第9話 幼馴染は教え上手?
里桜は昔から頭の良い子だった。一を聞き十を知るを体現するような、そんな賢い女の子だったんだ。
具体的な例を挙げるとするならば、やはり九九を習った時のことが印象的だろうか。
「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん──」
俺はその日習ったばかりの一の段を口にしながら必死で覚えようとしていた。翌日にはちゃんと覚えたかどうか確認されるから、確かそんな理由があったはずだ。
そんな俺をよそに里桜は隣で九九表を無言でじっと眺めていた。そしてしばらくすると静かに頷いて口を開く。
「よーしっ、おぼえたっ!」
「えぇっ、もう?」
俺の頭は今も昔も変わらず、悪くはないがさほどよくもない。平凡よりも少し上、その程度のものである。当然、九九にしても覚えるためには反復練習が必要で時間がかかる。
「うんっ。これぜんぶおぼえたよっ!」
里桜はその日もらったばかりの九九表のプリントをひらひらさせていた。
「……えぇっ、ぜんぶっ?!」
「うん、ぜんぶっ!」
「里桜すげー……。こんなちょっとの時間でおぼえてわすれたりしないの?」
「んー? もしわすれちゃっても計算するだけでしょー?」
「けい、さん……?」
俺はただただ呆気にとられるしかなかった。
九九と同時に掛け算の概念自体も習ってはいた。それでも俺は九九は覚えるものだって思ってたんだ。
その日の段階で授業で習っていたのはまだ一の段のみ。なのに里桜は一から九の段全てを覚え、あまつさえ忘れたら計算するだけだと簡単に言ってのける。
まさに一を聞き十を知る。いや、九九だから九を知るが正しいのかもしれないが、そんな細かいことはどうでもいい。
とにかく、記憶力、読解力、理解力、計算力、その全てにおいて里桜は並外れた能力を持っていた。
***
里桜との生活にも少しずつ慣れ始め──
って、全然慣れねぇけどなっ!
里桜はやたらと俺にちょっかいをかけてくるし、そういう時はなぜかものすごく距離が近いし。そのどれもを「私達、幼馴染でしょ?」という言葉でゴリ押してくる。
すでに俺の中では元々あった『幼馴染』という概念が崩れ始めている。
いや、まじで幼馴染ってなんなんだろうな?
そして、ただでさえ女の子と一つ屋根の下というこの状況、簡単に慣れろという方が無理がある。
──とにかく、高校入学まであと一週間という日のことである。
まず朝一、里桜に揺すり起こされた。里桜は毎朝決まって7時に俺を起こすんだ。もちろん初日同様に、お互いの部屋には用事がなければ入らないというルールを強引な解釈で捻じ曲げてだ。
春休みなんだからもう少しゆっくり、という俺の意見はこの生活が始まった数日後にバッサリと切り捨てられていた。おかげで最近の俺は早寝早起き、実に健康的な生活リズムを手に入れている。
それから着替えをさせられて、よほどのことがなければ食事は一緒にと言い張る里桜と顔を突き合わせて朝食を摂ることに。
「はーい、どうぞっ。召し上がれ?」
さっきまで着けていたエプロンを外した里桜が俺の前に皿を並べていく。
「ありがと。いただきま──す?」
……なんで目玉焼きがハート型なんだよ。
またか、とも思う。
いきなり初日からオムライスにハートマークを描いた里桜は、その後もちょくちょく料理にハートを仕込んでくるんだ。
昨日の夕飯のハンバーグの形もハートだったしな。洗い物の中にハート型のセルクルがあったから、今回もそれを使ったのはわかるんだが。
その前は味噌汁にハート型の人参や大根も入ってたっけ。つまりセルクルとは別にハートの抜き型もあるということだ。
ちなみにこれは毎回『えへへ、可愛いでしょー?』と笑って済まされる。
