前世


 梅雨明け宣言が近づくにつれ、雨の合間に太陽がのぞき始めた。雨で洗い流された六月の外気に、真夏並みの強烈な陽光が降り注ぐ。

 可哀想に、直射日光にさらされた庭の紫陽花が死期を悟ったようにうなだれていた。今週末の天気予報が最後の雨マークとなった。

「お姉ちゃん、明日はどこか行くの?」

 洗濯物をたたむ母が唐突に私に声をかけてきた。明日は土曜日、デートにでも行くのかと問いたいのだろう。

「どこにも行かないよ」

 何気なく雑誌をめくる私。

「じゃあ、お母さんとお父さんは明日出かけていないから晩御飯は自分たちで何かしてね」

「うん、わかった」

 快活に返事をする。真斗と一緒にピザを頼んでもいいや。


 窓の外は薄闇ですでに雲が空を覆っていた。もしかすると今夜は雨になるかもしれない。そんな気がして全部の窓が閉まっているか確認しに行く。

 雨が降る前は必ず空に重たい雲が広がる。注意していれば、何事にも前触れがあるのがわかる。

 私は物心ついた時からその日一日をなんとなく過ごしてきて、自分の人生に真剣に取り組んだことなどなかった。人生は誰かにお膳立てしてもらうもので、退屈で死にそうって笑って、ちょっとでも不幸が起こると悲劇のヒロインのように振る舞ってた。

 しかも愚かなことに、そんな毎日が永遠に続くと信じていたのだ。



 案の定、土曜日は明け方からずっと雨だった。家の中までどんよりと暗い。

 夕方、真斗は友達とご飯を食べると言ってさっさと出て行った。急にそんなことを言うものだから私はピザを食べそこねる。ひとり外に出るのも億劫で、結局はカップ麺の夕食で済ませた。

 物音に気付いた時はすでに眠りの中にいた。お腹も満たされて気持ちよくなっていてリビングでうたた寝してしまっていた。


 ──誰かの呼ぶ声がする。


 意味不明の言葉だったがそう思った。手を動かそうとしても身体が重く言うことを聞いてくれない。

 ぼんやりした思考で、私を呼ぶ声の主を探す。しかし五感のいくつかは機能を失っていたのだ。金縛りだった。

 もがいているうち徐々に頭は鮮明になるが、まだ夢のふち彷徨さまよってる感覚がある。私は最近続いていた金縛りのことを思い出してた。

 この後、きっとかが私に近づいて来て……。

 ソファの軋む音が聞こえる。

 今日の私は金縛りをほどこうと必死だった。怖さはあるが所詮、怪異は影だ。そう思うと恐怖も大したことない。

 やはり静かにそれは近づき、私の頬をそっと何かが触れていく。

 意を決して私は目を開けた──。



「……っんぐ」

 突然、声にならない音が私の喉から漏れた。

 それ以外の声は一切出ない。目の前には長い黒髪を振り乱している髑髏どくろの顔があった。私の頬に触れていたのは女の髪だ。

 髑髏は私に覆いかぶさり、凄まじい勢いで首を絞めにかかろうとしている。その腕をほどこうと抵抗するもむなしく、すぐに私は捕らえられる。女の腕は冷たくて硬い鉄の棒のようだ。常軌を逸した力は殺意しかない。

 意識が薄れようとしてる中、瞳の端に捉えたのは開け放たれた弟の部屋。まっすぐに通じた鬼門の道だった。


 ──お嬢さ……ん


 誰かが私を呼ぶ。

 一体……誰。遠くで、確かに私を呼んでいる。

 ふいに身体が自由になり意識が宙に浮かぶ。まるで夢とうつつを行き来できそう。静寂が広がり、不自然なほど時間も身体の感覚もなくなった。

 このまま、そうこのまま、心は満月が映る湖面のように穏やかに……。



「狂った過去の残党がっ!」

 突然殺気を帯びた男の罵声が聞こえてハッと我に返った。髑髏の女は獰猛どうもうな気迫で、未だ私の首を締め上げている。

 女を私から引き剥がそうとして、鋭い眼光の顔が覗いた。冷酷に威嚇するその人は黒い和装に身を包んでいた。

「お嬢さん」

 その言葉が、私の脳裏に衝撃を持って突き刺さった。

 邂逅かいこう……。彼を認識した途端、今までの現実が音を立てて崩れていく。

 地の底のような暗闇を裂き、記憶が真っ逆さまに退行する。身体ごと奇妙な浮遊感を保ちながらどこまでも落ちていった。


 落ちていく間、走馬灯のように様々な場面が視界に映っている。

 ──この記憶は私の前世だ。

 日本。

 人々がまだ着物を着て暮らしている時代……でも詳しいことはわからない。

 それでもフラッシュバックする記憶のすべてに親しみを感じる。現実の世界でなくても懐かしいという感情があることを知った。

 「お嬢さん」

 私を見つめ、彼はまた言った。端正なのに少年さの残る粗野な顔、らさない真剣な眼差し、その唯一無二の存在……私は今まで何もかも忘れていた。

 過去の記憶一切をなくしていたのに、徐々に愛しい感情から思い出し始める。心が覚えていたからだ。自然と涙が溢れてきた。


「……はやて


 ふたりの魂が共鳴した刹那、また世界が音を立て崩れ始める。まるで巨大なドミノが四方八方に倒れる勢いで、世界全体が急激に色を成して変化していく。 

 気づくと、私はまばゆい真紅の着物を着ていた。色のない鬼門の通り道に真っ赤な着物姿の私……。

 突然、私を組み伏せて狂暴な執念で首を絞めていた髑髏が弾けるように飛び退いた。業火ごうかに身体を焼かれるけだものの凄まじい叫び声だ。焦げ臭い匂いも鼻につく。しかし、黙るのに時間はかからなかった。やがて燃え尽きたのか、灰となり実体も消え失せる……。

 その間息も絶え絶えに、天地がひっくり返るほどの出来事を私はあぜんとして見ていた。


「颯……」

 立ち上がれない私に彼は寄り添った。過去のふたりの記憶が入り混じり溢れ、何も言葉にならない。先に口を開いたのは彼だった。

「手紙を……読んでくれて、ありがとうございます……お嬢さん」

 手紙?

