第十集:わずらう心

 飛行すること一時間と少し。

 緋灯ひとう山を開拓して造られた土地、緋灯ひとう村へとたどり着いた。

 三人は木立に隠れて玄絹シュェンジュェンを脱ぐと、夜の闇に乗じて行動を始めた。

 村は段々畑が示すように高低差があり、陽の光が照らす中で目にすることが出来たならとても美しいだろう造型をしている。

 しかし、三人には景色などどうでもよかった。

 上空から見て把握した通り、まっすぐと緋天廟ひてんびょうに向かって歩いていく。

 誰にも見られないよう、細心の注意をはらいながら。

「夜だから、さすがに門は閉じてあるね」

 囁きよりも小さな声で夏籥シァイャォが言った。

 三人は一際ひときわ暗い壁沿いを歩いていく。

 睿琰ルイイェンは周囲を見渡しながら言う。

「他に出入口はなさそうだ。壁を乗り越えよう」

「私達いつもそうじゃない?」

 先に煙紅イェンホンが浮かび、中へ続いている参道に人がいないことを確認した。

 順番に壁を越え、地面に降り立つ。

 本堂の前まで来ると、扉の隙間から中を覗く。

「……誰もいないみたい」

 夏籥シァイャォが頷く。

 煙紅イェンホンは錠に手を翳し、急速に凍らせてそれを砕いた。

「手際が良いね」

「褒められている気がしないんだけど」

 音を立てないよう、慎重に扉を開く。

「わ……。ここも観音様だ」

 緋天廟ひてんびょうへと入った三人は、さっそく何か手掛かりがないか探し始めた。

「ここの御利益は病気平癒へいゆとか五体満足とか、健康に関することらしいよ」

 夏籥シァイャォは参拝に来る人々が書いたであろう台帳をめくっている。

 よく手入れが行き届いた堂内は塵一つなく、清廉なこうの残り香が漂っている。

 音が広がり良く響く空間を可能な限り静かに歩いていると、睿琰ルイイェンが持っている禍珠かじゅが巾着の中で黒く明滅しだした。

「まさか……」

 煙紅イェンホンが廟の中を睨む。

禍珠かじゅがあるのか」

 睿琰ルイイェンは観音像へと身体を向けた。

 光が強くなる。

 目を凝らし、観音像の瞳をよく見ると、左眼にはめ込まれているのは水晶ではなく禍珠かじゅだった。

「あったぞ」

 夏籥シァイャォが浮かび、禍珠かじゅを確認する。

って書いてある」

 その時、誰かが門の鍵を壊し、参道へと駆けこんでくる音がした。

 三人はひとまず観音像の後ろに隠れる。

 やってきたのは幼い女児を抱きしめた身なりの良いふくよかな男性。

 女児はひどくうなされている。

「観音堂の扉が開いている! ああ、助かった……」

 男性は女児を抱えて観音像の前まで来ると、勢いよく膝をついた。

「お願いします、螢惑けいこく観音様。娘のやまいをお鎮め下さい」

 男性が観音像に向かって祈ると、すぐに女児の息が整い、健やかな寝息に変わった。

「間に合った……。よかった、本当に良かった」

 男性は目に涙を浮かべながら、眠る娘を連れて廟を後にした。

 その様子を観音像の後ろから見ていた三人には、何が起こったのかわからなかった。

「どういうことだ」

 睿琰ルイイェンは観音像の前まで来ると、その左眼を睨みつけた。

「わからない。でも、あの禍珠かじゅをとるのは待った方が良いのかも。朝が来たらあの女の子と父親に会いに行こう。あれはただの病なんかじゃないもの。祈っただけで症状がおさまるなんておかしいよ」

