最期の見舞客
@wlm6223
最期の見舞客
父が亡くなったときのことはよく覚えている。当時私は高校二年生で、実家は麻布にあった。昭和三十八年、その頃の麻布は今のような高級住宅街ではなく、田圃の中にぽつぽつと民家と大使館が建っているだけの辺鄙な田舎だった。
医者に言わせると、父の病は重いらしく、強く入院を勧められたが、父は頑として言うことを聞かなかった。曰く、「病人だらけのとこへなんぞ行っちゃ、本物の病人になっちまう」とのことだった。その言葉通り、父は血色もよく、よく食べ、よく眠った。子供だった私から見ても、どこが病気なのかと疑いを持つほど健康に見えた。が、母は父の病名を私に教えてくれなかった。さしずめ不治の病だったのだろう。子供の私を心配させるようなことはしたくなかったのだと思う。
父は入院する代わりに家の二階で床を取り、終日安静を医者に厳命されていた。父はそれに大人しく従った。「まあ人生の夏休みってとこだな」と大笑いしていた。
父への見舞客は三日と置かず訪れるようになった。
私が学校から帰ってくると、玄関に見慣れぬ靴が六足ほど並んでいたことがあった。ああ、また見舞客が来たか、と思うと、父の部屋から談笑が漏れてきていた。「これお父さんの部屋に持っていって」と母が私に寿司桶三つを渡した。私はそれを父の部屋にもって行くと、父を取り囲んでスーツ姿の男六人が酒盛りをしていた。勿論、父も飲んでいた。「これがうちの倅だ」と、父は私を皆に紹介した。男のうちのひとりが「一杯ぐらい飲んでいけ」と、当時高級品だったウイスキーを私に一杯飲ませた。男たちは父が社長を勤める会社の部長たちで、仕事の経過報告と称して、明るいことが好きな父のために酒宴をはったのだ。当時高校生だった私には理解できなかったが、これが男同士の付き合い方なのだと思った。
ある日は玄関に女物の雪駄がちょこんと置いてあることがあった。
私は父の部屋の様子を窺うと、母と対峙して和服の四十がらみの女が座っていた。その二人の険悪な沈黙は重く静かで、緊張が漲っていた。ああ、和服の女は二号さん、今で言う愛人なのだと私は直感した。私は見ないふりをしてそそくさと自室へ入った。その後、母と和服の女にどういった遣り取りがあったのか興味はあったが、私はそれを母に聞かないでおいた。父の部屋からは物音一つしない。いわゆる修羅場にはならなかったようである。私は興味本位で仔細を母に訊いてみたかったが、母の沈黙をもって示す嫌悪の表情に怖じ気づき、何も訊くことはできなかった。
また別の日、私が学校から帰ってくると、玄関に大勢の靴が並んでいた。父の大学時代の同級生たちが集まって、酒盛りをはじめていたのだ。父はW大学のラグビー部の部長に籍をおいていたことがあり、今でもその頃の部員たちの顔役となっていたのだ。酒宴は五時間にも及び、もう深夜零時をまわる前まで続いた。みな泥酔の態で、最後に呂律の回らない舌で校歌を合唱していた。近所迷惑この上ないのだが、この有様がいかにも父らしく、母もそんな父と見舞客を諫めることはなかった。
こうして父の見舞客たちを見ると、まるで父の生涯を定点観察するようで、父親としての顔しか知らなかった私は、ある豪傑の多様な側面をつぶさに眺めるようで快かった。父の生き様を見せつけられた訳だが、その景色は男らしい清々しさに満ちており、男児かくあるべし、と父に教えられているようにも感じた。
忘れもしない四月十一日、学校から帰宅すると、玄関に毎週木曜日に往診に来る村上先生の靴があった。私と入れ替わりに村上先生は家を出て行った。母から「もう長くはありません、と診断された」と聞き、いよいよ時が来たか、と私は覚悟を決めた。母は涙こそ流さなかったが、何とも言えない表情を隠しきれないでいた。
診察の結果を父に悟られまいと、その晩も普段と変わりない生活を送った。私は寝るに寝れず、夜中まで読書で気を紛らわし、時間を潰した。
誰かが玄関の戸を叩く音がしたので、恐る恐る玄関へ出てみると、喪服を着た中年男が立っていた。戸を開けるやいなや、男は入り込み「今晩は」と挨拶をした。「どなた様ですか」と訊くと「死神です。お迎えにあがりました」と、私に目もくれず答えた。男は靴を脱ぐと真っ直ぐ二階の父の部屋へゆっくりと向かっていった。私は玄関で立ち尽くした。
その後、いくら待っても男も父も姿を現さなかった。私は父の部屋へは行かず、自室に戻り、父の運命を悟った。私はその夜、寝るにも眠れず、夜明けまで布団の中で輾転としていた。
最期の見舞客 @wlm6223
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