戦の足音 幼い約束

次の戦争の始まりはすぐだった。

騒がしいラジオ。

新聞には戦果、大戦果の文字。

いつのまにか晴男と鈴が住むこの地も戦争一色になっていた。


寝る間も惜しんであくせく働く農家の人達。

いや、農家の人達だけではない。

皆が国のために必死に働いていた。

子ども達の自由も制限されていった。


晴男は真っ青な空を眺めている。

ゆっくりと雲は流れていく。

平和だ。

ここにはまだ平穏が広がっている。

しかし、遠い地ではすでに戦いは始まっていて、戦争の波はすでにこの村にも広がってきている。

この大好きな空もいつか…戦場となるかもしれない…。

この地も…。いつかは…。

晴男は常々思っていた。

この土地を守るために地主の存在は必要だと思う。

父はまだ若い。

弟もスクスク健康に育っている。

世代交代の時には立派な日本男児となっているはずだ。


跡継ぎは自分じゃなくてもいい。


と。


その夜。


「お父様、お話があります。」


夕食後、皆が一息ついた頃、晴男は居間にいる父の前に座り、あらたまって声をかけた。


「珍しいな、どうした?」


聞き分けがよく言われた通りに生きてきた晴男が、自分から賢まって話しかけてくることは初めてのことで、晴男の父清は目を丸くして声を出した。

息子のあまりにも真剣な顔つきに、いつものチャラけた自分ではいけないと、清もしっかりと正座をして向き合う。

広く開け放たれた部屋に静寂が広がった。


晴男は指をつき、深く頭を下げる。


「東京にある陸軍航空学校を受験させてください!」



清の目がますます丸くなる。

今まで兵に憧れてるなど聞いたこともなかったからだ。

…たしかに、原田にはよく懐いていたが…。

清は同級生だった鈴の父を思い出していた。


「少年飛行兵になりたいと言うのか?」


「はい!!」


強く言葉を放つ晴男も珍しかった。

清は、跡継ぎにと思って育てていたから複雑ではあったが、立派に男になっていたんだなと感心もしていた。


「鈴ちゃんね。」


!?

晴男がバッと顔をあげる。

台所にいたはずの母もいつのまにか正座をし、晴男を見つめていた。

小田家は決して狭くない。

母親の勘だったのかもしれない。


「原田んとこのか?ん?」


清は鈍い。


「原田さんとこの奥さん。いつも身分、身分って言ってるでしょ?晴男さんはそれを気にして跡継ぎから身を引こうとなさってるのよ。」


「な?え?」


意味がまったくわからないといった清に、ふうっとため息をつく晴男母。

この時代珍しいかかあ天下の家庭である。


「晴男さん。晴男さんが鈴ちゃんを大切に想ってるのはわかってるわ。私もお父様と結婚する時に苦労したからそれは何も言わない。だけど貴方は軍人になると言ってるの。戦に行くのよ。その重み、ちゃんとわかって言ってるんですか?」


母の目は真っ直ぐに晴男を貫いていた。

晴男は母に向き直る。


「はい。たしかに僕は鈴ちゃんが好きです。いつかは彼女を娶りたいと思っています。だけどそれ以上に。僕は鈴ちゃんのお父様のように、この村を…この国を守りたいんです!お父様の仕事が立派なことは重々承知しています。でも…。」


「もういい。」


清は晴男の言葉を遮った。

晴男はその言葉に、父を怒らせたと思った。


「お前が中途半端な気持ちでないことは立ち振舞からわかる。やってみなさい。お前が飛行兵になるべきかどうかは神が決めるだろうが、本当になりたいのなら本気で掴みにいきなさい。」