 夏籥シァイャォの提案に煙紅イェンホンが頷く。

「なぜあの女の子の症状が回復したのかを調べるまでは、禍珠かじゅに手出しは出来ません」

 煙紅イェンホンは胸が騒めき、指先が冷たくなっていくのを感じた。

「二人の言う通りだ。明日、事情を探ろう」

 睿琰ルイイェンも頷き、禍珠かじゅを睨みつけた。

 三人は廟から出ると、近くの林へ入り、そこで野宿をすることに。

 煙紅イェンホン玄絹シュェンジュェンを枝にかけると、それを屋根にした。

 三人で順番を決め、交代で見張りにつき身体を休める。

 数時間経つと、空が白み始めた。

 見張りについていた煙紅イェンホンの横で、睿琰ルイイェンがゆっくり目を開ける。

「まだ寝ていて大丈夫ですよ」

「……体調はどうだ」

「とても元気です」

「そうか」

 静寂の中に、風で揺れる葉の音や、鳥の鳴き声が流れる。

煙紅イェンホンは……」

 睿琰ルイイェンが言葉に詰まる。

「なんでしょう」

 続きを促す優しい煙紅イェンホンの声が、胸をくすぐる。

睿犀ルイシーを滅することが出来たら、そのあとはまた禪寓閣ぜんぐうかくへ戻るのか」

 問いに込めた気持ちを隠しながら、睿琰ルイイェンは答えを待った。

「そうですね。夏籥シァイャォと一緒に戻るには戻りますけど……」

 風が二人の間を通り抜ける。

「修業しながら気ままにあちこち出掛けると思います」

 睿琰ルイイェンは、のどから手が出そうなほど欲しい答えを導くような言葉を飲み込み、「そうか」と呟いた。

寧燕ニンイェンは……」

 睿琰ルイイェンは起き上がり、煙紅イェンホンと向き合った。

「私は皇宮へ戻り、皇太子として民に尽くす。睿蘭ルイラン兄上や父上と天下を論じ、民にとって何が最善かを考えて生きていく。だから……」

 もう会えないかもしれない、と、出かかった言葉を飲み込む。

「立派だと思います。地方へ視察に行く際は、友人兼護衛として誘ってください。夏籥シァイャォも喜びます」

 睿琰ルイイェンは、都合のいい幻聴かと思った。

「私も夏籥シァイャォもまだまだ世間知らずなので、政務のことでは力になれませんが、医仙いせん武仙ぶせんとしてなら、誰よりも役に立つ自信がありますよ」

 柔らかな桃のように甘く爽やかな煙紅イェンホンの笑顔。

 睿琰ルイイェンは息をするのも忘れるほどに見とれてしまった。

 声にならない想いが、言葉に出来ない気持ちが、涙に変わりそうになる。

「友として、傍にいてくれるのか」

「もちろんです」

 胸に閉じ込めておくにはあまりにも大きな感情が嵐のように巡り、睿琰ルイイェン煙紅イェンホンを見つめることしかできない。

 目を逸らせば、この幸せがすべて夢の中の出来事になってしまいそうで。

煙紅イェンホン……」

 甘く清らかな香りが鼻をくすぐる。

 花が太陽の光を求めて花弁を開き始めたのだろう。

 太陽の光が、空を橙に染め始めた。

「そろそろ夏籥シァイャォを起しましょうか」

「あ、ああ。そうだな」

 自分が何を言おうとしたのか、睿琰ルイイェンはわからないふりをした。

 名前をつけられない想いをわずらったまま。

夏籥シァイャォ、朝だよ」

 顔にかかっていた髪がさらさらと流れるその横顔は、寝起きでもとても可憐な様子。

「んん……、おはよう。……二人とも元気?」

「元気だよ」

「ああ。私も元気だ」

「よろしい」

 寝惚けながらも、友人達の顔色や声の調子を確かめる夏籥シァイャォ

 今立ち向かおうとしている事案は、控えめに言っても過酷だ。

 大切な友人を失わないよう、医術師として、医仙いせんとして出来ることは全てやっておきたい。

 夏籥シァイャォもまた、二人のことを大事に思っているのだ。

「身支度をしましょう」

 煙紅イェンホン夏籥シァイャォくうから様々なものを出し、三人は身なりを整えた。

「やはり、こっちの服の方が落ち着く。煌びやかな刺繍は苦手だ」

「私達もこっちの寧燕ニンイェンの方を見慣れているものね」

 動きやすい深衣しんいに着替えた三人は、朝餉のために竈に火が入り始めた村の中へと入って行った。

「あの父娘おやこを探さないとね」

「どうやって探しましょうか。緋灯ひとう村は思っていたよりもずっと広いようです」

 湯気につられるように屋台へ近付いていく。

「こういうときは噂話を聞くのが一番じゃない?」

 夏籥シァイャォの提案で、村の中心付近まで歩き、そこで見つけた食堂へ入ることに。

「もう開いていますか?」

「お! 旅のお方かい? もしかして、緋天廟ひてんびょうを見に?」

 さっそく店主が笑顔で近付いてきた。

「さあさあ、こちらの席へどうぞ。何にします?」

 夏籥シァイャォは菜の花のような可愛らしい笑顔で「お粥を三つお願いします。それと、観光に役立ちそうなお話を聞かせていただけますか?」と言った。

「そうですねぇ、やっぱり緋灯ひとう村と言ったら緋天廟ひてんびょうですよ。あそこは観光名所ってだけではなくて、本当に御利益があるんですよ」

「わあ、素敵ですね。どんな御利益があるんですか?」

「病気平癒なんですけどね、これがまたすごいんですよ。なんせ、風邪をひいたその日のうちにお参りに行けば、次の瞬間にはけろっと治ってしまうんですから」

 三人は顔を見合わせた。

「お医者さん要らずですね」

「でもまあ、病気によっちゃぁそうもいかない場合もありますよ」

「例えばどんな病気です?」

 店主は複雑な表情で話し始める。

「村の三段目あたりに住んでいるムォ家の姑娘お嬢さんなんですけどね。最初はただの風邪だったらしいんです。でも、その日から三日間緋天廟ひてんびょうは改修工事。お参りに行けなかったようで。夜に娘さんの症状が悪化しちゃってね……。次の日、ちょうど村に行商人が来たので、その人から薬を買って飲ませたら、一時的に回復したらしいんですが……。娘さんの体力が落ちてしまっていたんでしょうね。慢性的な熱病ってやつに罹っちゃって。可哀そうったらないですよ」

 店主は大きくため息をつくと、「暗い話ですみません。でも、緋天廟ひてんびょうはその佇まいの美しさも人気なので、是非楽しんで来てください。お粥、すぐ持ってきますね」と、厨房へ下がっていった。

