霜
霧崎幸
第1章
夜の名残がわずかに残っている静かな早朝、薄い窓を隔てた外の寒さが
「今日こそは外に出よう。」
瑠姫は寒さが苦手だったが、冬の景色に魅了された彼女は、パジャマのまま階段を駆け下りまだ手入れしたばかりの冬用の靴を履いた。それから玄関の扉を開け、外へ一歩を踏み出した瞬間、冷たい空気が顔や指先を襲う。思わず瑠姫はぶるっと震えたが、その寒さが彼女の感覚を新しく覚醒させるようだった。そのまま冷たい空気を吸いながら庭に向かい、霜を踏みしめながらそこにたどり着いた瑠姫は、その美しさに思わず息を飲んだ。
「わぁ…」
辺り一面に広がる光。うっすらと白い霜が覆い、小さな石や草の一つひとつが輝いていた。まるで絵画のような光景が広がっていたのである。瑠姫はゆっくりと歩きながらその光景を目に焼き付けた。そして彼女はそっと地面に手を伸ばし、霜の冷たさを指で確かめてみた。ふわっとした見た目とは裏腹に、霜は固く、触れるとすぐに指先で溶けて水滴がにじんだ。
「瑠姫、今日は調子がいいの?」
急に母に話しかけられて瑠姫は現実へ引き戻された。母はこの時間に毎日庭の手入れをしているのだ。瑠姫は適当に返事をした。
「まあ、普通かな」
「そう。今日は寒いから上着を着た方がいいわよ」
母は分かりきったことを言った。さっきまでの幻想的な胸の高鳴りはどこかへ行ってしまった。
「うん」
瑠姫はまたしても適当に返事をして部屋に戻った。使い慣れたパジャマを脱ぎ、ほとんど新品の厚手のセーターに腕を通し、フード付きのコートを着込んだ。手袋を忘れずにはめ、瑠姫は再び外へ出た。外の冷たい空気を吸い込むたびに、鼻の奥までしんとした寒さが染み渡り、その一歩一歩がどこか特別に感じられた。
瑠姫は見慣れた家々を通り過ぎて、いつもは通らない道を歩み始めた。その道は行き止まりになり、ほとんどの人が通ることがない小道だったが、大通りには行く気になれなかった瑠姫はそこに入った。薄汚れた石畳が続き、木々が頭上でアーチのように交差し、彼女は古い物語の中にいるような気分になった。さらに進むと錆びたベンチがあったが、人の気配はしないのにちょっと前に人が座ったような形に霜が溶けていた。
「…?」
不思議に思って早い足取りで瑠姫はさらに奥へ進んだ。すると霜で覆われた石壁のトンネルの入り口が見えた。このトンネルの手前までは、幼い頃に今は亡き祖母と一緒に一度通った場所。ふと、当時の彼女が小さな手で祖母の手を握りしめながら、「この道はどこまで続くんだろう?」と尋ねた記憶が蘇る。
祖母はトンネルを抜けた先に公園があると教えてくれたが、なぜかそこまでは連れていってくれなかった。その頃の瑠姫にとって、トンネルの先は未知の冒険であり、少し怖いものでもあったのだ。そんな記憶を思い出しながら、瑠姫は一人でトンネルの前に立った。薄暗いトンネルの中はしんと静まり返り、冷気が奥からじわりと漂ってくる。なんとなくここから先へは入ってはいけない感じがすると、彼女は思った。
しかし、このまま帰るのでは昔の自分と何も変わらないと考えた瑠姫は勇気を出してトンネルの中に一歩を踏み出した。踏むたびに霜が砕け、柔らかな音が耳に響く。瑠姫はその足音も、どこか遠くに吸い込まれていくような気がしたのだった。
トンネルの中は想像以上に暗く、外から差し込む光が消えると、ひんやりとした冷気が一層濃く感じられた。瑠姫は小さな足音を響かせながら、慎重に一歩ずつ足を進める。周囲の石壁は薄く霜に覆われ、指でなぞると冷たさがじわりと伝わってきた。
トンネルの中ほどまで進んだ時、瑠姫はまるで誰かに見られているような、そして幼い頃の思い出が微かに甦ってくるような感覚に襲われた。さらに、小さい頃に見たトンネルの向こう側の夢がぼんやりと脳裏に浮かんだ。夢の中で誰かが彼女に手を振り、霧の中に消えていったシーンが思い出された。それは遠い記憶の片隅に押しやられていた夢で、今まで意識することもなかったものだったが、霜に覆われたトンネルを歩くうちにふとその情景が蘇り、彼女の心に淡い不安と寂しさを残した。彼女はその場で息を潜め、耳を澄ませた。かすかに何かの音が聞こえてくるように感じられ、それが風の音か、誰かの囁き声か、区別がつかない。けれども、彼女の背後にはまだ妙な気配が残っている。どこか懐かしいような、でも見知らぬ不安が心を覆い、瑠姫はほんの少し足をすくませた。しかし、奥に進むべきか迷っている自分を奮い立たせるように、彼女は再び歩き出した。
トンネルを抜けると、そこは公園のようだった。見渡すと、冷たい霜が
そのとき、
「やあ、ここは初めてかい?それとも二度目かな?」
陽気な声に思わず振り向くと、小さな人影がトンネルの方からこちらに向かってきていることに瑠姫は気づいた。顔が見えると、それは瑠姫と同年代か一回り下の少年のようだった。彼はやや古びた服を着ており、どこか現代のものとは違う雰囲気を醸し出していた。彼は瑠姫に、にこりと微笑んで軽く手を振った。
「こんにちは、霜の日は、いつもここで君を待ってるんだよ」
