第2章

 瑠姫がトンネルを抜けたとき、目の前には陽光を浴びて輝く石畳の道が広がっていた。鳥のさえずりが高く響き、脇草の中には様々な色の花が点々と咲いている。冷たく張り詰めていた空気が和らいで、暖かな風が彼女の頬を撫でた。

 振り返っても公園につながるトンネルの出口はもう見えなかった。大きな木々が背の高いアーチを描き、日光が葉の隙間から降り注いでいる。彼女は一瞬、自分がまた夢の中にいるのではないかと思った。しかし、足元の石畳の感触や、風に揺れる葉の音があまりにもリアルで、これは夢ではなく現実だと感じさせた。

 瑠姫は、早く家に帰らなくちゃと思った。家に帰ったらまずシャワーを浴びよう。それから昼食をとって、学校の課題をこなして……そんなことを考えながら瑠姫は家路を急いだ。彼女は、またいつかあの公園で少年に会えるかもしれないと淡い期待を抱きながら、家に向かって歩き続けた。

 日が高くなった空の下、瑠姫は家のドアの前で一度深呼吸をした。暖かな家の灯りが窓から漏れていて、まるで帰りを待っているかのように優しく彼女を迎えてくれている。彼女は、心の奥に残る森の静けさと少年の言葉を胸にしまいながら、そっとドアを開けた。

「ただいま。」

 瑠姫の声に反応するように、奥から母親が出てきた。少し眉をひそめ、けれどもほっとしたような表情を浮かべていた。

「瑠姫、どこに行っていたの?心配したのよ。最近はずっと家にいたのに急に何も言わずにどこかへ行くんだから…昼ご飯もうすぐできるわよ」

 母の言葉には愛情がにじんでいた。瑠姫は優しく答えた。

「ちょっと散歩してきただけ」

 それだけを伝えると、彼女は視線を逸らし二階に上がって自分の部屋に入り、そっと自分のコートを脱いでかけた。本当のことを話すこともできたのかもしれないが、言葉にしたらあの出来事が何か壊れてしまいそうで、彼女はそれを口にすることができなかった。手袋等を片付けながら、瑠姫は心の中で思い返していた。あの摩訶不思議な公園、そして少年が言った言葉たち。その言葉たちが瑠姫の心にそっと残り、消えない静かな響きとなっていた。

 食卓で母と昼食を囲みながらも、瑠姫の心はまだ少しあの場所に置き去りにされているようだった。スープを口に運びつつも、彼女の視線は遠くを見つめている。

「何かあったの?体調はどう?」

母親が気づいたように問いかけたが、瑠姫はただ

「ううん、何でもないよ。体調はそこそこ」

と優しく微笑んでみせた。

「そう、ならいいけど…」

母親もそれ以上は聞かず、穏やかな時間が流れる中で、瑠姫は自分の胸にしまった秘密が少しずつ形を持ってきているような気がした。

「ごちそうさま」

 昼食を終え、食器を流しに片付けて、瑠姫は自分の部屋に戻った。そして、勉強机に向かって勉強道具を広げながらふと思った。この日々はいつまで続くのだろうと。ただ過ぎていく時間の中で自分はどうなってしまうのか、その不安が彼女の心をかすめた。けれども同時に彼女は自分の中に何か新しいものが芽生え始めていることに気づいていた。それは未知への好奇心であり、自分自身への探求心でもあった。

 瑠姫はそっとゲーミングチェアから立ち上がり、窓の外を眺めた。そこにはいつもと変わらない景色が広がっていた。しかし見え方は違う。ただの直感だったが、自己の中に眠っていた何かが触発されて出てきたように思った。この日々の先に何があるのか、そして自分の中に芽生えたこの不思議な感覚の正体は一体何なのか、それを確かめるためにもまずは一歩ずつ進んでみようと決意するのだった。どうやって?それは瑠姫には分からなかった。

 それから彼女は起床したら窓を開け、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、窓の外に目を向けるのが習慣になった。庭に霜が降りていないかを確認するためだ。霜が一面に広がるその朝を待ち望む彼女の心には、あの静かな公園と、少年の存在が消えない温もりとして残っていた。

 しかし、霜の降りる朝はなかなか訪れなかった。冬は徐々に深まっていたが、暖かい日が続き、庭に白く輝く霜は見当たらない。瑠姫はその度に少しだけ肩を落とし、残念そうに窓を閉じて、普段の生活に戻るしかなかった。普段の生活といってもやることはないので勉強や読書などをして時間を潰している。それでも、彼女の心はどこかで希望を抱き続けていた。また会えるかもしれない、という期待とともに、あの日の出来事を静かに反芻していた。もしかしたら、あの出会いはただの夢だったのかもしれない。でも、夢だとしたらなぜこれほど心に残っているのだろう。少年の言葉や表情は、日々を重ねるごとに一層鮮明に心に刻み込まれていくばかりだった。