「ここは医仙いせんの私の出番だね。実際に治せるかもしれないし」

「そうだな。食事を済ませたらすぐに向かおう」

 三人は運ばれてきた艶々と輝く柔らかな粥を食べ、少し多めに銀子ぎんすを払って店を後にした。

 店主は村の三段目にある家だと言っていた。

 よく整備された坂を上り、歩いていると、視線の先にそれらしい家屋が見えてきた。

「他の家より大きい。裕福なのかな」

「行商人が売る薬は安くない。昨夜見た時も身なりがよかったからな。そういうことなのだろう」

 三人は『ムォ宅』と書かれた門の前まで近づいた。

 扉を叩き、中から人が出てくるのを待つ。

 重そうな扉が内側へ開き、侍従と思われる男性が出てきた。

「はい、どちらさまですか」

 煙紅イェンホンが一歩前へ出て作揖さくゆうする。

「突然すみません。こちらの姑娘お嬢さんの話を耳にしまして、参りました。我らは禪寓閣ぜんぐうかくで修業をしている者です」

 禪寓閣ぜんぐうかくと聞き、男性の表情が変わった。

 夏籥シァイャォが前に出る。

「私は医仙いせんです。もしよろしければ、治療のお手伝いをさせていただけませんか」

 男性は「ちょ、ちょっとお待ちください」と言うと、速足で戻って行った。

 興奮気味に話しているのだろう。

 中の声が少し漏れて聞こえる。

「……偽物なら追い出せばいいからとりあえず連れて来いって聞こえる」

夏籥シァイャォ、なかなか歓迎されているね」

「失礼しちゃう」

 先ほどの男性が駆け足で戻って来た。

「中へご案内いたします」

 三人は作揖さくゆうし、ムォ宅の中へと入っていく。

 朝露が煌めく季節の花々が咲き誇る庭。

 置かれている調度品は少し派手ではあるが、嫌味な感じはしない。

「こちらです」

 廊下を進み、家主が待つ部屋へと通された。

「よくお越しくださいました」

 身なりの良いふくよかな男性が神妙な面持ちで煙紅イェンホン達を見て言った。

 一目見て昨夜の男性だとわかった。

 煙紅イェンホンは、先ほど聞こえてきた言動とは打って変わって柔和な態度のムォの目に、縋るような切なる思いが浮かんでいるのを感じ取った。

「本当ならばおもてなししたいところなのですが、その前に娘を診てはいただけませんでしょうか」

「もちろんです」

 三人は案内されるがままやしきの奥へと向かった。

「ここが娘の部屋です」

 中へ入る。

 寝台に横たわるのは、規則正しい寝息を立てる十歳くらいの女の子。

 何を言われずとも、煙紅イェンホン夏籥シァイャォにはすぐにわかった。

 娘はただのやまいではなく、のろいに侵されている、と。

姑娘お嬢さんが飲んでいる薬をお見せいただけますか」

「すぐに持ってまいります」

 ムォに言われ、侍従が持ってきた薬を夏籥シァイャォが受け取る。

「この薬は……、蠟梅ロウバイの香りがする」

「どういう症状に使うのだ」

「頭痛とか発熱。それと、軟膏にすれば火傷にも効果があるよ」

 でも、と、夏籥シァイャォの顔が曇る。

「調べる必要がありそう。……すみませんが、薬について我らで検証したいことがありますので、どこか部屋をお貸し願えますか」

 三人の表情から不安を募らせたムォの命令で、侍従が空き部屋へと案内してくれた。

 煙紅イェンホンは最後に部屋へと入ると、着いてきたムォ達に言う。

「結果が出次第すぐにお伝えしにまいりますので、みなさんは下がってください」

 戸惑いながらも頷いたムォは、侍従達を連れて自室へと戻って行った。

 周囲に誰の気配もないことを確認し、煙紅イェンホン達は声を落として話し始めた。

夏籥シァイャォ、どう?」

