信じる日々 変わりゆく意識
陸軍航空学校の朝は早い。
起床時間は5時半。
秋の静けさと冷たさの中、布団から飛び起きる。
体操、掃除と続き、6時40分より朝食をとる。
午前には国語や数学を学び、午後は剣術や小銃の扱い方、飛行機についてなどを学ぶ。
日曜日に外出はOKだし、休暇もとれるがなかなかにハードスケジュールであった。
そのうえ空気感が違う。
のんびりとした日常はどこ吹く風、ピリッとしたはりつめた日々に晴男も緊張しっぱなしであった。
夜は体が疲れているのですぐに眠りにつくことができたが、一瞬で朝が来たように感じられ、疲れがとれた気がすることはなかった。
とはいえ難関な陸軍航空学校に合格したのだ。
腑抜けてなどいられない。
…。
とはいかず、学科中にやってくる睡魔との戦いの日々だった。
すでに戦は始まっていた。
「小田ーっ!」
甲高い声が教室に響き渡る。
国語の授業だけはどうしても子守唄に聞こえてしまい、教官に怒鳴られることが多かった。
学校生活が始まって二週間。
すでにこの教官からは目をつけられていた。
「小田君。今日も宮本教官怒鳴られてたな。夜、あんまり寝れてへんの?」
夜、晴男と同室で兵庫県出身の井上博が自習しながら、晴男に声をかけた。
フィーリングが合う二人は、お互い仲の良い友人になり始めたところだ。
「寝てるよー。一瞬で朝になってて毎日ビックリしてる。」
「やんね。あ、そこ漢字間違うとるで。こう。」
井上が、丁寧に正しい漢字を晴男に伝える。
宮本教官に余計に出された課題をこなしながら晴男は大きな欠伸をした。
やっぱり国語には睡眠作用があると思う。
21時半には消灯になる。
それまでに全部終わらせなければならない。
疲れた目をこすりながら、晴男は手を動かし続けた。
鈴は、晴男がいない毎日に若干の寂しさは感じつつも、晴男が戻るその日を楽しみに日々を過ごしていた。
「最近、鈴ちゃんご機嫌やね。なんかいいことでもあった?お兄ちゃんから手紙でもきた?」
晴男の妹幸子が、少し青くなった頬でニコニコと歩く鈴に声をかけた。
登校中だった。
「晴ちゃんから手紙?んーん、ないよ。けど…。」
「けど??」
言葉に詰まった鈴を不思議そうに見る幸子。
鈴はなんだか熱くなる顔を両手でおさえ、フルフルと頭を振り始めた。
「お兄ちゃんに会えなすぎて、ついに鈴ちゃんおかしくなっちゃったんかな…。」
幸子は鈴がずっと晴男を好きだったことは知っているが、晴男が鈴にプロポーズをしたことは知らなかった。
親にも言っていない。
二人の約束であった。
「大丈夫。正気。ただ晴ちゃんのこと思い出すとなんか…熱くなっちゃって…。」
鈴の頬の青痣まで赤く染まっていた。
「ほんと鈴ちゃんはお兄ちゃんが大好きなんね。あんなお兄ちゃん、いつでも鈴ちゃんにあげるよ。」
あげる、その言葉に鈴は晴男に抱きしめられたぬくもりを思いだし、ますます体温が上昇するのを感じて座り込んでしまった。
「ちょ、ほんとに鈴ちゃん大丈夫?どっか悪い?」
幸子はあまりに鈴の反応がおかしく、何かあったことは察したがそれが良い事なのか悪い事だったのかわからない今、鈴の話を掘り下げることはできなかった。
「大丈夫ー…。!」
鈴はハッと我に返り立ち上がる。
「帝国陸軍兵の嫁として恥じない生き方をしなきゃ!」
鈴は自分の両頬を両手でパチパチ軽く叩き、気合いをいれて颯爽と歩き始める。
「え、嫁!?え、どうしたの、鈴ちゃん!」
慌てて鈴を追いかける幸子。
「晴ちゃんが頑張ってるんだもん。鈴も…あ、いや、私も頑張らなきゃ。さっちゃん、いつでも鈴のこと、お義姉様って呼んでいいからね。」
鈴はニンマリ笑ってみせた。
その言葉に幸子は、一瞬??と頭に浮かんだが、年頃の女子である。
なんとなくの事情をすぐに理解した。
「す、鈴ちゃん、いや、お義姉様!?………。お義姉様、幸子今日卵焼きが食べたいんです。」
「幸子さんは本当に卵焼きが大好きですのね。わかりました。あとで焼いてさしあげましょうね。」
突如始まった義理の姉妹ごっこに爆笑する二人。
戦時中とは思えない平和な朝だった。
「小田っ!今日はいい加減昼休み返上で後で私の所にきなさい!」
「はい!」
あれから一月が過ぎたが、国語の時間のたびに晴男は睡魔に襲われ続けていた。
もはや文字がミミズにしか見えない気すらしていた。
何度も宮本教官に怒鳴られるだけだったが、ついに呼び出しを受けてしまった。
昼休みも無し。
それは、お昼ご飯を食べられないという現実を突きつけられたも当然だった。
なにより晴男にはそれが一番辛かった。
昼休み、晴男は一番に宮本教官の元を訪ねた。