 そんな日が続くうちに、瑠姫は少しずつ不安を覚えるようになった。もしかしたら、もう二度と会えないのかもしれない。その考えが心に忍び込んでくると、彼女は小さく息を呑み、寂しさを感じずにはいられなかった。けれど、そんなことはないと思い直す。霜の朝がこの先一日もないなんてことがあるわけない。その日が訪れることを待ち続けよう。期待と不安を胸に抱えながら、瑠姫はくる日もくる日も勉強や運動をして日付を消化した。

 比較的暖かい朝が続く中、ようやくその日がやってきた。

 瑠姫が窓の外に目をやると、庭一面に霜が降り、光り輝いていた。瑠姫は胸が高鳴るのを感じ、心臓の鼓動にあわせて小さく深呼吸をした。ついに、あの日と同じ霜の朝が戻ってきたのだ。急いでセーターを着込んで、コートを羽織るとそっと玄関の外に出た。冷たく張り詰めた空気が、肌に鋭く触れる。けれど、その冷たさすら瑠姫には心地よく感じられた。

「いってきまーす」

 あとで文句を言われないよう一言母親に声をかけてから返事を待たずに庭を抜け、少し凍った草を踏みしめながら歩いていった。足音が雪のように小さく響くたび、彼女の心は期待に満ち、自然と足取りが軽くなる。瑠姫はあの日と同じ道を軽やかに進んでいく。

 例のトンネルの前にたどり着くと、瑠姫は一瞬、立ち止まって息を整えた。あの不思議な空間が再び彼女を導いてくれるだろうか。期待と少しの不安が入り交じりながら、彼女はゆっくりと足を踏み入れた。

 意外なことに、トンネルの中では何も起きないようだった。何も起きなかったということはあの少年に今日は会えないのではないかと不安に思ったが、その思いを踏み潰すように強く地面を踏み締めてトンネルの出口を目指した。

 トンネルの出口に差し掛かった瞬間、目の前に広がる光景に安心した。前と同じ少年が公園の中央に堂々と立っていたのである。ずっと瑠姫を待っていたのだろうか。少し待ちくたびれたような表情で彼女を見つめている。瑠姫はその姿を見つけた瞬間、胸が温かくなるのを感じ、思わず歩み寄った。

 少年はにっこりと微笑みながら、静かに言った。

「ようこそ。予定より少し遅かったけど、君は再びここに辿り着くことになっていたんだよ」

 その言葉はまるで予言者のようで、瑠姫の心に変化球的に響いた。彼女は頷き、どこかほっとしたような微笑みを浮かべて返事をする。

「うん、また会えるってなんとなく思ってた」

 彼の目は少し輝き、再会を喜ぶように優しく彼女を見つめ返すが、どこか冷たく寂しそうな目だった。その違和感を瑠姫は見逃さなかったが、胸に溢れる温かい気持ちは、それを遮るように前回の別れの寂しさを包み込んでいった。二人は自然と視線を合わせ、言葉にしなくても伝わる絆を感じながら、再び霜の公園で向かい合って立っていた。

 瑠姫は、少年に聞きたいことが山ほどあった。なぜこの公園は存在するのか?そして、この不思議な出来事の意味は何なのか。しかし、それを言葉にするよりも前に少年は口を開いた。

「君は、この公園がなぜ存在するのか知りたいんだね」

 瑠姫は静かに頷いた。少年は少し間をおいてから語り始めた。

「実は僕がこの場所を作り出したんだ」

 瑠姫の心に新たな疑問が浮かんだが、彼はそれを見透かしたように続けた。

「それは君のためだけじゃない。今、僕はただこの公園を維持するために存在しているんだ」

「維持する?」

と瑠姫は問うた。

「そう。この公園は、君のような人が訪れるのを待っている。そして、その人のために僕は存在するんだ。でもそろそろ限界だ。この公園はなくなるだろう。君がここを訪れた最後の一人になるかもしれない」