「この薬にはのろいがかかっている。それも……」

 夏籥シァイャォ煙紅イェンホンを見る。

 煙紅イェンホンは親友の哀し気な視線を受け止め、頷いた。

黄泉戸喫よもつへぐいなんだね」

「うん……。黄泉の炎で作られた薬だよ、これ」

「だから娘さんが重いやまいに罹っているのか……」

 睿琰ルイイェン夏籥シァイャォの手の中にある薬を睨みつけ、言う。

「そのせいで失いかけている命を、緋天廟ひてんびょうの御神体である禍珠かじゅの力でつなぎとめている……。このままではどうすることもできない」

 三人はここにきて初めての絶望的な状況に、時が止まったように動かなくなった。

「一応聞いてみよう。どの行商人から買ったのか。それがわかれば、その人を捕まえてこれ以上被害が出ないように出来るかも」

「そうだな」

 三人は部屋を出ると、ムォの元へと向かった。

「おお、みなさん。どんな具合でしょうか」

 夏籥シァイャォが一歩前に出て、ムォに尋ねる。

「この薬はどこで手に入れたのですか?」

「旅の商人からです」

 三人はある人物が頭に浮かんだ。

 睿琰ルイイェンが問う。

「もしや、その者は恰幅が良く、黒い深衣しんいを身に着けていたのでは?」

「そうです。御存知なのですか?」

 夏籥シァイャォの目が怒りに燃えた。

春陽チュンヤン伯……。絶対に許さない」

 三人の表情の変化に、ムォは更に不安に駆られた。

「あの、それで娘は治るのでしょうか」

 煙紅イェンホンが微笑む。

「大丈夫ですよ。私達なら救えます」

 その言葉に、夏籥シァイャォ睿琰ルイイェンは弾けるように煙紅イェンホンを見た。

「ちょっとすみません」

 夏籥シァイャォ煙紅イェンホンの腕を掴み、先ほどの部屋へと引っ張っていく。

 睿琰ルイイェンもそれに続く。

 部屋へ入ると、夏籥シァイャォは外に声が漏れないよう結界を張った。

「どういうつもりなの、煙紅イェンホン

 詰め寄る夏籥シァイャォ睿琰ルイイェンの目に、焦燥と悲痛が浮かぶ。

「私なら彼女を救える。そうすれば、緋天廟ひてんびょうにある禍珠かじゅを持って行けるし、これ以上緋灯ひとう村に災厄は降りかからない」

「何を言っているの⁉ 黄泉戸喫よもつへぐいのろいを二つも身体に封じるなんて、私は絶対に許さない!」

 夏籥シァイャォが思いを堪えきれずに泣き出した。

「私達の気持ちも考えてくれ、頼む」

 睿琰ルイイェンは縋るような目で煙紅イェンホンを見つめる。

 それでも、煙紅イェンホンの決意を変えることは出来なかった。

「悲しませてごめんなさい。でも、こうするしかないって二人にはわかるでしょう?」

 希望を得るには、絶望を選択しなければならない。

 それも、大切な人の命を賭けて。

「親友が苦しむのを、ただ見ていろって言うの……?」

 夏籥シァイャォかすれた声が、煙紅イェンホンの胸に突き刺さる。

 わからないわけではない。二人がどう感じるのかを。

 もし逆の立場だったなら、二人のようにめるよう説得するだろう。

 優しい友人達を苦しめたいわけではない。

 ただ、これが最善だと思うから、煙紅イェンホンは二人に相談することなく決めたのだ。

「お願い、夏籥シァイャォ

 例えのろいを封じることが出来たとしても、ムォ氏の娘にはやまいに苦しめられてきた日々で体内に負った傷がある。

 それを確認し、適切な薬を出せるのは夏籥シァイャォだけだ。

 そして、のろいを封じた後の煙紅イェンホンの状態を診ることが出来るのも。

夏籥シァイャォ……」

 突如、破裂音のような音がした。

 夏籥シァイャォが自身の頬を両手で挟むように叩いたのだ。

「私の許可なく死んだら、殺してやるから」