今生こんじょうではこれでお別れです。お嬢さんと、生きて出逢うことが叶わなかった……俺はもう逝きます。ですが、人は死んでも魂が死ぬことはない。情熱を燃やし続ければ……魂のともしびは永遠に消えません。俺はまたいつか、あなたのもとへ現れます。必ず」

 颯は苦しそうに胸のうちをつぶやき、私の頬に触れた。流れる涙を拭ったのだ。そして彼の影がしたように、名残惜しそうに私の唇に顔を寄せた。



 前世の幻影にしては思い出がやけに鮮やか過ぎる。

 目を閉じて振り返ると、広い和室にひとり佇む着物姿の自分が見えるようだ。真っ赤な婚礼衣装で、寂寞せきばくの中に閉じ込められた私が。

 私の前世は豪商の一人娘だった。

 気まぐれでわがままで、綺麗な着物を着ていなければまるで天邪鬼あまのじゃくな野良猫。誰もが手を焼いた。

 そんな時、ひとりの若者が現れた。

 私の屋敷に住み込みの使用人として来た彼は、没落した霊媒師れいばいしの家系の出身だった。

 人は誰でも生まれつき何らかの能力を授かっている。だが、その記憶を消して産まれ落ちる。颯は記憶を持って生まれてきた稀有けうな人間だった。

 彼は霊媒の力があることと、私に出逢うために生まれて来たと言っていた。

 初見、私はそれらを信じず颯のことを馬鹿呼ばわりしたと思う。当時の私はそれくらい生意気で子どもっぽく、しかし何の悪気もなかった。


 

 そこでまた涙が溢れた。

 前世での私たちは、政略結婚のため別れさせられるという結末を迎えている。霊感の強い颯でも不確定要素の多い未来を当てることは出来なかった。

 私の婚礼の数ヶ月前、縁があれば何度でも出逢えるという手紙を残して颯はこの世から姿を消したのだ……。

 そうだ、手紙。

 ふいに思い出して、自然に赤い着物の胸元へ手をやる。過去の私が忍ばせていたものを取り出す。そこには最悪な状況を思わせる乱れた字が並んでいた。

 


 ──お嬢さん。

 あなたがこの手紙を読んでくれることを信じています。

 この世は不条理ですが、縁があれば何度でも出逢えるという真理も事実。

 もしもずっと俺のことを想ってくれるのなら、ひとつだけお願いがあります。

 婚礼の衣装は燃えるような赤を着て下さい。

 赤は風水では魔除けの力があります。俺は必ずどこかであなたの姿を見ています。いつかその赤が鬼門の道の篝火かがりびとなって、あなたをお護りするように……


 

 今世、結果的に赤色の着物が魔除けとなり、幽世かくりよの鬼門から私は護られた。

 颯は今世を見越して前世の私に赤い着物を……と言ったのであれば、私は時代を超えて護られたことになる。

 縁があれば……颯はそう言った。もともと私たちは縁があったわけではなかったのに。前世の颯と私がふたりで縁を紡いだのだ。当時の光景が頭の中をぐるぐると渦巻いた。

 彼の切ないほどの愛情を私は追憶し、たまらず声を上げて泣き崩れる。

 すでに颯はが通る人間界での出口、裏鬼門から独り出て行ってしまった。だからそれらを問うことはもう出来ない。

 だが永遠に魂が生き続けるのであれば、これは始まりに過ぎない。

 颯とはどこか違う場所で違う形で出逢えて、私たちはきっとまた恋に落ちていく。前世と来世を架ける約束の物語として、何度でも。





 ……眠りから覚めたように私はまわりを見渡した。

 まだぼんやりとしてる。ここはいつものリビングで部屋着の私が佇んでいる。

 しかし記憶は不鮮明なのに意味不明な胸騒ぎだけが続いていた。やがて、その正体は窓の外にあると気づく。

 心がざわめくほどの真っ赤な夕焼けが映えていたのだ。夏がそこまで来ていた。


「ふぅ……」

 茜色の空が綺麗過ぎて、溜息がひとつこぼれた。

 感傷的になるのも仕方がない。夕日が暮れるのをひとりで見てたら、誰だって物悲しい気分になるもの。美しいものは、儚さや不完全さといつも隣り合わせなのだ。

 どうせそうなら亡くなった人たちの世界でも同じ景色が見えればいいのに……と思う。脈絡もなく、なぜかそんな気持ちになった。

 違う世界線で見る夕日。もしかしたら、冥界の大切な人たちも同じ空を見ているのかもしれない。


 夕日は沈み、灯りを消したように暗い夜空が視界を覆った。

 たとえ住む世界が違っても闇の中だったとしても、やがて淡く降りそそぐ月明かりが優しい影を作り出す。

 名前も忘れたその影が、なぜだかずっと私の胸を焦がしていた。


 

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