見た目がラブリーすぎるけど、味はどれも完璧なんだよなぁ……。
そんなことを考えつつ俺好みの半熟加減な目玉焼きを突いていると、里桜は思い出したように口を開いた。
「そういえば隼くんっ」
「ん、なんだ?」
「入学式までにって言われてた課題って、もう終わってる?」
「……っ?!」
毎度里桜は痛いところを突いてくる。
中学の卒業式の翌々日、俺が家を放り出される前日のことだが、高校の入学前オリエンテーションが行われたのだ。学校の説明やこれから必要になる教科書類の購入の他に、新入生の俺達には春休みの間にやるべき課題が与えられた。
引っ越しの準備やら里桜との共同生活の開始なんかでそれどころではなく、しばらく放置されていた課題。一応手は付けているのだが、現状まだ半分も終わっていない。
「あー、隼くん。その顔、さては終わってないなー?」
からかうように笑いながら里桜が言う。
「表情を読むんじゃねぇよ……。終わってねぇけど今やってんのっ。そういう里桜こそ終わってんのかよ?」
「私? そんなのとっくに片付けてあるよ? ここに来て三日後くらいだったかなぁ」
「まじかよ……」
そういやそうだった。里桜は夏休みの宿題なんかでも先にちゃちゃっと終わらせるタイプだったか。にしてもあの三日後ってのは早すぎるけどな。
「ふふーん、えらいでしょー? だからね、もし隼くんがよければ手伝ってあげられるけど、どうするー?」
「いや、いいって。自分の分が終わってんのにそんなの悪いだろ」
「今更そんなことで幼馴染であるこの私に遠慮しなくてもいいんだよ? ほら、昔だって宿題手伝ってあげてたじゃない。夏休みとかさ、隼くんなかなか始めないんだもん」
「ぐっ……」
ことさらに幼馴染を強調する意図はわからないが、言ってる内容は正しい。先に終わらせる里桜に対して俺は昔からスロースターター、割とギリギリで終わらせるタイプだった。一応、間に合わなかったことはない。
「ふふっ。隼くん、そんなところまで変わってないんだね。いいよっ、ご飯終わったら見てあげるね」
「悪い、助かる……」
一度は断った俺だが、正直なかなか進まなくて困っていたところで、里桜の申し出はありがたかったりする。課題の内容自体は中学の復習だけなのに、受験が終わった開放感で頭から抜けていることも多かったんだよな。
里桜が手伝ってくれるならサクッと終わるだろ、この時はそう思っていた。
場所はリビングでということになったので、食事の後で一度部屋に戻り課題を取ってくると、里桜はローテーブルの前にソファを背もたれにしてちょこんと座っていた。
食事の時と同じく里桜の向かい側に座ろうとすると、ちょいっと腕を引かれる。
「隼くん、どこに行くの?」
「どこって……そっち側だけど?」
「そんなのダメだよっ。反対向きじゃ読みにくいでしょー? だからほらっ、こっちきて?」
そう言って里桜は自分の右隣をポンポンと叩く。
「……わかった」
思うところがないわけではないが、こちらは手伝ってもらう身、里桜のやりやすさに配慮は必要だろう。里桜の隣に拳3つ分くらい距離を空けて座ると、にっこりと微笑まれた。
やっぱり里桜が笑うと……。
可愛くて、眩しくて、心が掻き乱される。なるべく見ないようにしている感情にまで突き刺さるようで──
「さーてっ、始めよっか? まずは自分でやっててわかんなかったところとかある?」
「あー、いくつかあるな。えっと確か──あった、これだこれ」
ひとまず集中しないと里桜にも失礼、そう思って気を引き締めた矢先だった。
「んーと、どれどれ?」
……近っっっ!!
里桜は俺がわざわざ空けておいた拳3つ分の距離を一息で詰めてきやがった。
肘っ! 肘にっ!!