「わかった。抵抗しないよ」

 睿琰ルイイェンは決意を固めた二人を見て、水底に引きずり込まれているような苦しさを感じた。

 涙が肺に溜まり、まるで溺れているような感覚。

 音が遠くなり、世界が滲む。

「……いぇん、寧燕ニンイェン

 煙紅イェンホンの声に、現実に戻ってきた睿琰ルイイェン

「なんだ」

 言葉に棘を含んでしまうと同時に、後悔と罪悪感で押しつぶされそうになる。

寧燕ニンイェンの霊力を、少し分けてもらえませんか」

「霊力を……? かまわないが」

「よかった。これで、怖くなくなります。正面から黄泉戸喫よもつへぐいと戦える」

 睿琰ルイイェンの手が、心が、視界が揺れる。

 気付いたら腕を伸ばしていた。

 睿琰ルイイェンの腕の中に、煙紅イェンホンの身体が包まれる。

「友として傍にいる。それは私も同じだ」

「わかっています、寧燕ニンイェン

 それを見た夏籥シァイャォは「私もぎゅってする!」と、腕を広げて二人を包み込んだ。

 互いにゆっくりと身体を離し、少し照れ臭そうに微笑む。

「さあ、行きましょう。娘さんと、天下を救うのです」

 夏籥シァイャォは頷き、結界を解いた。

 睿琰ルイイェン玄絹シュェンジュェンを借り、禍珠かじゅをとりに緋天廟ひてんびょうへ。

 夏籥シァイャォ煙紅イェンホンムォに「今から治療します」と告げに行き、そのまま娘の部屋へ向かった。

 濃いのろいが放つ瘴気にむせてしまいそうになりながら、煙紅イェンホンは娘の側に座り、その手を自身の手と繋ぐ。

 夏籥シァイャォが見守る中、煙紅イェンホンは目を瞑り、封印の力を発動した。

 左手に痛みが奔る。

 それは腕へと広がり、肺を侵して全身を巡る。

 息をするたびに苦しく、砕けた硝子を飲み込んだよう。

 頭は中から破裂しそうなほどの強い痛みにさいなまれ、足は痺れて感覚がなくなっていく。

 口から氷煙ひょうえんが漏れ出す。

 それはかつてないほど白く、周囲の人の睫毛が凍るほど冷たい。

 息に赤が混じり始めた。

 顔中で血のにおいがする。

 耳鳴りが、早鐘のように脈打つ鼓動の音を消し去り、世界を覆う。

 胸が内側から凍傷したように酷く激しく痛む。

 途切れそうになる意識を何とか保ちながら、黄泉戸喫よもつへぐいを身体に吸収していく。

 左手から順に痛みが引き、すべてを身体に封じ終えた瞬間、煙紅イェンホンは激しく咳き込み始めた。

煙紅イェンホン!」

 そこへ、ちょうど戻ってきた睿琰ルイイェン煙紅イェンホンの身体を支える。

 ムォが心配そうに見つめる中、夏籥シァイャォはすぐに娘へと近づくと、脈と呼吸、顔色、白目の色や瞳孔を確かめ、くうから取り出した調剤道具で素早く薬を作った。

「これを三日間朝昼晩の食事前後に飲ませてください」

「ああ、なんとお礼を申し上げれば……」

「礼には及びません。すみませんが、これで失礼いたします。今度は仲間の治療をしなければならないので」

 夏籥シァイャォ睿琰ルイイェンは赤い氷煙ひょうえんを吐き続ける煙紅イェンホンを支え、ムォ宅から出ていった。

禪寓閣ぜんぐうかくへ急がないと」

 あるじの危機を察したのか、玄絹シュェンジュェンが大きなからすへと姿を変えた。

「行こう、寧燕ニンイェン

 睿琰ルイイェン煙紅イェンホンを抱えながらすぐに乗ると、夏籥シァイャォと共に周囲の目も気にせず飛び立った。

 赤い氷煙ひょうえんが風に乗って流れていく。

 煙紅イェンホンはほとんど開かない眼で睿琰ルイイェンの顔を見上げ、そのまま意識を手放した。

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