与えるでも優しい言葉を掛けるでもなくただ、街や人をみて不愉快そうに顔を歪めるだけだ。

 ヴィヌは教会の人間が大嫌いだった。


 「悪魔の子か? また被害が出るぞ」

 「皇帝の血筋に悪魔の子がいるだなんて、国の名誉にも関わるからな。ある程度の被害を出したとしても、早々に処分したいのだろう」


 悪魔の子。

 そう呼ばれる人間をヴィヌは知っていた。大陸随一の大国、アティアトラ皇国の第三皇女として生まれたアデル・A・アティアトラである。

 アデルは同じ真っ暗なノワールの髪と、鮮やかなサンフラワーの瞳を持って生まれた。それはこの大陸で忌み色とされるもので、かつて世界を終わりに導き神を殺そうとした悪魔と同じ髪色と瞳だった。

 ヴィヌはじっと男たちの声に耳を澄ませる。

 

 「方法は決まっているのか? 一度目は斬首、二度目は……火炙りだったか」

 「今回は水磔すいたくだと」

 「悪魔の子で、神聖な海を穢すつもりか?」

 「皇帝は神聖な海の力で悪魔の子を滅するとか何とか言っているらしい。枢機卿たちは抗議文を送ったそうだが、皇帝の決定だといって跳ね返されたと」


 アデルは、美しい女だった。初めて見た青空よりも、微笑みかける花よりも何よりもずっとずっと綺麗だった。ヴィヌはあんな美しい人間を見たことがなかったのだ。とても汚れた自分とは正反対な、まっさらな人だった。

 一度だけ見た、眩い白雪の肌が記憶から離れない。真っ暗なノワールのロングヘアが、風に靡くさまをずっと反芻している。真っ直ぐに何処かを見つめる、サンフラワーの瞳にあの日からずっと囚われ続けたままだ。


 「処刑の日は確か……――」「退け」


 男の一人が言葉を続けようとした時、押しのけるような傲慢な声に遮られた。

 その声に釣られるように顔を上げ、男たちのいる方へ視線を向ける。

 二つの白いローブの奥に、対照的な真っ黒な影が見えた。派手な紫のシャツが目を引く、酷く整った顔をした男がいた。少し幼さの残る甘い顔立ちの男は、高貴な紫で教会の人間たちを睨みつけている。煤けた視界の向こうにも、よく見える鮮烈な色だった。


 「退けと言っているんだ、聞こえてねぇのか」

 「……ッこれは失礼。ところで、貴方はどうしてこのような場所に?」

 

 身なりからそれなりの地位だと推察した男たちは、道を開けるように少し左右に動いて男に問いかけた。

 白いローブに遮られていて見えなかった男の容姿が良く見える。

 肩から掛けられた灰色がかった黒いコートが、ひらひらと揺れている。派手な紫のシャツが違和感なく似合っていた。コートと同じ色をした騎士の制服のようなものを纏い、地を踏む革靴は陽の無い街中でもつるりと輝いていた。言葉の圧や仕草は貴族そのもので、ヴィヌははっと意識を取り戻して、視線を地面へと戻す。


 貴族と奴隷商人。この二つは、襤褸の街でも最も関わってはいけない人種である。奴隷商人は仕入れの為に襤褸の街を訪れ、女子供を薬を使って攫って行く。仮にも商品であるため、乱暴な手口は使ってこないがあまり抵抗すると容赦なく殺される。

 たいして貴族によって行われる貧民狩りは、もっと酷い。貴族の一部は、襤褸の街に住む人間を人とも思っていない。森で動物を狩るように、襤褸の街で人を殺す。女も男も子供であろうが老婆であろうが体を暴かれ、一度貴族に捕まればどんな拷問をされるか分からない。見せしめのようにたくさんの人が殺された。貴族に逆らえばこうなると、襤褸の街の人間に刻み付けるように。

その地獄なんて生温い言葉で片付けられない光景を、ヴィヌは何度も見てきた。

 

 逃げなければと両足に力を入れて立ち上がる。


 「逃げんなよガキ」

 「……ッあ」


 ぐっと強い力に阻まれて、ヴィヌは足を止める。薄っぺらい布切れの向こうに、とても冷たい体温を感じた。振り返れば、鋭い紫の瞳がヴィヌを真っ直ぐに見ていた。


 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 



 


 

 

 

 

 

  

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