鬼門に影
片瀬智子
今世
あなたは
それは邪悪なものが出入りする方角、風水や家相などで昔から不吉とされている場所のこと。
私は現在、アパレルメーカーで働く会社員。住宅街の一軒家に家族と住んでいて、
この家に引っ越してからはだいぶ経つ。季節によって色とりどりの花を咲かせる庭、
そういえば鬼門という言葉を初めて聞いたのはいつなのか覚えてないが、父が言ってたのはよく覚えている。
「マサくんの部屋は鬼門だからな」
具体的にどういう意味なのか、大きくなるまで分からなかった。成長するにつれ、声を潜めた話し方などで良い意味じゃないくらいは察しがつく。それが一体何なのか、根拠があってもなくても怖がりな私は気になった。
鬼門というのは北東の方角を意味し、反対の南西の方角を
家でいうと、鬼門と裏鬼門を結ぶ対角線が人ではないものたちの通路なのだ。うちの場合はその対角線の中心にリビングがあった。
でもむやみに怖がらなくてもいい。いくら避けなければいけない
鬼門の方角は子供部屋や収納などに使用すればいいという。特に男の子の部屋にすれば、元気のいい強い陽の気で浄化される。信じる信じないは別として、実際北東に位置する部屋は湿気がこもりやすく暗いので、喚起を良くするため弟が留守の間は部屋の扉を開けておくのが常だった。
その日は私以外みんな出掛けていて、外は小雨が静かに降り続いてたと記憶してる。
ひとりでテレビも付けず、リビングで翻訳もののミステリを読んでいた。
リビングの扉は引き戸で壁の二面にあった。両方の扉と弟の部屋の扉を開けると、まっすぐ鬼門と裏鬼門がつながると知ったのはまだ先のことだ。
夕方、雨のせいもあり薄暗かった。私はいつしかそのままソファに身体をうずめウトウトし始める。文庫本が手からすべり落ちた。
眠りかけのせいか、わずかに意識があった。自分の中では覚醒してる部分も残っていてコントロール出来ると思えた。
その直後暗い影のようなものが近寄る気がして、私は不穏な感覚におそわれる。身体が徐々に固まりだす。
──金縛りだ。
今まで一、二度はたぶん金縛りに掛かったことがある。怖いけど、疲れによるものだって聞いたこともある。少しだけ我慢すれば解けるはず。
暗い気配は漂いながら私にとどまった。怖さが増し、目を開けては絶対ダメと自分の直感が告げている。
息を潜めてじっとしていること、体感で数十秒。
「ただいまー。お姉ちゃん、ちょっとこっちに来てー」
突然、玄関から母の声が響いた。よかった、帰って来た。リビングの灯りをつけ、スリッパを履いて玄関へ向かう。
「寝てたの? お母さんね、
喪服を着た母が四角いパウチされた塩を私に手渡す。背中を向けた母の肩に、黙ったままちょんちょんと塩をふった。
母が矢継ぎ
「息子さんね、あなたの二つ上ですって。子どもの頃から重い病気でずっと自宅療養してたみたいね。お母さん……よく知らなかった。自治会の連絡網で急に知って……かわいそうに、まだあんな若いのにね。
「しらない」
私はそれだけ言うと、またリビングへの廊下を戻る。母が私を追うように喋りながらついて来た。
「池田さんの奥さんがね、息子は雨の日が嫌いなのにお通夜が雨なのよって……泣いてて。ずっと家と病院の生活だったら雨だと気持ちがふさぐのかもね」
私の顔を覗く。そんなこと私に言われても。
「死ぬ日の天気なんて誰も選べないでしょ。しかも今梅雨だからね、仕方ないよね」
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出す。母は熱いお茶がいいと手を振った。
「あなたが彼のこと知らなくても、彼は知ってたみたいよ」
母が変なことを言い出した。
私は眉をひそめ顔を上げる。
「どういう意味?」
「お通夜の帰りにね、奥さんがお母さんに話し掛けてくれて……。療養してた息子さん、お部屋が二階でね。その窓からいつも外を眺めてたらしいの。夕方になると、髪の綺麗な女の子が家の前を通るんですって」