ふにゅっと柔らかい感触が押し当てられて、今まで必死で頭から追い出そうとしていた再会の瞬間がフラッシュバックする。
「あー。これはね、──が──で────ってなるの」
里桜がなにやら説明してくれているはずなのに、その肝心の内容が全く頭に入ってこない。まるで呪文を唱えているみたいだ。
「だからここで──の────を使えばいいんだよ……って隼くん、聞いてるの?」
「えっ?! あ、ごめん……。なんかぼーっとして……」
謝るついでに隣を見れば、里桜も俺を見ていて視線がぶつかる。
──くすっ
里桜は目を細めて小さく笑い、ふいっと手元に視線を戻す。
「今度はちゃんと聞いてないと、ダメだからね?」
「あ、あぁ……」
……俺で遊んでやがるな、里桜のやつ。
そうとわかればどうにでも──
「しゅーんくんっ? まーた手が止まっちゃってる。私の顔見てても進まないよー?」
「──へ?」
──ならねぇじゃんよっ!
なんでなんだよ……!
くっそ、なんかめちゃくちゃ悔しくなってきたぞ。こうなったら意地でも集中してやるわ。
気を抜くと里桜の横顔に視線が吸い寄せられそうになるのを根性で抑え込み、どうにか課題と向き合うことに。しっかりと集中して聞いてみれば里桜の説明がとても丁寧で理解しやすいものだとわかる。
俺が本当に集中し始めると里桜からのちょっかいはなくなり、手が止まった瞬間にすかさず助言をくれるだけになっていた。
一人でやっていた時とは比べ物にならないほどサクサクと進んでいく。だが俺程度の人間の集中力がそう長く続くはずもない。
少しだけ疲れてきたな……。
ちょうどそう思い始めた頃だった。
「隼くん、そろそろ一回休憩にしよっか?」
俺の考えを読んだように里桜は言い、立ち上がる。
「ん、いや……今調子いいからこのままでも」
里桜の時間を奪っているのだし、やれる時にやれるだけ進めておきたかったのだ。でも里桜は俺の手からシャープペンを奪い取った。
「ダーメっ。あんまり根詰めるのはよくないんだよ? 頑張りすぎると逆に能率落ちちゃうんだから」
「むっ、そうか……。なら少しだけ休むとするかぁ」
時計を見れば開始してからすでに1時間半が経過している。そりゃ疲れもするはずだ。肩まわりもかなり固まってしまっていたので伸びをしてほぐす。
「うん、そうしよっ! 私はお茶淹れてくるね。隼くんはコーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「コーヒーで……って自分のは自分でや──うぉっ!」
慌てて俺も立ち上がろうとすると、里桜に額をツンっとされて止められた。
「隼くんは休憩しなきゃなんだから座って待ってて?」
「でも……」
「いいからいいから。隼くんはお砂糖とミルクどうする? やっぱりどっちもたっぷりの甘々カフェオレ?」
「んー……ブラックがいいかな」
昔はよく里桜んちのおばさんが作ってくれた激甘なカフェオレを二人で喜んで飲んでいたのは記憶にあるし懐かしさもあるが、今は頭をスッキリさせたい気分なんだ。
「おーっ! ブラックなんて隼くん大人だぁ!」
「大人って、それくらい別に普通だろ?」
「えーっ、私は甘くしないと飲めないもんっ!」
「じゃあ里桜が子供舌なんだな」
弄ばれた仕返しに、ここぞとばかりにイジってやる。その挑発に里桜は面白いくらいあっさりと乗ってくれた。
「そ、そんなことありませーんっ! 私だってねぇ……!」
バタバタとキッチンに向かっていった里桜は数分後、両手にそれぞれ一つずつ湯気の立つマグカップを持って戻ってきた。コトンと目の前に置かれたその中を見れば、どちらも漆黒の液体で満たされている。ブラックコーヒーだった。
「……里桜、無理はしなくてもいいんだぞ?」