「な…。」


母は内心反対だった。

戦で家族を亡くすことは怖かった。

当たり前である。


「ハナ、晴男は神から預かった子だ。俺は神のご意思に従う。」


口を閉じるハナ。

清は立ち上がり晴男に歩み寄ると、その頭をグシャグシャっと両手でなでまわした。

ハナは心を決めた清に深く頭をさげている。


「立派になったな。」


晴男の顔を両手でつぶす清。

晴男の赤ん坊の頃から今日までを想うと涙が出そうになった。

自分の心に従い声を発する。

清が望んだようにハナが育ててくれた。

清は勢いでハナを抱きしめたくなったが、息子の前だからさすがにやめた。

清はルンルンと自室に向かう。


晴男はキョトンとしている。

でも、そうだ。

そうだった。

自分の父親ってこういう人だったなって思い出した。

清は周りに偉そうには決してせず、自分も皆と畑仕事をしたり、村民皆で食事をしたい!と言い出したと思ったら走り出して家に人をたくさん呼び寄せてハナを困らせたり…。

自由で豪胆で心の優しい人だった。


後はやるだけだ。


晴男は本当に軍人になりたいと思っていた。

この地だけを守るためなら地主の後を継げばいい。

でもそうじゃない。

あの日、鈴と見たあの空を守りたいって思っていた。

鈴の父親のように。

自らの力で。

だから目指したのが少年飛行兵だった。


晴男はこの時まだ16歳。

戦場の悲惨さなど想像もついていない。

日本史で学んだ、

憧れの武将が敵将を討ち取った時に味わったであろう歓喜。

それを自分も味わえるかもしれないという、

むしろ希望。

夢。


晴男はその日からがむしゃらに勉強した。

あの空を自由に飛び回れる!というワクワクが晴男の背中を押していた。

清は黙って見守っていたが、ハナは勉強に没頭する息子が誇らしく思える反面、受験には合格してほしくないという気持ちが拭いきれなかった。

時代が時代である。

絶対に口には出してはいけないのだが、母である自分は晴男には大人しくこの地で暮らしていてほしいというのが本音だった。



受験の日が迫る。


「晴ちゃんが洋服だなんて珍しい!いったいどうしたの?」


受験に向かう前日、晴男は鈴をいつもの廃寺の前に呼び出していた。

晴男が勉強に集中しだしてから、不思議と鈴のほうも日常が忙しくなっていた為、ゆっくり話すのは久しぶりのことだった。


明日の受験には洋服で望む為、服は清から借りたものだった。

初めての洋服姿。

一番に鈴に見せたいって思ったのだ。


「明日、東京に試験を受けに行くんだよ。ピリッとしていいでしょ?」


晴男は得意げにくるりと一周してみせた。


「東京?試験?」


鈴にとって寝耳に水だった。

そういえば鈴本人には話ししたことなかったかもしれない。

気づいた晴男はここまでの経緯を話した。

この村の安全を皆を守りたいから志願したこと。

日本の空を守りたいから少年飛行兵を選んだこと。

その受験が明日だということ。


「なんで、やだ。しばらく晴ちゃん帰ってこれないの?」


「お休みには帰ってこれるのかな。まだよくわからないけど、帰ってこれそうなら絶対に帰ってくるから。」


「やだやだ、なんで軍人になるの?小田家のことはどうするの?」


まだ12歳の鈴にはすぐに現実は受け入れられなかった。

ずっと心の支えだった大好きな人、兄のようにそばにいてくれた人が急にいなくなるというのだ。

家に安息がないが鈴にとって、地獄の始まりだといっても過言ではない。

こみ上げてくる涙を止められなかった。

泣き顔を見られたくない鈴は、プイッと晴男に背中を向ける。


「父さんの後は弟がつぐよ。俺は皆を守りたいんだ。鈴ちゃんのお父さんみたいに。」


「父ちゃんは死んだよ。晴ちゃんまでいなくなったら、鈴いったいどうしたらいいの…。」


グスッグスッと涙を流す鈴。

背中が震えていた。


「そのことで話がしたかった。鈴、聞いてくれる?」


鈴は晴男に初めて

と呼ばれ、涙でグシャグシャな顔で晴男に向き直る。

あまり背の高くない晴男と、ひょろりと女の子にしては背の高い鈴の目の高さはだいたい同じである。

その泣き顔に愛おしさが湧き上がった晴男は自然と笑顔になり、鈴の頭に手を伸ばし撫でた。


「俺が無事学校を卒業してパイロットになってさ、鈴も高等小学校を卒業したらさ…。」


「うん…。」


まだ鈴の目から涙が零れ落ち続けている。

晴男は言葉に詰まった。