彼の言葉に、瑠姫は驚きと混乱で言葉を失った。いつも待っている?どうして私のことを知っているんだろう? そんな疑問が次々と浮かんできたが、彼はそのまま静かに微笑んで、瑠姫を公園の中央へと導くように指差した。不思議と怖さは感じられず、むしろ懐かしい感覚が瑠姫の胸に広がる。
「あなた、誰なの?」
と彼女はようやく問いかけた。
「それは…君の知ってる人かもしれないし、知らない人かもしれない。でも霜の日になると君はここに来る。それで僕は君とまた会える」
そう囁く彼の言葉はどこかぼんやりとしていて、まるで昔から自分を待っていたように瑠姫には感じられた。瑠姫は心の中で、この少年がもしかしたらあの夢に出てきた人かもしれないという考えが頭をよぎった。あの霜の日に見た夢の中で、誰かが彼女に手を振り、霧の中に消えていった姿がぼんやりと蘇る。
「名前は?」
と瑠姫が尋ねると、彼はふっと微笑み、小さな声で
「今は名前はないよ。霜の妖精みたいなものだね」
と言った。その言葉に瑠姫はなぜか何も言えなくなり、少年に黙ってついていくことにした。いつの間にかトンネルは霧に包まれて、ほとんど見えなくなっていた。二人で並んで歩く公園は白い霜で一面覆われ、冷たい霧の中で静寂が支配している。冷たい空気が彼女の頬にしみ、霜で覆われた地面を踏みしめると、「サクッ」という音が耳に心地よく響く。
彼は歩きながら、瑠姫に何かを話しかけることもなく、ただ静かに前を見て歩いていた。彼が何者なのか、どうして彼女を知っているのか、気になることはたくさんあったが、彼の不思議な雰囲気に圧倒され、瑠姫はしばらくの間、言葉を失っていたのだ。
しばらくすると、少年はふと足を止め、瑠姫に向かって静かに話し始めた。
「君はたぶんここに来るのは初めてじゃないよね?小さい頃、この公園を歩いていたこと、覚えてる?」
その言葉に瑠姫は驚いて彼を見つめた。確かに、夢でここを訪れた記憶はあったが、誰にも話したことはなかったはずだ。瑠姫はどうして彼がそのことを知っているのか、不思議で仕方なかった。
「夢の中で」
と瑠姫は答えた。
彼は少し考えるように視線を落とし、それから微笑んで断定した。
「それは君の勘違いだ。君はここに絶対来たことがある。」
瑠姫はその言葉に戸惑いを覚えた。自分の記憶の中にこの少年がいるような気はしないけど、どこか懐かしく、そして幼い頃に見た夢の中に彼がいたような気がしてならない。霜が降りた日に見た、夢の中で彼女に手を振り、霧の中へと消えていった誰かの姿が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。
「それって…現実の出来事なのかな?私、小さい頃に霜の日に見る夢があった気がするの。でも、それが現実のことだとはどうしても思えなくて…」
少年は、優しく微笑みながら頷いた。
「そうか。今はそれでもいいよ」
と彼は言った。続けて、
「君は……この公園をどう思う?」
と少年は静かに瑠姫に問いかけた。
その言葉に瑠姫は少し考え込んだが、やがて素直に答えた。
「この公園には、何か大切なことがある気がするわ。なぜかわからないけど、それも私の昔の思い出と関連があるのかもしれない。」
それを聞いた少年はにっこり笑ってうなずいた。彼の微笑みは温かく、どこか懐かしい気がした。
「不思議に思えるけど、大事な思い出だよ。君が幸せであるための」
と少年は言った。
その言葉に、瑠姫はなぜか嬉しくなって胸がいっぱいになった。彼女はこの公園で何か重要なことを学んだような気がした。うまく言葉にはできないけれどそれでいい。そう考えながら、彼女は少年に向かって微笑んだ。
「ありがとう」
と彼女が言うと、彼も優しく微笑んで頷きました。
沈黙が辺りを包みました。風もなく、葉ずれの音すらしない静かな公園。陽光はゆっくりと明るさを増し、霜の風景を柔らかな光で照らしている。彼は再び口を開きました。
「そろそろ霜が溶ける。君はトンネルをくぐって帰らなきゃいけない」
そして次の瞬間、彼はゆっくりと手を瑠姫の手に近づけてきたが、その指先は彼女の手に触れずにそのまま霧の中へと溶け込んでいった。まるで夢のように消えてしまった少年の姿に驚きと戸惑いを覚えながら瑠姫はトンネルの方を振り返った。そこで初めて濃い霧でトンネルがほとんど隠れていることに気がついた。
瑠姫は決意した、急いでトンネルをくぐって家に帰ることを。彼が何者なのか、自分とどんなつながりがあるのかもわからないまま、それでもこの霜の日が二人にとって特別なものであると感じた。
彼女はしっかりと足を踏み出し、トンネルに向かって早足で歩き出した。そして最後にもう一度だけ後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。ただ霜が静かに降り積もり、公園を包み込んでいた。
瑠姫はトンネルにたどり着き、その向こう側へと踏み出した。すると再びあの懐かしい感覚に包まれた。その思いを託すように
「またね」
と瑠姫は呟いた。
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