母はしんみりと言った。
「その女の子って、あなたのことよ」
言葉に詰まった。
心に衝撃が走る。見つめられて不快という感情よりも今は切ないが正しい。私の知らないところで、決して届かない視線をそっと送る見知らぬ人がいた。余命を知った時間の中で、きっと哀しい気持ちで。
「これ、あなたへ」
母がリボンの付いた四角い紙袋を取り出した。受け取って開ける。小さな花が刺繍された赤いハンカチだった。
「颯さんのお母さんから、あなたに渡してってお願いされたのよ」
「そうなんだ」
「どこ行くの」
母が私に聞く。
「部屋」
「ご飯すぐだから、お菓子とか食べないでよ」
私は何も言わず落ちてた文庫本を拾って、自分の部屋へ入っていった。
次の休日、この日もまた小雨が降っていた。梅雨明け宣言は来週になりそうだ。窓から雨粒に打たれる庭の
私は家の中ではだいたい文庫本を持ち歩いている。まさにどこにでも携帯を持ち歩く人間と同じ。どんな場所でも、ページを開くとすぐその世界に没入出来る
特にしとしと降る雨は読書のBGMに心地良かった。あの規則性がいい。いつもみたいにリビングのソファでしばらく読んでいると、連日の仕事で疲れた身体を眠気が誘う。私は欲求に身を任せた。
ああ幸せと思った瞬間、……明らかに数日前と同じ気配がした。不穏な予感だ。人ではない、弟の部屋から何か暗いものが近づいてくるような。
私は身体がこわばるのを感じる。金縛りだった。
目をつぶって、落ち着けと必死に自分に言い聞かす。暗い影のような気配は私につかず離れず、まだそこにいた。
浅い息をしながら私は様子を伺っていた。これが夢だなんて絶対に思えない。身動きも取れないでいると、ふっと私の身体に意外な感触が忍び寄った。
……唇にやわらかいものが触れたのだ。
たぶん、やわらかな誰かの唇だと思う。軽く一度だけだった。矛盾してるけど、大胆な行為なのに遠慮がちで。
驚きのあまり、私は目を開けて全身で振りほどくように身体を起こした。そこには何もなかった。ただ、混乱した頭に浮かんだ言葉がひとつだけ。
──雨は嫌いだ、傘で……きみが見えない。
誰かの思念が私に直接訴えかけてくるような言葉だった。
でも影らしきものも何もない。リビングからは薄暗い弟の部屋の中が見通せていて、恐怖というより驚きで研ぎ澄まされた感覚には激しい動悸と雨の音だけがしばらく聞こえていた。
その日の夜、私は弟の部屋を訪ねた。この時間、真斗はルーティン化したゲームに夢中だ。
私がノックすると気のない声で「ん?」とだけ言った。とりあえず断りもなく部屋に入り、弟の背後にあるベッドに座ってモニター画面を見つめた。
画面が一瞬暗転した際、ふたりの顔がモニターに映り込む。弟のつまらなそうな表情と握ってるコントローラーの素早い指先に温度差がありすぎて笑ってしまう。
「何?」
微動だにせず、真斗がそれだけ言った。
「うん。ちょっと聞きたいことがあって。……あんたってさ、昔から霊感強いじゃん。それでね、お父さんが時々この部屋は鬼門だって言うでしょ。……ここで幽霊って見たことある?」
私はなるべく素っ気ない感じを装い、ゲームのキャラクターを目で追いながら話を切り出した。主人公がデカくてキモい緑色のモンスターを倒したところで、弟はやっと返事をくれる。
「ああ……あるけど」
すかさず私は言葉をかぶせる。
「だよね、やっぱりあるよね。……それってどんなのだった?」
真斗が初めてこちらを見た。
「なんで? 姉ちゃんってすげえ怖がりで幽霊とか嫌いだろ。そんな話、聞かないほうがいいと思うけど」
「うん、そうなの。基本的にはそうなんだけど、たまに怖いもの見たさみたいな感じで知りたくなるじゃん。あさって友達と会うからなんかネタも欲しいし」
こういう場合はさらっと話をごまかすに限る。
「ちょっと待って、あーくそっ。幽霊の話か……もう、めんどくせえなぁ」
ゲームに熱中してる弟は口が悪い。それでも合間合間に教えてくれる。