続きの言葉はもう決まってる。

決まってるのだが…口からそれは出てこない。


晴男はふと空に目をやった。

雲一つない真っ青な空だった。

鈴の父親が先にイイヨと言ってくれている気がした。

優しい風が吹く。


きゅっと鈴に視線を戻す。

まるでうさぎのように目を真っ赤にした鈴が、不思議そうに次の言葉を待っていた。

晴男は一度深い深呼吸をする。

フーッと息を吐き、スーッと山の空気を肺いっぱいに取り込んだ。

通い詰めたこの場所が、まるで味方になってくれたように感じられた。


「結婚しよ。」


しっかりと鈴を見た。

鈴の赤い目が見開かれる。

衝撃。

その衝撃で鈴の時間が止まる。

呼吸すら忘れていた。

大好きな大好きな晴男からの

はやすぎるプロポーズだった。

故に現実を脳が処理できなくなっている。

コロンとした瞳で言葉を発しない鈴に不安を覚える晴男。

いつもの鈴なら、なるー!とめいっぱいの笑顔で答えるはずだったからだ。


「…鈴ちゃん…?」


自分がちゃんと視界に入ってるかすらわからなくて、晴男は鈴の顔に少し自分の顔を近づける。

とたん、年齢の割にすらりと長い鈴の足が崩れ落ちた。

腰をぬかしてしまったようだった。


「…いいの…?」


か細い声だった。

聞き取れなかった晴男はもう一度話すように促す。


「鈴でいいの…?」


衝撃で止まっていた涙が再びこぼれ落ちそうだった。

今にも泣き出しそうなその表情に愛情が湧き出る晴男。

晴男は腰を落とし、鈴と同じ目線となった。


「鈴ちゃんがいい。てか、鈴ちゃん以外とか考えたこともなかったよ。」


最初はただ可哀想な子だと思っていた。

妹の幸子と同い年だから、妹と遊んでる姿をよく見ていたが、いつも母親に呼び戻されていた。

地主様の子にあんたなんかが近づくんじゃない!

いつもそうやって叱りつけられていた。

礼儀に厳しすぎただけだったのかもしれないが、髪を無理やり引っ張ったり、しつけが行き過ぎてるんじゃないかとは子どもながらに思っていた。

だからただ…可哀想だなと思っていた。

でも鈴は決してめげないし、こちらが圧倒されてしまうくらい元気で明るかった。

体に傷跡は増えているのに、心配させるようなことは絶対言わなかった。

いつも、そういつも笑顔だった。

だから可哀想だけどそういう子なんだって思ってた。

大人びて見えてた。

でも違った。

鈴の父親がそばにいる時の鈴は何倍も光り輝いて見えた。

子どもらしくお腹の底から笑っていたのだ。

鈴は自分よりも年下なのである。

鈴はまだ子ども、当たり前だった。

尊敬する鈴の父親がいない間、自分が鈴を守ろうと決めた瞬間だった。

この子どもらしい笑顔を守らなければならないと思った。


「鈴…晴ちゃんのこと待ってる。」


うわぁ〜んと声をあげて号泣する鈴。

嫌だ。遠くに行かれるのは嫌だ。

でも、結婚約束は嬉しい。

感情のうねりが嵐のようだった。

嬉しくて泣いてるのか、寂しくて泣いてるのか。

鈴にすらわからなかった。


泣きじゃくる鈴の頭をポンポンと撫でる晴男。

嬉しくてはにかんでしまう。

恥ずかしくてニヤけてしまう。

晴男もまた温かい感情が暴走しそうだった。


二人の向こうには、二人が住む村、川、木々があり、真っ青な空がその上に広がっている。

真っ青。

雲一つなかった空の向こう。

飛行機雲が伸びていく。

それはパイロットを目指す晴男には祝福の一筋に見えたのだった。

晴男は鈴を強く抱きしめた。



晴男の受験日よりまもなく、小田家に荷物が届いた。

中に入っていたのは、清が晴男に貸した洋服と一通の手紙。

晴男は難関の陸軍航空学校に入校が決まったとのこと。

この日、小田家は万歳三唱のち、清がまた村民を家に招くと走り出し、ハナはあくせく料理をこしらえた。

晴男本人不在の合格祝いが開催される。

原田家も招かれ、お固い原田母は頑なに遠慮したが、晴男の想いを知るハナ直々に原田家一同を迎えにあがり、鈴だけはなんとか祝いの席に参加できた。

晴男はいない。

だが鈴は決して寂しくなかった。

あの約束があったから。


晴男はいよいよ航空学校での生活が始まる。

緊張と期待を胸いっぱいに布団に入る。

ふと、鈴の父親の笑顔が頭に浮かんだ。


「頑張りなさい。」


そう言われた気がした。

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