 瑠姫はますます混乱した様子で少年に尋ねた。

「消える?最後の一人?」

 少年は優しく微笑んで、彼女の問いに答えた。

「そう、この公園は君のような人のために存在している。でも僕はもう必要ないんだ」

「必要ない?どうして?私はまたあなたに会いたい」

瑠姫がそう言うと、少年は軽く目を伏せた。そして再び瑠姫をまっすぐに見つめ、静かに語り始めた。

「君はここにくる前と随分変わった。そしてこれからもいい方に変わり続ける力を持っているからね」

瑠姫は彼の言葉に疑問を抱きながらも、彼の目を見つめ返した。その目はどこか切なかった。彼は続けて言った。

「君はもうここに来なくていいんだよ」

 瑠姫の心に冷たい風が吹いたような気がした。彼女は悲しそうに言った。

「でも……あなたと出会ってからほとんど話してないし、日常が大きく変わったようには思えないんだよね」

 少年は微笑んだまま答えた。

「そうだね、僕と君が話した時間は確かに短かった。けど、君は来たるべき霜の日を待ち続けその間に勉強など現実的な活動をしていたろう。灰皿をひっくり返したような日常が、流水に洗われるように変化したのは明らかだ」

 そうかもしれない、と瑠姫は思った。最近は不思議と身体が軽く、調子もよいと感じていた。でもそれが変化なのかただの波状運動なのかよく分からなかったし、この公園がなくなると、自分の変化も一緒に消えてしまうような気がした。

 彼は優しく続けた。

「君はもう自分の力で前に進むことができるはずだよ。いや、もっと言えば変化さえも実は君の力なんだ。君は大きな力を持っている。それに君は気づいていないだけだ」

その言葉は瑠姫の心に響いたが、それでもまだ納得できない。

「でも、今変わったと思っていたことは一時的な現象かもしれないし、それに自分に大きな力があるなんて思えないよ」

と瑠姫が食い下がると、彼は穏やかに諭すように言った。

「要はね、自分には大きな力があると信じることが大切だということだ。あと、人というのは自分が変化していることに気づかないものなんだ。久しぶりに会った人には君の変化がはっきり分かるだろう」

 瑠姫は少し考えてから言った。

「……じゃああなたはこの公園がなくなったらどうなるの?」

 少年は少し考え込んだ後答えた。

「そうだね……僕はこの公園がなくなったら存在している理由がないから、消えてしまうだろう」

 そんなのおかしいよ!瑠姫は心の中でそう叫びつつも、それを言葉にすることはできなかった。彼は続けた。

「そろそろ時間みたいだ。最後に言っておくと、この公園は実は君の心の中にあるんだよ。だから見かけ上消えることを嘆かなくてもいいんだ。君はこの公園の実体を必要としないだろうから……あ、それと暗い方へ行っちゃだめだよ。僕みたいになるからね」

 瑠姫がちょっと待って、と思ったときには彼は消えていた。

 その瞬間、瑠姫の視界がグニャリと曲がり、薄暗くなった。どうやら例のトンネルの中にいるようだが、片方の出口は明るく、もう片方の出口は暗い。彼は最後に暗い方へ行ってはいけないと言っていたが、それは元の世界への出口ではないからだろうか。

 僕みたいになる、と言ったのは彼もその昔に同じ体験をして暗い方へ進んだことで公園の維持者になったのかもしれない、と瑠姫は思った。そして、その公園がなぜ存在するのかという謎を解明することはできなかったが、それでも瑠姫はこの公園にまた来たいという気持ちを強く感じていた。

 彼女は暗い方の出口へ進んで公園で誰かを待つのも悪くないかもしれない、と思い始めた。苦しい現実の世界でこれ以上何が出来るというのだろう。この公園を維持すれば、日常の苦しみから逃れることが出来る、と瑠姫は思った。

 瑠姫は暗い出口の方へ一歩足を踏み出しかけたが、ふと思い直して立ち止まった。そして少年の言葉を思い出し、なぜ彼が自分が暗い出口に行かないよう忠告したのか考えた。

 それは瑠姫自身が変化することを恐れ、自分の本当の力を信じきれない状態にあるからかもしれない。確かに彼の言う通りだ。ここは楽しい場所ではあるが、永続性はない。人がずっとここにいることはできない……一時的な逃避にしかならない公園なのである。

 現実から逃げるな。

 変化を恐れるな。

 力の限り生きろ。

……瑠姫はそういう彼からのメッセージだと結論した。

 彼女は明るい方の出口へ進み始めた。現実の出口へ向けて、明日へ続く道をしっかりと歩いて行く決意を持って。

 彼にせめて感謝の言葉を伝えたかったと瑠姫が思った頃には、外に出ていた。太陽が高く上がっている。急いで帰らないとお母さんが心配しちゃう、そう思いながら家に向かって瑠姫は笑顔で駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霧崎幸 @kirisakikoo0422

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画