河童忌を嗤う

@wlm6223

河童忌を嗤う

 今年も七月二十四日が来た。この日は芥川龍之介の命日、河童忌である。

 道介は毎年この日には東京染井にある霊園へ赴き、芥川の墓前へその死を弔いに行っていたのだが、今年は違う。道介は朝早くから自宅にある芥川の骨壺に手を合わせていた。

 道介は芥川の熱烈な愛読者である。旧字版の全集を持っているのは勿論、ときおり古書市に流れてくる芥川の直筆原稿の断片(それらは芥川が反故にしたものなのだが)も、もれなく蒐集した。初版本もほぼ全作集めており、署名本もできうる限り購入した。道介がこれほどまでに芥川に執着したのは訳がないでもなかった。

 道介が最初に芥川作品に触れたのは「侏儒の言葉」だった。当時道介は三十五歳。芥川が執筆したのとほぼ同年代である。芥川が生きた時代とは大きく隔たりはあるものの、道介は大いに感銘を受けた。次に手に取ったのは「或阿呆の一生」である。道介はその一文一文を自分自身が言葉を紡げたらこうなるであろうと共感した。その作品は自死を予言しているかのようにも読めた。だが「死」の文字は一切出てこない。この生あるうちに、その連続点の先にある「死」を予見させる文に、道介自身の感じている心中とが合致した。それは芥川が道介の言葉を代弁してくれているように思えてならなかったのである。偶然の一致? いや違う。三十台といえば人生の折り返し地点である。そこに生への憂悶と倦怠を感じるのはある種の必然であるかのように道介には思えてならなかった。

 道介は傍目には順調な社会人生活を送っているように見えたであろうが、自身のかかえる、ぼんやりとした将来に対する不安に苛まれていた。三十台といえば世間一般ではもう立派な社会人であり、仕事をばりばりこなす働き盛りの筈である。道介も周囲の期待にこたえるように働いていた。道介は仕事が終わると真っ直ぐ帰宅し、夕食を摂り、入浴をすませ、寝室に入って枕頭にある芥川作品を読み漁った。特に後期の作品を好んで何度も読んだ。王朝期の作品も読んだが、芥川自身が抱えるの本当の心情が発露されていないように読めたため、これらは商業作家としての「お仕事」にしか読めなかった。

 芥川が本当に心に描いていた人生模様とはどんなものであったのだろうか? 道介はそれを紐解く鍵を掴みたかったが、道介の読解力ではそれはなし得なかった。

 ならば直接芥川に手紙でも出し、面会を申し出ればよいのだが、芥川はとっくに故人である。

 芥川に会う――この一心が道介を突き動かした。

 今年の六月初旬の未明、道介は芥川の墓前にいた。まずは手を合わせこれから行う蛮行を詫びる祈りを捧げた。道介はそれから墓石をずらした。墓石は普通のものより大きく(なんでも芥川愛用の座布団の大きさに合わせたそうである)、ずらすだけでも大仕事だった。墓の中には汚れた白い骨壺が一つあった。これだ。道介は骨壺を手に取った。骨壺を持ち上げるとき、からからと音がした。道介はしばらくの間、その場に立ち尽くした。いま自分がやっていること、これからやることを考えた。いや、道介がやりたかったことは道介自身がよく分かっていた。骨壺を盗むなどとはもってのほかのことだ。が、道介は躊躇はしたものの、衝動には勝てなかった。

 その日以来、道介は罪悪感に苛まれながらも満足感に浸った。あの芥川龍之介が自分の家にいる――間違った行動をとったつけはいつか来るだろうが、それでも道介は一日一日と自分の犯罪的行動に誰にも感づかれることなく日々を過ごしていった。

 骨壺は道介の寝室の本棚に置かれた。道介は毎晩芥川作品を読みながら骨壺に目をやった。今、私はあなたの言わんとすること、書かれてきたことに耽溺しているのですよ、と骨壺にむかって思った。

 長く続いた梅雨が過ぎて夏が来た。

 道介は芥川作品を読むだけでは満足せず、その作品を筆写するようになっていた。骨壺をデスクへ置き、Gペンでその一文一文を原稿用紙へ書き写していった。これでこそ精読したと言えると道介は思った。

 そして今日、七月二十四日。道介は骨壺を手に取りしげしげと眺めた。ここまで芥川への思いが募っているのである。道介は骨壺の中の骨を一片、食べてみようとした。

 道介は慎重に骨壺の蓋を開けた。いよいよ芥川自身との対面である。

 ところが、骨壺の中には白い玉砂利しか入っていなかった。

 ああ、そうか。そういうことか。どんなことにも先人がいるもんなんだと、道介は薄ら笑いが込み上げてきた。道介は見知らぬ誰かに先を越されたことに嫉妬し、自分の子供じみた浅はかさに呆れるほかなかった。

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