「無理じゃないですぅーっ! 私だって子供じゃないんだからっ!」
そう言って再び俺の隣に座った里桜はカップに口をつけ、コーヒーをチビっと吸い込むと同時に顔をしかめた。
「うぁっ……にっがぁ……」
「言わんこっちゃない……。俺が悪かったから無理せずに砂糖入れろよ」
「やっ!」
「やっ、って……そっちの方が子供──」
「あっ、そうだっ! いいものがあったんだった!」
俺を無視してガタリと立ち上がった里桜はまたキッチンへ。
話聞けよ……。
なんか今日の里桜は忙しないなぁ……。
冷蔵庫の前から里桜が俺に向かって叫ぶ。
「ねぇ隼くーん! プリンがあるんだけど隼くんも食べるー?」
「いや、俺はいいよ」
「そっか、わかったー!」
里桜が持ってきたのはスーパーで三連で売られているようなプリンだった。それとスプーンが一つ。
「ふふーん、これと一緒なら苦くても平気だもんねーっ!」
そう言ってベリっと蓋を剥がす。
そしてプリンを一掬いして、
「あっ、でも隼くんも頭使ったから少しくらい糖分とった方がいいよね。一口だけあげるねっ。ほら、あーん!」
自分の口にではなく俺の前に突き出した。
「俺はいいって言ったろ」
「まぁまぁそう言わずに、この後も頑張らないといけないんだから。ちょっとだけ、ね?」
「いや、里桜が食べたいんだから自分が──」
「えいっ!」
「──むぐっ……!」
口にスプーンを突っ込まれた。
危ねぇじゃねぇかっ!
なんつー強引な手を使ってくんだよ……!
「えへへ、美味しい?」
「……甘い」
コーヒーの苦みとの対比でより甘く感じる。別に苦手じゃないし、むしろ甘いものは好きな方なんだけどな。
「そりゃあプリンだからねぇ。これがもししょっぱかったら、それはもう茶碗蒸しか玉子豆腐だよ?」
「そういうことを言ってんじゃなくてだなっ! ──あっ……」
俺の抗議を完璧にスルーした里桜は当然のように自分もプリンをパクリ。俺の口に突っ込んだスプーンのままで。
「んーっ! おいしっ!」
おいこれ、間接キス──
と思ったが、里桜には全く意に介した様子がない。ただただプリンの甘さに頬を緩ませていて、俺は何も言えなくなってしまった。
里桜がプリンを食べ終わるのを待って課題を再開したのだが、その後はいろいろと気になって全く捗らなかった。そして俺の集中力が切れたと見るや里桜のちょっかいが激しくなる。
「しゅーんくーんっ、頑張れーっ!」
ソファに座り後から俺にくっついて気の抜けた声で応援してくれる里桜。言ってることとやってることが完全に食い違ってるのはどういうつもりなんだろうな。
◆side里桜◆
えへへ〜。
隼くんと間接キス、しちゃったぁ……。
なーんていうと初めてみたいに聞こえるかもしれないんだけど、これがそうでもないんだなぁ。昔は普通にペットボトルの飲み物を回し飲みしたり、一つのソフトクリームを二人で分けたり……今思うとすっごいことしてたんだね私達。
まぁでも今回のは全部計算尽くなんだけどねっ!
コーヒーもプリンも、やっぱり事前の仕込みが大事でしょ?
私のこと意識してくれたかなぁ?
してくれてるよね!
だってもう全然手が動いてないもん。
隼くんだって初めてじゃないし効果あるか不安だったけど、これは手応えありだねっ。
なら今日はこれでおしまいにしちゃおっか。
大丈夫、課題のペース配分は私に任せてくれればちゃんと間に合わせるからね。
ってことでー、赤くなって可愛い隼くんのこと、もうちょっと堪能しちゃおーっと。
「しゅーんくーんっ、頑張れーっ!」
それから私は、なおも課題に向き合う体を取る隼くんにちょっかいをかけ続けるのだった。
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