規律に厳しい世界であるため、一切の寄り道、私語なく早歩きで教官の元に向かう。
「小田、来たか。まあ、座れ。」
晴男ははいっ!と返事をしたが、座るのは少し躊躇した。
こういう状況の場合、立って相手の話を聞くのが常識であったからだ。
カバンをガサゴソしている宮本教官の表情からは何も読み取れない。
そんな意地悪な人だという印象はないが、なにか試されているような気がして、晴男は素直に席につくことができなかった。
「小田にこれを食わせてやりたいと思ってな。ん?いいからはやく座れ。命令だ。」
晴男は大きな返事をし、命令とあらばと思い遠慮なく椅子に腰かけさせてもらった。
宮本が差し出したのは、ちいさなお弁当に詰まった小魚の甘露煮であった。
何故自分に?と思ったが、勧められるままに晴男はそれをいただいた。
こちらも遠慮なく口いっぱいに頬張る。
「!うまい!」
思わず口から出てハッとした。
宮本教官は笑っていた。
「だろ?俺の妹が作ったんだ。妹の料理は絶品なんだ。小田は兄弟がいるのか?ご両親も元気でいるのか?」
「はい、私にも妹がおります。父も母も元気にやっております。」
「そうか…家族、大切にしろよ。もう立派な軍人なんだから。…。小田、少し俺の話を聞いてくれるか?」
「…はい。」
叱られるつもりだったのに、こんな美味しいものをいただき、その上説教ではなく自分の話だという。
晴男は箸を置き、座り直してしっかりと宮本を見つめた。
ここは二人なんだからかしこまらなくていいと、宮本は晴男に食べながら話を聞くように促した。
もちろん晴男にそんなことできるはずもないが。
「俺もな、出来ればパイロットになって…敵と戦いたかったんだ。」
30歳前後にみえる宮本ならまだ夢を諦めるには早いように思える。
晴男はただ相槌をうつ。
「俺な…妹と二人暮らしなんだ。父は日露戦争で亡くなった。元々病弱だった母も、父の後を追うようにして亡くなったよ…。それからずっと妹と暮らしているんだが、この妹もまた虚弱体質でな…。」
宮本は深呼吸をし少し遠い目をして、ゆっくり口を開き始める。
「俺は妹を一人にするわけにはいかない。この国の為に父のように戦いに行きたいが、自分の身になにかあった時にあの妹が一人で生きていけるとはとうてい思えない。だから自分なりに国の為に尽くせることは何か?と考えて、今お前たちの前に立っている。」
晴男は幸子を思いだした。
父や母、自分がいなくなったら、幸子は弟の面倒を見ながら一人で生計をたてていけるのか?
いや、そんなことできるはずが無い。
「俺の憧れなんだよ、パイロットは。なぁ、小田。お前は自分の夢を叶えてくれよ。」
少し寂しそうな…切ない表情を浮かべた宮本に、晴男はすぐに返事をできなかった。
「返事!!」
「はいっ!!」
突然の教官モードに慌てて返事をしてしまった晴男を見て、宮本は腹を抱えて笑い出した。
いつも教室でみる厳しい教官の姿はどこにもなかった。
晴男は、学校に合格したことで当たり前にパイロットへの道ができたと思って、惰性で毎日をこなしていた自分が恥ずかしくなった。
いや、自分なりに必至に取り組んできたつもりである。
成績は優秀でいたかったし、愚痴も一切こぼしてこなかった。
ただ…そこで止まっていたのだ。
自分が何故軍人になりたかったのか?
難関と言われる航空学校を目指したのか?
何故、今ここにいるのか?
それをすっかり忘れてしまっていたのだ。
日本を守りたい。
日本の空を守りたい。
家族、村を守りたい。
鈴ちゃんを守りたい。
そして、パイロットになれたら鈴ちゃんと結婚したい。
たくさんの想いがあってここまで来たのだ。
自分が…情けない。
「小田君、大丈夫?」
教室に戻ると、一番に井上が晴男にかけつけた。
「大丈夫だよ、井上。むしろ魂入った。俺、頑張るわ。」
殴られた形跡もないし、強い眼差しからは怒りではなく真っ直ぐな想いを感じた為、井上はそれ以上、晴男を慰めようとはしなかった。
発する空気から、言葉の通りなにかが生まれたように感じた。
それから晴男は必至に学んだ。
宮本が諦めた夢も自分がしっかりと背負いたいと思った。
失礼にあたるかもしれないが、自分に何かを託したかったのかなと思ってしまったのだ。
立派なパイロットになって帰ってきて宮本教官に胸張って再会したい。
晴男のやる気スイッチを押してくれた人となった。
とはいえ、国語の睡眠魔力はなかなかに凄まじく、いまだ目が閉じかけることはしばしばあった。
宮本教官が催眠術師のように思えた。
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