「……そういえば、最近何度か同じ幽霊が出てくる……かも」
「何それ。どういうの? もっと詳しく!」
私の熱量に対して、「だるい」とか「こういうのホントやめてほしい」とか敵と戦いながらブツブツ言っている。早く白状すればラクになるものを……と私も思ってる。
「もしかしてその幽霊って影みたいな感じ? 実体はないんだけど、なんていうか薄暗い気配みたいな。何かが近寄ってきて……触れてく感じ?」
しびれを切らした私が誘導した。
「は? いや全然違う……実体は普通にある。夜中寝てたら、ベッドの下から頭と白い手が出てきて引きずり込もうとする。顔はわからん、長い黒髪の女」
それを聞いて、慌ててベッドから飛び降りる私。よそのベッドでくつろいだことを非常に後悔した。
「そんな怖すぎる話、普通に言うのやめてくれる? それ、だいぶヤバいからな!」
「そっちが知りたいって言ってきたんだろ。なんで俺がキレられないといけないわけ? マジでだるい!」
結局、
「……ジャマしてごめん。ゲーム続けて。ありがと」
身内の場合は特に素直なときのほうが気味が悪い。弟もそう思ったのだろう、私を呼び止めた。
「あとさ、最近姉ちゃんから強く視えるものがある。前にも言ったと思うけど……きっと姉ちゃんの前世だと思う。赤い着物の女の人が、広い畳の部屋にひとりぼっちで座ってる。寂しそうだ。たぶんだけど……その人、泣いてると思う」
目を細め、私のほうをぼんやり見ながら弟は言った。
以前、真斗から何度かこの話は聞いていた。
私の一番近い前世の話だという。この世にはたぶんそういった見えない世界を知る人たちが一定数いて、普段はそのことを隠してる。たとえそれらを伝えても、変人扱いされ信じてもらえるかどうかも分からないから。
「……幽霊視えて怖くないの?」
殺し合いにふさわしいゲーム音が流れている。弟はずっと無表情でモニターを見ながら、意識はゲーム内に置いて軽い感じで話し出した。
「怖いけど……でも慣れるかも。人間はね、どんなことでも慣れるのさ。あーヤバっ殺される。……ただ、鬼門から出てくる悪い奴らだけはマジで気をつけてね。立ち向かったりはやめて。基本防ぐことが出来ないから」
「ちょっと待って、今しれっとヤバい話挟んだよね? 防げないってどういうこと? 気をつけてってどうやって!?」
私は驚いて弟を見つめる。防げないって何?
「俺、中学の頃、幽霊の
「封じられないってじゃあ、それで真斗はどうしたの? 幽霊に引きずり込まれるかもしれないのに、何もしないでおとなしく寝とけって?」
「ん……そこまでは言われてないけど。鬼門から来たものは裏鬼門から出て行くのが自然なんだ。あと、ほらあれ?」
私は弟が指差す方向を見る。柱の上に目立たない小さな
「この部屋はあれで結構護られてる。だから引きずり込まれたりはしない。鬼門の対処法はいくつかあって……でも何でもいいわけじゃないけど。アイテムは時と場所で違うらしい」
だから絶対安心安全というわけではないが、この世界には大体どこにでも霊は存在していて、怯えて暮らすほうがおかしな話だと弟は言う。
例えば今日、交通事故に遭うかもとか変質者に殺されるかもしれないから……といって怯えて暮らすかというとそれは違う。意味もなく怖がる必要はないのだと。
「護られてるのはこの部屋だけ?」
大事な質問だ。
「心配?」
もちろん心配だ。
私の消化不良の表情をちらっと見て真斗が言った。
「姉ちゃんは……たぶん、強い霊に護られてる。まあ、誰でも前世で出逢った近しい人に護られてるんだけどね。だから人には良くしておいたほうがいいよ。来世に関わるから……もういい?」
そう言われ、私はしぶしぶ頷く。
きっと大丈夫、鬼門など怖がるに値しない。私はもう一度柱の御札を見てから弟の部屋を出た。
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